第4話
『慈善院ご訪問の刻限を、午前十時より午後二時へ変更する。往路は大通りの補修工事のため東街道を経由し、途中、ロウリー侯爵邸にてご休憩とする。宮内府次官』
三度読み返して、三度とも同じところで目が止まった。
「ロウリー侯爵邸にて、ご休憩!?」
声がひっくり返る。土曜の午後二時のロウリー侯爵邸といえば、エドガー様が「顔を出さなかったら母上の立場がない」と言った、あの茶会のど真ん中だ。陛下が立ち寄られれば、秘書官の私は当然お供をして、陛下のお席の後ろにずっと立っていなければならない。
断ったはずの茶会に、結局は給仕みたいな顔をして立たされることになる。侯爵夫人の高笑いが、今にも聞こえてきそうだった。
「なんて、なんて意地の悪い!」
「署名の横を見てください」
背中越しに書面をのぞきこんでいたベルンハルト様が、落ち着いた声で言った。
「陛下の御印がありません」
言われて見直すと、本当だった。陛下のご予定を変えるには陛下ご本人の承認の印が要るのだから、宮内府次官の署名だけでは、この紙はただの紙きれのはずだ。
「当日になってしまえば、陛下も騒ぎ立てはなさらないと踏んだのでしょう。次官殿は、そういう根回しがお得意ですから」
ベルンハルト様はそれだけ言うと、私の顔を見た。
「どうしますか」
代わりに宮内府へ乗りこんでくれるつもりがないのは、その目を見ればすぐに分かった。
「陛下に、伺ってきます」
王太后陛下は、日当たりのいい居間で刺繍の枠を膝にのせていらした。七十を過ぎてもしゃんと伸びた背中に、銀色の髪がよく似合う。私が差し出した紙を眼鏡越しに眺めると、陛下は小さく鼻を鳴らされた。
「わたくし、こんなものに判を押した覚えはないわよ」
「やはり、そうでしたか」
「それで、リゼット。あなたはどうしたいの」
刺繍の針を置いて、陛下がまっすぐに私をご覧になる。
「元のご予定どおり、午前のうちに慈善院へお連れしたいです。子どもたちは朝の礼拝のあとに歌うつもりで、三か月練習してきましたから」
「では、そうしましょう。宮内府には、そうね、あなたが行ってらっしゃい。わたくしの予定を守るのは、あなたの仕事でしょう」
陛下は元の予定表を持ってこさせると、ご訪問の欄に改めて小さな印をぽんと押してくださった。
ところが、話はそれで終わらなかった。宮内府次官はとっくに新しい刻限を方々へ知らせてしまっていて、慈善院にも近衛の護衛隊にも厩舎にも沿道の警備にも、果ては陛下がいつもお土産になさる焼き菓子の店にまで「午後二時」の通達が届いていたのだ。それをぜんぶ、土曜の朝までに元に戻さなければならない。
その晩、私は王太后宮の執務室にランプを灯して、訂正の手紙を片っ端から書き始めた。
窓の外が真っ暗になって宮殿じゅうの物音が消えても、ペン先は止まらない。お腹が小さく鳴ったけれど、聞こえないふりをする。三位の睡眠も四位の食事も、今夜だけは後回しにすればいいし、だいたい私がやらなければ、ほかに誰がやるというのだろう。
慣れた考えが、するすると頭の中に戻ってくる。三年間、毎晩のように自分に言い聞かせてきた言葉だった。
「三位、睡眠」
扉のほうから声がして、私は驚いてインク壺を倒しかけた。
ランプの明かりがやっと届くあたりに、ベルンハルト様が立っていた。
「破っていますよ」
「い、今夜だけです!」
「今は真夜中の一時です」
「分かっています! でも、私がやらなきゃ、土曜の朝に子どもたちが待ちぼうけになるんです! 陛下だって、あんな人たちの茶会に連れていかれて……!」
言っているうちに声が震えてきて、私は慌てて口をつぐんだ。悔しくて情けなくて、どうして私ばかりこんな目に、と思ってしまった自分がいちばん嫌だった。
ベルンハルト様は机の上に積まれた手紙の山と、書きかけの宛名の束を順番に眺めてから、考えるように首をかしげた。
「ひとつ伺っても?」
「なんですか」
「その手紙は、全部あなたが書かなければいけないものですか」
私は答えに詰まった。慈善院の院長先生への手紙は、陛下のお言葉を添えなければいけないから私が書くべきだ。でも、近衛や厩舎への通達は。
「近衛と厩舎と沿道の警備には、宰相府の印で出したほうが早く届きます。私が書けば、明け方までには終わるでしょう」
ベルンハルト様はそこで言葉を切って、私の目を見た。
「ただし、あなたが頼むなら、です。あなたの仕事ですから」
頼む。
その一言が、ひどく重たかった。秘書官になってから、誰かに仕事を頼んだことなんて一度もない。頼めば迷惑をかけるし、迷惑をかけたら嫌われると思って、全部自分で抱えてきたのだ。
でも目の前の人は、私が頼むのをただ黙って待っている。
「お願い、します」
やっと絞り出した声は、自分でも笑ってしまうくらい小さかった。
「承りました」
ベルンハルト様は隣の机に腰を下ろして上着の袖をまくると、驚くほどの速さで通達を書き始めた。かりかりとペンの走る音が二つに増えて、真夜中の執務室が急ににぎやかになる。
「それと、使節団長が土曜に慈善院を見学したいと言っています。陛下のお邪魔にならないよう、私が後からお連れしてもかまいませんか」
「十時半なら、歌が終わるころです。予定表に入れておきますね」
書きこみながら、私は手を止めずに尋ねてみた。
「どうしてベルンハルト様は、そんなに陛下のことを気にかけてくださるんですか」
「八つのときに、王宮の池に落ちたことがあるんです」
ペンを動かしたまま、ベルンハルト様は淡々と答えた。
「真冬で、助けられたあと三日も熱が下がらなかった。そのあいだずっと付き添ってくださったのが、当時の王妃陛下でした。侯爵家の次男坊なんて、放っておいても誰も困らなかったのに」
「それで、陛下のことを」
「ええ。陛下にはもう少し休んでいただきたいんです。陛下の時間は、陛下のものですから」
陛下の時間は、陛下のもの。
それは私が三年間、毎日の仕事の真ん中に置いてきたものと同じだった。誰かの時間を、その人のために守ること。この人も同じものを大事にしてきたのだと思ったら、胸のあたりがじんわりと温かくなっていく。
最後の通達に封をしたのは、二時半を回ったころだった。
「残りは院長先生への手紙だけですね。それは明朝で間に合います」
ベルンハルト様は立ち上がって上着を整えると、馬車を回してあるからと言って私を廊下へ送り出し、扉の前で足を止めた。
「リゼット嬢」
初めて名前で呼ばれて、心臓がどきんと跳ねた。
「土曜が無事に済んだら、あなたの予定表で空いている夜を、一つ教えていただけますか」
先に、私の予定を聞いてくれる。この人は、こんなときでさえ。
「来週の、水曜の夜なら、空いています」
「では、水曜に」
それだけ言うと、ベルンハルト様は執務室へ戻っていった。
帰りの馬車の中で、私はランプの明かりを頼りに手帳を開いた。七位にある名前を消して、もっとずっと上の行に書き直す。
一位、私。二位、王太后陛下の公務。三位、睡眠。四位、ベルンハルト様。
温かい食事より上に書いてしまったその字は、揺れる馬車のせいにはできないくらい、ひどく震えていた。




