第7話
水曜の夜は、よく晴れていた。
出がけに玄関で、私は父に呼び止められた。
「リゼット。今夜は、遅くなるのか」
「分かりません。もしかしたら、少し」
ひと月前の父なら、眉をひそめて嫁入り前の娘がと言い出していたかもしれない。けれど父はひとつ咳払いをしただけで、私の外套の襟を黙って直してくれる。
「帰りは何時でもいい。お前の予定だからな」
父の後ろではアンが両手を胸の前で組んでにこにこしていて、私は熱くなった頬をごまかすように、急いで馬車に乗りこんだ。
約束の刻限の十分前に王宮の通用門へ行くと、ベルンハルト様はもう来ていて、いつもの文官の上着ではなく、くだけた濃紺の外套を着ていた。それだけで知らない人みたいに見えてしまって、私は門の柱の陰で一度大きく深呼吸をしてから、彼のほうへ歩いていく。
「お待たせしました!」
「いえ、私が早く来すぎました。予定より、五分ほど前倒しで」
大真面目な顔でそんなことを言うものだから、私は笑ってしまった。
連れていかれたのは、王宮から歩いて十五分ほどの路地の奥にある、小さな食堂だった。木の扉を開けたとたん、煮込みとパンの焼ける匂いがふわりと押し寄せてくる。
「ここのスープが、王都でいちばん温かいんです」
「温かさで選んだんですか」
「あなたの表の、五位ですから」
運ばれてきたスープは本当に熱々で、ひと匙すくうたびに湯気が顔にかかった。土曜のことや、陛下があれから毎日上機嫌でいらっしゃることや、使節団長が帰り際に慈善院へ寄付を置いていったことを、私たちはとりとめもなく話した。
器がほとんど空になったころ、ベルンハルト様が匙を置いた。
「ひとつ伺っても?」
もう何度目になるのか分からない、いつもの言葉だ。私は笑って頷いた。
「参考までに、私は今、何位でしょう」
「三位、です」
「睡眠より上ですね」
「なっ、なんで知っているんですか!」
「土曜、軒下からあなたが手帳に書きこんでいるのが見えたので。行の位置から推測しました」
この人は本当に、油断も隙もない! 両手で顔を覆った私を見てベルンハルト様は小さく笑い、それから姿勢を正した。
「回廊で、載れるよう努力しますと言いましたね」
「はい」
「あの日から私がした努力は、一つだけです。あなたの順番を、あなたより先に決めないこと」
食堂のざわめきが、すうっと遠くなった気がした。
「あなたの予定を動かすときは、先に許しをもらう。あなたの仕事を代わりにやってしまわない。手を貸すのは、あなたが頼んでくれたときだけ。それ以外のやり方であなたの表に載る方法を、私は知りませんでした」
テーブルの上で、ベルンハルト様の手がぎゅっと握られる。いつも涼しい顔をしているこの人が緊張しているのだと分かって、私の心臓までどきどきと騒ぎ出した。
「リゼット嬢。私と、結婚していただけませんか」
息が止まるかと思った。
嬉しい。嬉しくて、今すぐ頷いてしまいたい。それでもその前に、どうしても言っておかなければならないことがあった。
「ベルンハルト様。私の表の一位は、私です」
声が震えないように、膝の上で両手を握りしめる。
「結婚しても、変えません。誰かの妻になっても、私はもう自分を後回しにしたくないんです。それでも、いいですか」
ベルンハルト様は、少しも迷わなかった。
「あなたが自分を一位にしている限り、私は二位がいい」
その言葉が胸に届いた瞬間、目の奥がかっと熱くなって、テーブルの上のランプがにじんで見えた。一位を欲しがらない人。私が私を一番にすることを、そのまま喜んでくれる人。そんな人が本当にいるなんて、ほんの十日前の私は想像もしていなかった。
「……はい!」
泣きながら笑ったせいで、きっとひどい顔をしていたと思う。それでもベルンハルト様は、今まで見た中でいちばんやわらかい顔で笑って、ハンカチを差し出してくれた。
借りたハンカチで目元を押さえながら、私はずっと気になっていたことを聞いてみる。
「ベルンハルト様の表では、私は何位なんですか」
