第5話
土曜の朝は、案の定、雨だった。
夜明け前から降り出した雨は王宮の石畳をあっというまに浅い川に変えてしまい、厩舎から駆け戻ってきた御者が「大通りは車輪が半分沈みます!」と青い顔で報告に来た。
「やっぱり!」
私は手帳の後ろに挟んでおいた紙を引っぱり出した。三か月前、慈善院へのご訪問が決まった日に描いておいた、雨の日のための道順だ。西門から出て屋根のかかった市場通りを抜け、坂の上から慈善院の裏門に入るこの道なら、少し遠回りにはなるけれど水に浸かる場所はひとつもない。
誰に頼まれたわけでもなく、念のためにと描いておいた地図が、今になってちゃんと役に立とうとしている。
「この道で参ります。御者の皆さんには、もう写しを配ってありますから」
「さすがねえ、リゼット」
外套を羽織った王太后陛下が、楽しそうに私の手元をのぞきこまれた。
馬車は予定どおり九時に西門を出た。雨は止むどころかますます強くなって窓の外は白く煙っていたけれど、市場通りの屋根の下に入ったとたんに車輪の音が静かになり、店先の人たちが「陛下の馬車だ!」と手を振ってくれる。
慈善院に着いたのは、十時ちょうどだった。
院長先生が泣き出しそうな顔で駆け寄ってきて、私の両手を握りしめた。
「よかった、来てくださった! 昨日のお昼にアルノー様のお手紙をいただいて安心していたら、夜になって宮内府から、雨天のため中止だと知らせが来たんです。どちらを信じればいいのか分からなくて、でも、アルノー様のお手紙には陛下の御印がありましたから、子どもたちを集めて待っていたんです!」
また、宮内府から。
背中にひやりとしたものが走ったけれど、それを顔に出す前に子どもたちの歌が始まった。
礼拝堂の高い天井に、二十人ぶんの細い声が響いていく。三か月かけて練習した歌はところどころ音が外れていて、いちばん前の小さな子は途中で歌詞を忘れて隣の子の顔を見ていたけれど、陛下は最後まで身じろぎもせずに聴いていらした。
歌が終わったとき、陛下の目尻が濡れていたのを、私は見なかったことにした。そういう私の目だって、きっと同じくらい濡れていたから。
拍手がやんだころ、礼拝堂の扉が乱暴に開け放たれる。
「王太后陛下! お迎えにあがりましたわ!」
雨に濡れた外套のまま入ってきたのは、ロウリー侯爵夫人だった。その後ろに宮内府次官と、居心地の悪そうな顔をしたエドガー様が続いている。
勝ち誇ったような侯爵夫人の笑顔は、礼拝堂に並んだ子どもたちを見たとたん、ぴしりと音が聞こえそうなほど引きつった。中止の知らせを出したのだから、ここには誰もいないはずだったのだろう。
それでも侯爵夫人はすぐに扇を広げて、笑顔を貼りつけ直した。
「こ、こんな雨の中、慈善院などに長居されてはお体に障りますわ。ご休憩のお席をご用意して、皆さまお待ちしておりますのよ。さあ、侯爵邸へ」
礼拝堂がざわついた。子どもたちの親や、寄付をしている商家の奥方たちが、何事かと顔を見合わせている。
陛下は椅子に座ったまま、ゆったりと侯爵夫人を見上げられた。
「どなたが、わたくしの予定を変えたのかしら」
「それは、宮内府から正式に」
「リゼット」
陛下に呼ばれて、私は一歩前に出た。手が震えそうになるのを、手帳を強く握りしめて押さえる。
「こちらが陛下の御印のある本日のご予定で、こちらが宮内府次官のお名前だけで出された変更届です。変更届に、陛下の御印はありません。昨夜、慈善院に中止のお知らせを出されたのも、同じ方です」
二枚の紙を並べて差し出すと、宮内府次官の顔からさっと血の気が引いていった。
「そ、それは、陛下のお体を案じて」
「宰相府でも、確認しております」
よく通る声が、礼拝堂の後ろから響いた。
振り向くと、ずぶ濡れの外套を脱ぎながらベルンハルト様が入ってくるところで、そのすぐ後ろには立派な口髭の使節団長が続いている。木曜の夜に、二人で予定表に書きこんだとおりの刻限だった。
「使節団長閣下をお連れしました。木曜の夜、陛下のご承認を得た訂正の通達は宰相府の印でも出しておりますし、次官殿の変更届は、宰相府では受理しておりません」
逃げ場がなくなったと悟ったのか、次官は急に妹のほうを振り返った。
「ち、違うのです陛下! 妹にどうしてもと泣きつかれて、私は止めたのです!」
「お兄様!? 喜んで判を押したのはどなたですの!」
侯爵夫人の金切り声が、礼拝堂の天井に跳ね返った。兄と妹が陛下の御前で互いを指さし合う姿に、商家の奥方たちが扇の陰でひそひそと囁き合い、いちばん前の小さな子が「あのおばさん、うそついたの?」と大きな声で母親に尋ねて、慌てて口をふさがれる。
