第1話
今から30年前、世界中が忘れもしないとある事故が起きた。
歴史学者の中で通説である、この世界に満ちる魔力が生まれたとされる時代、零転記とよばれる時代があった。そして、零転記の頃に魔力を性質で分け、魔法として使えるように存在を固着させたのが伝説上の人物、零地点の祖王である。
その祖王の一人、赤炎王ギルラガンの遺物に当たる一冊の書物が巻き起こしたのは大火事だった。
誰かが言った。頁をめくると現れたのは白い人影だった、と。顔も体も何一つ判別できないが、それでも人の輪郭をしていたと。
白い人影はその場に屈むようにしてみせると、その一部が腕の形を浮かび上がらせた。その先端に5本の指を備えて静かに、大地を掴んだ。そこからは刹那の間。一息という言葉すら憚られる速度で赤い炎が地表を覆って人を、大地を、空を、魔獣を全て等しく呑み込んだ。生命の可能性を何もかもむしり取った、一人の王が残した魔法。その被害は、大陸の4割を焦土に変えるほどであった。
以来、遺物が発見された大陸はフロントラインと呼ばれ、国家権力が及んではならない土地とされた。正確にはフロントラインに足を踏み入れた瞬間、社会的地位を保証する義務を世界中が放棄するということが起こる。あらゆる地位が失われるのだ。
学者の一部は、フロントライン独自の組織体制キャラバンに着目し、彼らを雇うことで間接的に調査を進めようとした。セレスティアも学者ではないがその一人で、ほとぼりは冷めても風向きは悪かった。
「……焦りすぎ、なのでしょうか」
彼女の問いに答えるものはいない。窓に差し込んでいた夕陽も、濁るように黒くなっていく。
カーテンを閉じ、机に鍵をかける。息詰まるような苦しさを、セレスティアが今まで感じないことは無かった。壁一面の装飾も、本棚の華美な飾りつけも、全て偽物に見えてしまう。何かが違うと思ってしまう。
気が付けば、制服の裾をギュッと握りこんでいた。
フロントライン第147地区。居住区域のDST9-33。メルトゥグは別名、「鈍色の街」と呼ばれている。クレーターのように陥没した土地は、昼間でも太陽の光が届きづらい。暗がりの中の寂れた建物群には鉄パイプが各箇所に繋がれていて、ニューロンのような網目状で空を覆う。工場の稼働音は夜になっても響き、街全体が胎動しているような音をさせる。
(こうして見ると、やっぱ帝国は住みやすい土地なんだな)
およそ半日前の帝国の情景を、イガラシは自分の故郷と照らし合わせていた。夜中で一層暗いということを差し引いても治安の良さ、道路の整備、それら含めた住みやすさは比べるまでもなく……こちらが悪い。
メルトゥグに着いて20分後。何一つ店が開いていないメインストリートを横切り、マンションの跡地が多く残る区画の左隅。目の前には1つのバーが見えていた。NIveと書かれた看板の横に立って扉に手を掛けようとすると、人影が一つ扉越しに迫る。
「おかえり、イガラシ君」
扉を開けると同時に、腰まで伸びた金髪が最初に目に映った。薄いシャツの上にパーカーを羽織ったり、スニーカーを履いていたり。男らしい恰好をした、自称街の看板娘がそこにいた。
「ただいまベズリー。……つっても日帰りだったけど」
ベズリーは日頃、篝火の狐の事務所の一階のバーでアルバイトをしている。……こう言うと大層立派に聞こえるが、日に30人くればいい方で、上を貸してくれたマスター本人も月1でしか顔を出さない。
「ヒュームは?まだ来てないのか」
「ううん。来てるわよ、ホラ」
おもむろにポケットに手を突っ込み、中から携帯端末を取り出す。画面には何も映っていない……が。気怠そうな声が聞こえてくる。
『どーもっす、イガラシさん。なんか外に出るの億劫になっちゃったんで、僕はここから』
「……下に降りるだけだろうに」
『僕としてはむしろ上に上がって頂きたいんすけどね』
部屋の電気も点けずに応答するジャージ姿が目に浮かんだ。イガラシもベズリーも、ヒュームとは6年以上の歳月が経っているが、後輩口調は一向に無くならない。
「……でさ、3人揃ったのはいいけど。今日は何するの?連絡したのって昨日の今くらいよね?」
ベズリーが指さした時計は、もう外枠の塗料が剥げかかっている。店内の暖色の明かりが年季を露わにしているのを感じた。
「あ、そうそう。セレスティアさんのところへ報告をした後でさ。中々のことを頼まれたんだ。……ベズリー、これ読んでくれ。ヒュームに聞こえるように」
「え?……まぁいいけど。………キャラバン軍勢の飛蝗より通達。フロントライン第226地区、ラスパンにて。性質不明のイドラを確認……4日後までに検証と報告を終えること……」
少し、間が空いた。ベズリーは首を傾げつつ、他に書いてあることは無いか確認をしていた。という訳だ。と言ってやると、ゆっくりと返事が返ってきた。
『……イガラシさん、フロントライン第226地区って』
「ああ、ここから半日近くかかるな」
「で、ラスパンからエルダムス帝国って」
「……ここから1日半。合わせて2日」
『「……」』
「明日の午前10時に、出発するから」
その日、もう言葉にならない両者のため息しか聞こえてこなかった。