「私は、表を作らない主義なので」
「ずるいです!」
「ただ、もし作るとしたら」
ベルンハルト様は空になったスープの器に目を落として、考えるような顔をした。
「一行目はもう決まっています。あなたに、先に聞くこと」
ハンカチがまた必要になって、私はしばらく顔を上げられなかった。
食堂を出ると、ひんやりとした夜風が火照った頬をなでていく。王宮へ戻る道を並んで歩きはじめてすぐ、ベルンハルト様がためらうように右手をこちらへ差し出した。
「手を、つないでもいいですか」
こんなときまで、先に聞くんだから。笑い出しそうになるのをこらえて、私はその手にそっと指を絡めた。大きくて、最初はひんやりしていて、すぐに私と同じくらい温かくなる手だった。
翌朝、私は少し緊張しながら、王太后陛下の居間の扉を叩く。
「陛下。申し上げにくいのですが、陛下のご公務を、私の表の三位に下げてもよろしいでしょうか」
陛下は刺繍の針を止めて、まじまじと私の顔をご覧になり、それから声を立てて笑い出された。
「まあ! 三位なら上等よ。わたくしなんて、亡くなった夫の中では、狩りと馬の次の三位だったんですからね」
「陛下ったら」
「それにしても、あの池に落ちた坊やがねえ」
陛下は目尻の涙を指先で拭いながら、扉の外に控えていたベルンハルト様のほうへ目をやられた。
「あの子、宮内府の通達に宰相府の印を使ったでしょう。越権だって宮内府の古だぬきたちが騒いだものだから、宰相府の次席に上がるのが一年延びたのよ。あなたには言っていないでしょう?」
「えっ」
振り向くと、ベルンハルト様はさっと視線をそらしている。
あの夜、私が「お願いします」と言ったから。
「言う必要のないことでしたので」
「言う必要、あります! 大ありです!」
私が詰め寄ると、陛下はまた楽しそうに笑われた。
「いいのよ、リゼット。この子はね、自分の時間をあなたにあげたかったの。好きにさせておあげなさい」
それでも私は、居間を辞したあとの回廊で、ベルンハルト様の袖をつかまえずにはいられなかった。
「私が頼んだせいで、一年も!」
「頼まれて、引き受けると決めたのは私です。あなたのせいではありません」
「でも、黙っていたのはひどいです!」
思ったより大きな声が出て、通りがかった女官がぎょっとした顔で振り返る。最初の日の回廊とそっくりだと思ったらおかしかったけれど、ここで笑ってごまかすわけにはいかない。
「ベルンハルト様は、私の表の二位になるんです。だったら私にも、あなたの時間を守らせてください。一年も延びたなんて大事なことを、一人で抱えこまないでください」
ベルンハルト様は驚いたように目を瞬かせて、それから、ゆっくりと頷いた。
「分かりました。次からは、先に相談します」
「約束ですよ!」
「ええ。手帳に書いておいてください」
その日の夕方、執務室で、私は手帳のいちばん後ろのページを開いた。
三年間真っ白だったそのページは、今では書きこみと線と書き直しで、すっかりにぎやかになっている。私はペンをインクに浸して、二位の行にはっきりと書いた。
二位、ユリウス様。
「呼び方が変わりましたね」
いつ入ってきたのか、肩越しに手帳をのぞきこんでいた人が、すぐ耳元で言った。
「変えても、いいですか」
「ぜひ。私も、リゼットと呼んでいいのなら」
名前だけで呼ばれると、それだけで胸の真ん中がくすぐったくなる。私は照れ隠しに咳払いをして、手帳の予定欄のほうを開いた。陛下のご予定がびっしりと並ぶページの隅に、三年間ずっと空白のまま残してきた、私自身のための小さな四角がある。
「来週の日曜は、空いていますか」
ユリウス様は、今度もちゃんと、私より先には決めずに聞いてくれる。
私は笑って頷いて、その白い四角に、ゆっくりとペンを走らせた。
日曜日。ユリウス様と、何もしない日。
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