↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
優先順位を考えた結果、婚約者は猫の次になりました  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
7/7

第7話

水曜の夜は、よく晴れていた。


出がけに玄関で、私は父に呼び止められた。


「リゼット。今夜は、遅くなるのか」


「分かりません。もしかしたら、少し」


ひと月前の父なら、眉をひそめて嫁入り前の娘がと言い出していたかもしれない。けれど父はひとつ咳払いをしただけで、私の外套の襟を黙って直してくれる。


「帰りは何時でもいい。お前の予定だからな」


父の後ろではアンが両手を胸の前で組んでにこにこしていて、私は熱くなった頬をごまかすように、急いで馬車に乗りこんだ。


約束の刻限の十分前に王宮の通用門へ行くと、ベルンハルト様はもう来ていて、いつもの文官の上着ではなく、くだけた濃紺の外套を着ていた。それだけで知らない人みたいに見えてしまって、私は門の柱の陰で一度大きく深呼吸をしてから、彼のほうへ歩いていく。


「お待たせしました!」


「いえ、私が早く来すぎました。予定より、五分ほど前倒しで」


大真面目な顔でそんなことを言うものだから、私は笑ってしまった。


連れていかれたのは、王宮から歩いて十五分ほどの路地の奥にある、小さな食堂だった。木の扉を開けたとたん、煮込みとパンの焼ける匂いがふわりと押し寄せてくる。


「ここのスープが、王都でいちばん温かいんです」


「温かさで選んだんですか」


「あなたの表の、五位ですから」


運ばれてきたスープは本当に熱々で、ひと匙すくうたびに湯気が顔にかかった。土曜のことや、陛下があれから毎日上機嫌でいらっしゃることや、使節団長が帰り際に慈善院へ寄付を置いていったことを、私たちはとりとめもなく話した。


器がほとんど空になったころ、ベルンハルト様が匙を置いた。


「ひとつ伺っても?」


もう何度目になるのか分からない、いつもの言葉だ。私は笑って頷いた。


「参考までに、私は今、何位でしょう」


「三位、です」


「睡眠より上ですね」


「なっ、なんで知っているんですか!」


「土曜、軒下からあなたが手帳に書きこんでいるのが見えたので。行の位置から推測しました」


この人は本当に、油断も隙もない! 両手で顔を覆った私を見てベルンハルト様は小さく笑い、それから姿勢を正した。


「回廊で、載れるよう努力しますと言いましたね」


「はい」


「あの日から私がした努力は、一つだけです。あなたの順番を、あなたより先に決めないこと」


食堂のざわめきが、すうっと遠くなった気がした。


「あなたの予定を動かすときは、先に許しをもらう。あなたの仕事を代わりにやってしまわない。手を貸すのは、あなたが頼んでくれたときだけ。それ以外のやり方であなたの表に載る方法を、私は知りませんでした」


テーブルの上で、ベルンハルト様の手がぎゅっと握られる。いつも涼しい顔をしているこの人が緊張しているのだと分かって、私の心臓までどきどきと騒ぎ出した。


「リゼット嬢。私と、結婚していただけませんか」


息が止まるかと思った。


嬉しい。嬉しくて、今すぐ頷いてしまいたい。それでもその前に、どうしても言っておかなければならないことがあった。


「ベルンハルト様。私の表の一位は、私です」


声が震えないように、膝の上で両手を握りしめる。


「結婚しても、変えません。誰かの妻になっても、私はもう自分を後回しにしたくないんです。それでも、いいですか」


ベルンハルト様は、少しも迷わなかった。


「あなたが自分を一位にしている限り、私は二位がいい」


その言葉が胸に届いた瞬間、目の奥がかっと熱くなって、テーブルの上のランプがにじんで見えた。一位を欲しがらない人。私が私を一番にすることを、そのまま喜んでくれる人。そんな人が本当にいるなんて、ほんの十日前の私は想像もしていなかった。


