第102話『結託し、繋がる心』
シュパッ――と、静かな音と共にバスケットボールがネットを揺らす。そのままコートに落下したボールは何度かバウンドした後に動きを止めた。
「……それで、どうすんのよ」
ゴール下にいた葵雪はボールを拾い上げると、スリーポイントラインに立っている小夏に向かってボールを投げ渡す。
しかし、葵雪の非力さでは小夏まで一直線に届くことはなく、少し手前でバウンドしてから小夏の手の中に収まった。
「あの様子じゃ、もうこっちの話なんて聞く耳持たないわよ。取り返しのつかないことになる前にどうにかしないと」
「……そんなこと言われなくても分かってますよ」
少し怒ったように小夏は言葉を吐き捨てると、俺に向かってチェストパスを放つ。
一応受け止めたが、怒りの感情が乗せられたパスは強くて重たい。痺れる手でボールを構え、そのままシュートを放つと、ボールはゴールに吸い込まれるように綺麗な軌跡を描いてネットを揺らした。
「どうにかしないとって言っても、何をすればいいのか分かんねぇよ……」
シュートフォームを崩し、俺はそのままコート内にしゃがみ込んだ。何を考えてもため息しか出てこない。さっきの出来事が精神的にかなり負担になっていた。
「真っ向から拒絶されたんだぞ? 諦めるつもりはないけど、何がひよりの為になるんだ? どうすることが一番正しい選択なんだ? 何も分かんねぇよ……」
弱音が愚痴のように零れる。考えれば考えるほど思考は暗闇に囚われていく。けど、ひよりの抱えている闇は俺のとは比べ物にならないほど深い。
一番傷ついているのはひよりなんだ。でも、ひよりが傷つく原因を作ってしまったのは他でもない俺たち。あの時、何もしなければこんなことにはならなかっただろう。その場の感情に身を任せてしまったことを後悔するにはあまりにも遅すぎた。
「こんな世界は初めてよ。これまで何度も佐々木たちがあたし達にちょっかいを出てきたことはあった。けれど、あいつらが絡んでここまで酷いのはこの世界だけね」
「世界が変われば事象も変わる。同じ時間を繰り返しても、同じことが起きるとは限らない。だからこそ、こういうことだってありえるんだよ」
二人の口調は妙に冷静で、それが頭に来た俺は怒りを露わにして硬い床を殴り付けた。
鈍い音が体育館に木霊し、二人は口を噤んで俺を見つめる。四つの瞳には感情というものが宿っておらず、俺は二人のことを睨み付けて舌打ちをした。
「お前らは友達が酷い目にあってるってのに何も思わないのかよ」
自分でもゾッとするほど低い声が出た。
滅多に怒ることがない俺は、腹の底から沸き上がってくる黒い感情をどう扱えばいいのかが分からない。しかし、このまま黙っていることも出来ず、あの時と同じように感情に身を任せてしまう。
きっとこのあと、俺はまた後悔するんだろう。でも押しとどめることなんて出来そうになかった。噴火直前の火山がその猛威を抑えきれないように、喉元まで沸き上がってきたこの感情を今更飲み込むことは出来ない。
「なぁ、お前らひよりのことどう思っているんだよ? 本当に友達って思っているのかよ!? どうしたらそんな冷静な態度でいられるんだよ!! おかしいだろ!?」
「……落ち着きなさいよ修平。激昴したところで状況は何一つ変わらないのよ」
「そんなの言われなくても分かっている!! 俺が怒っているのはそこじゃない。俺はお前らの態度が気に入らないんだよ!!」
広い空間に俺の怒声が響き渡る。それでも二人は表情一つ変えることはなかった。
なんだ? 何なんだよ。俺が間違っているのか? もう何がなんだか分からない。どちらが正しいのか、それともどちらも間違っているのか――冷静さが欠けてしまった今の俺には判断がつかない。
深い闇の底に意識が沈んでいく。それは毒のように身体を蝕み、縋る藁すらもない俺にはもうどうすることも出来なかった。
しかし、自分自身すらも見失いそうになった時、冷たくなっていた体に温かいものが触れる。ハッとなって顔を上げると、小夏が俺の肩に手を当てて、今にも泣き出しそうな笑顔で見下ろしていた。