使節団長が、口髭をなでながら首をかしげた。
「ふむ。王太后陛下のお時間を、勝手にお使いになろうとしたご婦人ですか。我が国では、そういう方を茶会にお招きすることはありませんな」
陛下が、私のほうへ手を差し伸べられた。
「団長閣下、こちらがこの雨の中、時刻どおりにわたくしを連れてきてくれた子ですよ。わたくしの予定を守れるのは、王宮じゅう探してもこの子だけ」
礼拝堂のあちこちから拍手が起こった。嬉しいのと恥ずかしいのとで喉がつまって、私はただ深く頭を下げることしかできない。
拍手が静まるのを待ってから、陛下は侯爵夫人と次官のほうへ向き直られた。声は少しも大きくないのに、礼拝堂の隅々までよく通る。
「次官の職は、今日かぎりで解いていただくよう、国王陛下にはわたくしから申し上げます。それからロウリー侯爵夫人。あなたも兄上も、しばらく宮廷に顔を出さなくてよろしいわ。わたくしの時間を勝手に使う方とは、お茶をいただく気になれませんもの」
侯爵夫人の手から扇が滑り落ちて、床に転がった。
誰も、拾おうとはしない。侯爵夫人はすがるように礼拝堂を見回したけれど、午後の茶会に招かれていたはずの奥方たちは一人残らず目をそらし、そのうちの一人が聞こえよがしに「午後のお約束、うちはご遠慮させていただこうかしら」と言った。雨で崩れた白粉の下で、侯爵夫人の口元がわなわなと震えている。
雨宿りの客でごった返す廊下に出たところで、私はエドガー様に呼び止められた。
「リゼット! 待ってくれ!」
濡れた前髪を額に貼りつけたエドガー様は、回廊で声を張り上げていた人と同じだとは思えないほど、青ざめた顔をしていた。
「頼む、陛下に取りなしてくれ。このままじゃロウリー家はおしまいだ。君だって二年も婚約していたんだから、情けくらいあるだろう?」
「エドガー様」
「やり直そう! 今度は、君を一位にする。約束する!」
一位に、する。
あれほど聞きたかった言葉なのに、胸の中のどこにも落ちてこない。二年前の春、この人に婚約を申し込まれたとき、私は本当に嬉しかったのだ。誕生日の夕食が消えた夜も、植物園に行けなかった春も、いつかこの人が私のほうを向いてくれる日が来ると信じて笑っていた。
その日がやっと来たはずなのに、エドガー様の視線は私の顔を素通りして、後ろの礼拝堂にいらっしゃる陛下のほうばかりを、ちらちらとうかがっている。
「私を一位にしてくださるのは、陛下に取りなしてほしいからですよね」
エドガー様の口が、ぱくりと開いたまま止まった。
「ありがとうございます。でも、私の一位はもう埋まっています」
手帳を胸の前で開いて、いちばん上の行と、十二位に引いた太い線を見せる。
「私が、自分で書きましたから」
「リゼット、僕は」
「エドガー! いつまでそんな娘と話しているの、帰るわよ!」
玄関のほうから侯爵夫人の金切り声が飛んできて、エドガー様はびくりと肩をすくめた。私の顔と玄関を何度も見比べて、それから、叱られた子どものように母親のあとを追って走っていく。
最後まで、この人の一位はお母様だったのね。
雨音にまぎれて遠ざかっていく背中を、私は今度こそ最後まで見送った。二年分ずっと固く結んだままだった胸の中の紐がするりとほどけて、深く吸いこんだ息が、足の先まで届いていく。
慈善院の玄関の軒下では、ベルンハルト様が子どもたちに、楽譜を濡らさない包み方を教えていた。真顔のまま油紙を折って、ひとつできあがるたびに子どもたちが歓声を上げ、歌詞を忘れていたあのいちばん小さな子が、もう一つ作ってと彼の上着の裾を引っぱっている。
ぼんやり眺めていたら、軒から落ちた雨粒が私の肩を叩いた。次の瞬間、頭の上に影がさして、雨音が遠くなる。
「濡れますよ、リゼット嬢」
子どもたちの輪を抜けてきたベルンハルト様が、私の上に傘を差しかけていた。自分の肩が濡れていくのは、少しも気にしていない顔で。
「さっきは、見事でした」
それだけ言うと、ベルンハルト様は私の手に傘の柄を握らせて、また子どもたちのほうへ戻っていった。
傘の柄に残ったぬくもりを感じながら、私は手帳を開かずにはいられなかった。四位の行を消して、もう一段上に書き直す。
三位、ベルンハルト様。
書いてから、私は自分の字を二度見した。三位。睡眠より上。三年ぶりにやっと取り戻した、朝までぐっすり眠れる夜よりも、上なのだ。
軒下で振り返ったベルンハルト様と目が合って、私は慌てて手帳を閉じた。顔が熱くて、小雨まじりの冷たい風が吹いているのに、少しも涼しくならない。
ああ、そうか。
私、この人のことが好きなんだわ。




