第6話
母上の茶会の上座は、最後まで空いたままだった。
王太后陛下のためにと、母上がひと月も前から用意させていた椅子だ。背もたれの金の房飾りをつけ直させ、王都でいちばん高い菓子店に砂糖細工の塔を作らせ、テーブルの真ん中には母上がいちばん大事にしている白磁の茶碗を据えた。去年の母上の誕生日に、僕が贈った茶碗だ。どれも「陛下がお立ち寄りになる茶会だから」と言って、代金はすべて後払いにしてある。
その空っぽの椅子の前を、招いた客たちが一人、また一人と素通りしていく。
「まあ、侯爵夫人。今日はお招きありがとう存じます。でも、ごめんなさいね、主人が急に熱を出しまして」
「わたくしも、午後から用事があったのを思い出しましたの」
慈善院での騒ぎは、僕たちの馬車より先に王都じゅうを駆け回っていたらしい。三十人を招いた客間に顔を出したのは十人にも満たなくて、それもほとんどが母上の顔を見物しに来ただけだということは、扇の陰でにやにや笑っている口元を見れば僕にも分かった。
「宮廷に出入りできない方のお茶会に長居したら、うちまで睨まれてしまいますものね」
最後の客が、わざと聞こえる声でそう言って出ていった。
扉が閉まった瞬間、母上はテーブルの白磁の茶碗をつかんで床に叩きつけた。
「なによ、なによ! 先週まで、わたくしの機嫌を取ることしか考えていなかったくせに!」
真っ白な破片が、絨毯の上に散らばる。母上はそのまま空いた上座に崩れるように座りこんで、子どものように声を上げて泣き出した。
僕はどうすればいいのか分からなくて、ただその場に突っ立っていた。母上が人前で泣くところなんて、生まれてこのかた一度も見たことがない。
その夜、伯父上が屋敷に怒鳴りこんできた。
「宮内府次官を解かれたぞ! お前が欲を出したせいだ、ベアトリス!」
「お兄様だって、陛下がうちにお立ち寄りになれば出世の足しになるとおっしゃったじゃありませんか!」
「黙れ! 私の三十年を返せ!」
伯父上と母上は、使用人たちの前で、聞くに堪えない言葉を投げつけ合った。慈善院の礼拝堂で指をさし合っていたときよりも、ずっと醜い顔で。
そこへ執事が、青い顔で何枚もの紙を盆にのせて入ってきた。
「奥様。菓子店と花屋と茶葉商から、今日のうちに代金を支払っていただきたいと。陛下のお立ち寄りがなくなったと聞いて、後払いのお約束はなかったことにしたいと申しておりまして」
母上は請求書の束をひったくり、いちばん上の数字を見たとたん、白粉よりも白い顔になっていく。
月曜の朝、僕は王宮の儀典局に出仕するなり局長に呼ばれた。
「ロウリー君。しばらく、登庁は控えてくれたまえ」
「な、なぜです! 僕は何も」
「君の母上と伯父上は、王太后陛下に宮廷への出入りを差し止められた。そのご家族に、陛下の儀典の書類を触らせるわけにはいかんのだよ」
分からない、と言いたかった。けれど局長の後ろで同僚たちが一斉に目をそらすのを見たら、喉がつかえて言葉にならない。
廊下を歩けば、すれ違う誰もが僕の顔を見るなり口をつぐむ。そのくせ背中を向けたとたん、くすくすと笑う声が追いかけてきた。
「ほら、あれが例の、猫の夕ごはんより下の」
「回廊で読み上げたんですって、自分で。十二位、エドガー様って」
耳の先まで熱くなって、僕は逃げるように角を曲がった。あの日の回廊でのやりとりは、たった一週間で王宮じゅうの笑い話になっている。曲がった先でも、誰かが声をひそめて話している。
「アルノー秘書官、陛下からじきじきにお褒めの言葉をいただいたそうよ」
「宰相補佐のベルンハルト様が、雨の中で傘を差しかけていたんですって」
屋敷に戻ると、母上は寝室にこもったきり出てこなくなっていた。銀器は茶葉商への支払いで半分が消え、古くからいた侍女が二人、暇乞いをして出ていった。
何もすることのない午後、僕は自分の机の引き出しを開けた。探し物があったわけじゃない。手を動かしていないと、頭がどうにかなりそうだった。
引き出しのいちばん奥から、小さな紙の束が出てきた。
リゼットの字だった。
『お母様のお誕生日は来月十日です。今年は東方の白磁の茶碗がお好きだと伺いました。お店には話を通してありますので、エドガー様のお名前で贈って差し上げてください』
『土曜の植物園は、お母様の仕立て屋の件でまた延期で大丈夫です。どうかお気になさらず』
『お母様の頭痛が、早くよくなりますように。お夕食は、またいつか』
最後の一枚の日付を見て、僕は息が止まりそうになった。
去年の、リゼットの誕生日だった。
母上が頭痛だと言ったあの夜、僕は迷いもせずに母上のそばにいることを選んで、リゼットとの夕食を取り消した。それなのに彼女は、恨み言のひとつも書かずに、母上の体を案じる言葉だけをこの紙に残していたのだ。
母上が「エドガーは本当に気が利く子ね」と目を細めて喜んだ白磁の茶碗も、僕が自分で選んだつもりになっていた贈り物の数々も、全部、リゼットが黙って整えてくれていたものだった。土曜に床で砕けたあの茶碗さえ、例外じゃない。僕はそれを当たり前のように受け取るばかりで、一度だって、彼女が何を好きなのか聞いたことがなかった。
なんて、ばかだったんだ。
猫より下だと言われて頭に血がのぼったあの日、僕は自分が下に置かれたのだと思っていた。
違った。先に彼女をいちばん下に置いていたのは、僕のほうだった。
火曜の夕方、僕はアルノー家の門を叩く。
出てきたのはリゼットではなく、アルノー伯爵その人だった。伯爵は玄関の扉を半分だけ開けたまま、僕を中へ入れようとはしない。
「リゼットに会わせてください! 謝りたいんです、僕が間違っていたと!」
「取り次ぐことはできる。だが、会うかどうかは娘が決めることだ」
伯爵の声は静かで、少しも揺れなかった。
そのとき、玄関の奥の明るい部屋から、弾けるような笑い声が聞こえた。
リゼットだった。水色のドレスを胸に当てて、侍女に何か言われて、声を立てて笑っている。その足もとで、ふてぶてしい顔の猫が尻尾をゆらゆらさせていた。
「明日の夜は、絶対にこちらになさいませ、お嬢様!」
侍女の弾んだ声に、伯爵がちらりと奥を振り返り、それからまた僕に向き直った。
「今夜は、取り次ぐまでもなさそうだな。あの子の予定表は、あの子のものだ。君の入る欄は、もうないよ」
扉は、僕の目の前で静かに閉まった。
明日の夜、誰とどこへ行くのか、僕にはもう聞く資格すらない。婚約していた二年のあいだ、あんなふうに笑うリゼットを、僕は一度も見たことがなかった。
門の外に立ち尽くしているうちに、また雨が降り出した。
あの日、十二位と言われて怒鳴った僕は、知らなかったのだ。十二位でも、まだ彼女の表の中にいられたのだということを。