「……お兄ちゃん、聞いて」
どうしてそんな酷い顔で笑っているんだよ――そんなこと聞けるはずがなかった。何故ならば葵雪も小夏と同じような表情をしていたからだ。
悲しみを堪えるように、一度唇を強く噛み締めたあと、小夏は震える声で俺に語り始める。
「私たちは本当の絶望を知っている。何度も見てきたし、何度も経験してきた。お兄ちゃんにとって私たちの態度は確かに気に入らないかもしれない。でもね、お兄ちゃん――」
そこで一旦言葉を区切ると、小夏は腰を下ろし、そのまま俺のことを抱き締めてきた。自分の震えを隠すように強く、強く、強く――。
だからこそ、その震えを間近で感じたからこそ気づいた。震えている小夏だって、今も尚立ち尽くしている葵雪だって――辛いんだ。俺と同じように激昴したいけれど、この二人はそれ以上の絶望を知っている。今よりも辛い現実をこれまで数え切れないほど味わってきているのだ。
だから俺はこれから小夏が何を言うのか分かってしまった。
「――まだ、誰も死んでいないんだよ。花澤さんは――生きているんだよ」
……ああ、そうだ。そりゃそうだ。死んでしまったら何もかも終わりなんだ。生きていれば僅かでも可能性はある。けど、死んだら可能性すらも残らない。あるのは永遠に続く絶望の闇だけ。そこには一筋の光すらも届かずに飲み込まれてしまう。
凍りかけていた心を溶かしてくれた小夏は俺から離れると、バトンタッチと言うように葵雪にアイコンタクトを送る。
小夏の意思を受け取った葵雪は雪のように白い髪をかき上げ、アメジスト色の瞳で真っ直ぐ俺を見据えた。
「生きていればそれで幸せとは流石のあたしも言わないわ。ひよりが今抱えている辛さはあたし達には到底計り知れない。そりゃそうよね、友達とはいえ、自分のことじゃないんだから分かるはずがないわ」
葵雪はため息を吐き、ボールを拾い上げると、俺に向かって不格好にパスをしてきた。
小夏と比べるとスピードも威力も無いパスだけど、このボールに込められた思いは、俺が今抱いているものと同じくらい重かった。
「あたし達は常に冷静でいる必要があるわ」
「葵雪……」
「そして考えなければならない。これからどうするべきなのか。どうすればこの世界を終わらせずに済む結末にできるかを」
葵雪が両手を突き出してくる。ボールを寄越せということだろう。俺は葵雪でも取れるように軽くパスをした。
軽くというより、力が入らなかったと言った方が正しいかもしれない。葵雪の手前でバウンドしたボールはそのまますっぽりと葵雪の手の中に収まる。
「いい? 修平。何があろうと本来の目的だけは忘れちゃいけないのよ」
手の上でボールを弄びながら葵雪は口を開く。小夏は特に何も言うつもりは無いらしいが、代わりに俺の隣に座り、手を握ってくれた。
ついさっきまでは温かいと感じていた手だったが、こうして直接触れてみると驚くほど冷たい。だから俺は自分の温かさを少しでも分けてあげるために強く握り返してあげた。
「目的を忘れたら最後、あたし達は永久的に現実に戻れない」
葵雪はそれをチラッと一瞥すると、何事も無かったかのように話し始める。
「それは誰も望まない結末よ。誰も死なず、幸せな結末を迎える――それがあたし達のやるべきこと――やらねばならないこと」
それが出来なければ世界はリセットされてしまう。リセットされてしまったら後悔しても遅い。いや、後悔すらできないだろう。記憶が無くなってしまうのだから当然のことだ。
「冷静さを取り戻しなさい修平。あんたらしくないわよ。あたしの知っている修平は、何か良くないことが起きても冷静に対処する努力していたわ。そして、必ず誰かを幸せにしてあげてきた。あんたにはそういう力がある。あたし達みたいな特別な力じゃなくて、心から誰かを幸せにしてあげる心の力があるのよ」
「俺が、幸せに……」
「そうよ」
そう葵雪は断言する。自分の事とはいえ、記憶が無いから分からないが、果たして俺はそこまで賛美されるほど綺麗な人間なのだろうか?