「……はい!」


泣きながら笑ったせいで、きっとひどい顔をしていたと思う。それでもベルンハルト様は、今まで見た中でいちばんやわらかい顔で笑って、ハンカチを差し出してくれた。


借りたハンカチで目元を押さえながら、私はずっと気になっていたことを聞いてみる。


「ベルンハルト様の表では、私は何位なんですか」


「私は、表を作らない主義なので」


「ずるいです!」


「ただ、もし作るとしたら」


ベルンハルト様は空になったスープの器に目を落として、考えるような顔をした。


「一行目はもう決まっています。あなたに、先に聞くこと」


ハンカチがまた必要になって、私はしばらく顔を上げられなかった。


食堂を出ると、ひんやりとした夜風が火照った頬をなでていく。王宮へ戻る道を並んで歩きはじめてすぐ、ベルンハルト様がためらうように右手をこちらへ差し出した。


「手を、つないでもいいですか」


こんなときまで、先に聞くんだから。笑い出しそうになるのをこらえて、私はその手にそっと指を絡めた。大きくて、最初はひんやりしていて、すぐに私と同じくらい温かくなる手だった。


翌朝、私は少し緊張しながら、王太后陛下の居間の扉を叩く。


「陛下。申し上げにくいのですが、陛下のご公務を、私の表の三位に下げてもよろしいでしょうか」


陛下は刺繍の針を止めて、まじまじと私の顔をご覧になり、それから声を立てて笑い出された。


「まあ! 三位なら上等よ。わたくしなんて、亡くなった夫の中では、狩りと馬の次の三位だったんですからね」


「陛下ったら」


「それにしても、あの池に落ちた坊やがねえ」


陛下は目尻の涙を指先で拭いながら、扉の外に控えていたベルンハルト様のほうへ目をやられた。


「あの子、宮内府の通達に宰相府の印を使ったでしょう。越権だって宮内府の古だぬきたちが騒いだものだから、宰相府の次席に上がるのが一年延びたのよ。あなたには言っていないでしょう?」


「えっ」


振り向くと、ベルンハルト様はさっと視線をそらしている。


あの夜、私が「お願いします」と言ったから。


「言う必要のないことでしたので」


「言う必要、あります! 大ありです!」


私が詰め寄ると、陛下はまた楽しそうに笑われた。


「いいのよ、リゼット。この子はね、自分の時間をあなたにあげたかったの。好きにさせておあげなさい」


それでも私は、居間を辞したあとの回廊で、ベルンハルト様の袖をつかまえずにはいられなかった。


「私が頼んだせいで、一年も!」


「頼まれて、引き受けると決めたのは私です。あなたのせいではありません」


「でも、黙っていたのはひどいです!」


思ったより大きな声が出て、通りがかった女官がぎょっとした顔で振り返る。最初の日の回廊とそっくりだと思ったらおかしかったけれど、ここで笑ってごまかすわけにはいかない。


「ベルンハルト様は、私の表の二位になるんです。だったら私にも、あなたの時間を守らせてください。一年も延びたなんて大事なことを、一人で抱えこまないでください」


ベルンハルト様は驚いたように目を瞬かせて、それから、ゆっくりと頷いた。


「分かりました。次からは、先に相談します」


「約束ですよ!」


「ええ。手帳に書いておいてください」


その日の夕方、執務室で、私は手帳のいちばん後ろのページを開いた。


三年間真っ白だったそのページは、今では書きこみと線と書き直しで、すっかりにぎやかになっている。私はペンをインクに浸して、二位の行にはっきりと書いた。


二位、ユリウス様。


「呼び方が変わりましたね」


いつ入ってきたのか、肩越しに手帳をのぞきこんでいた人が、すぐ耳元で言った。


「変えても、いいですか」


「ぜひ。私も、リゼットと呼んでいいのなら」


名前だけで呼ばれると、それだけで胸の真ん中がくすぐったくなる。私は照れ隠しに咳払いをして、手帳の予定欄のほうを開いた。陛下のご予定がびっしりと並ぶページの隅に、三年間ずっと空白のまま残してきた、私自身のための小さな四角がある。


「来週の日曜は、空いていますか」


ユリウス様は、今度もちゃんと、私より先には決めずに聞いてくれる。


私は笑って頷いて、その白い四角に、ゆっくりとペンを走らせた。


日曜日。ユリウス様と、何もしない日。


最後までお読みいただき、ありがとうございました!


もし、この物語を少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークや★評価などの形で応援をいただけますと、大変励みになります!!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。