「あたし達はこれまでに何度も修平に助けられてきたわ。だから――今回も助けてあげなさい」
記憶が無いのはやはり不安になる。
でも――過去の俺を知っている葵雪が、今の俺の背中を押してくれようとしているのであれば、俺はその期待に答える義務がある。
「ここが小夏の世界であろうと関係ない。世界が確定されているのであれば修平と小夏の未来も確定されているの。だったらあんたのその優しさでひよりを救ってあげなさい。そして――小夏と幸せになりなさい」
そう言って葵雪は表情を崩す。この場には似合わないほど輝かしい笑顔だった。
ああ……葵雪もこんな顔をすることができるのか。いつかの世界の俺は葵雪をどこまで知っていたのだろう。それが分からないのがほんの少しだけ寂しかった。でも――そこまで言うのなら、ここまで俺のことを信じてくれるのであれば――
「誰もが幸せな世界で、小夏との幸せな結末を迎える世界を創りなさい。それが修平が今やるべきこと。あんたにしか出来ないことよ」
――やるしかない。
葵雪の言う幸せな結末に辿り着いてみせなければならない。それが俺にしかできないと言うのであれば尚更だ。
「やるかやらないなんて二択は無いわ。やりなさい。あたしは修平を信じている。もちろんあたしも協力を惜しまないわ。小夏との約束もあるからね」
そこで葵雪はようやく俺から視線を外し、小夏の方へと顔を向ける。小夏も葵雪と目線を合わせ、にっこりと微笑んだ。
二人の間に会話は無かった。けど、それだけで通じ合っていた。それを何となく羨ましいなと思いつつ、俺は気持ちを切り替えるために一旦小夏から手を離し、両頬をパチンと叩く。
「あー……いってぇ……」
けど、この痛みのおかげで完全に気持ちを切り替えることが出来た。
「目付きが変わったわね。もう大丈夫かしら?」
笑いながら訊ねてくる葵雪に俺は頷きを返す。
小夏もそんな俺を見て嬉しそうにしていた。この笑顔の為にも、俺は俺がやれることをやり遂げよう。ただその為にはほんの少しだけ勇気が欲しい。
「――好きだ」
だから俺は小夏と向き合い、なんの迷いも無くそう告げた。
「うん、私も大好きだよ、お兄ちゃん」
本当に突然の告白だったのに、予めこうなることを予期していたかのように小夏は答え、葵雪は笑顔を浮かべていた。
「分けてあげる。お兄ちゃんに――私の勇気を――」
そう言いながら小夏は俺の顔に近づいてくる。
「ああ、分けてくれ――お前の勇気を」
そうして俺たちは唇を重ね合った。
初めて触れる妹の唇は驚くほど柔らかく、そして気持ち良かった。
これは誓いのキスだ。
小夏との幸せの結末を迎えるための誓い。そんな夢のような結末を迎えるためには、今を変えるために動き出さなければならない。
「ありがとな、小夏。お前の勇気、確かに受け取った」
「私も頑張るよ、お兄ちゃん。一緒に歩んでいこうね」
俺たちは笑い合う。
大丈夫。小夏と二人でならばどんな困難も乗り越えられるに違いない。だって俺たちは兄妹という固い絆で結ばれ続けていたのだから。
「良い雰囲気のところ悪いけど、あたしがいるもいるってことを忘れないで欲しいわ」
「忘れちゃいないさ。それよりも考えよう。これからのことを」
俺たちは頷き合う。そこにはもうつい先程までの暗い意思は無い。あるのは未来へ向けた希望だけだった。
to be continued




