第3話
話し合いの日は、朝から雨だった。
アルノー家の客間にロウリー侯爵夫人とエドガー様をお迎えするのは、婚約が決まった二年前の春以来のことになる。あのときは母の形見の花瓶に白薔薇を挿して、侯爵夫人のお好きな焼き菓子を三日がかりで探し回ったけれど、今日のテーブルにはいつもの紅茶といつもの焼き菓子しか置いていない。
それだけで背筋がしゃんと伸びる気がするのだから、不思議なものだ。
「まず、謝罪を聞かせていただけるのかしら」
席につくなり、侯爵夫人がそう切り出した。客間に甘ったるい香水の匂いが広がる。隣のエドガー様は腕を組んだまま、さっきから窓の外の雨ばかり眺めている。父が気まずそうに咳払いをして何か言いかけたのを、私はそっと手で制した。
「謝罪はいたしません。今日お話ししたいのは、婚約の解消についてです」
「リゼット!」
エドガー様が勢いよくこちらを向いた。
「まだそんなことを言っているのか! 母上がわざわざ来てくださったんだぞ」
「存じています」
「だったら分かるだろう。母上を優先するのは当然のことだ。君だって嫁げばロウリー家の人間になるんだから、母上を一番に考えるのが筋じゃないか」
一番に。
その言葉を聞いた瞬間、私の中でずっと絡まっていた糸の端が、やっと指先に引っかかった気がした。
「エドガー様の一位は、お母様なんですね」
「当たり前だろう」
「そしてきっと、侯爵夫人の一位はエドガー様です」
侯爵夫人が扇の陰でわずかに眉を上げたけれど、否定の言葉は出てこなかった。
「一位が二人いるお家に私が嫁いだら、私は何位になるのでしょう」
客間がしんと静まり返って、雨が窓を叩く音だけがやけに大きく聞こえる。
「三位でも、私はきっと頑張れたと思います。十位でも、たぶん我慢できました。今までずっとそうしてきましたから。でも私は、もう自分の表の一位に自分の名前を書いてしまったんです。消すつもりはありません」
「生意気な!」
侯爵夫人の扇がテーブルを打って、紅茶の表面が小さく波立った。
「順位だの表だの、くだらない! 女は嫁いだ家に尽くすものです。伯爵家の娘が侯爵家に嫁げるだけでも、ありがたく思うべきでしょう!」
ありがたく思うべき。その言葉なら、この二年で何度聞いたか分からない。そのたびに私は笑って頷いて、自分の予定を一行ずつ消してきたのだから。
膝の上で握りしめた手帳が、手のひらの汗で湿っている。怖い。侯爵夫人の目を正面から見るのは本当に怖いけれど、ここで目をそらしたら、昨日までの私に逆戻りしてしまう気がした。
そのとき、隣に座っていた父が、ゆっくりと手を伸ばした。
「リゼット。その手帳を、見せてもらってもいいか」
驚いて振り向くと、父は私の顔より先に、私の手元をじっと見つめていた。おずおずと差し出したページを、父は老眼鏡をかけ直し、一行ずつ指でなぞりながら読んでいく。
一位、私。二位、王太后陛下の公務。三位、睡眠。四位、温かい食事。
五位のところで、父の指がぴたりと止まった。
「五位、父の健康」
それきり父はしばらく黙りこんで、眼鏡の奥で何度も瞬きを繰り返している。
「お前は、ずっとこうだったな」
ぽつりと落ちた声は、ひどくかすれていた。
「母さんが亡くなってから、お前は家のことをぜんぶ引き受けて、私の食事の時間まで覚えていてくれた。私はそれが当たり前になっていて、お前が自分のことを何位に置いているのかなんて、一度も考えたことがなかった」
「お父様……」
「一位が、自分か。そうか」
父は手帳を閉じて私に返すと、眼鏡を外して侯爵夫人のほうへ向き直った。父の背中をこんなに大きいと思ったことは、今まで一度もない。
「ロウリー侯爵夫人。この婚約は、当家から解消させていただきます。婚約の際にいただいた品は、すべてお返しいたしましょう。娘を三位にも十位にもするような家に、やるわけにはまいりません」
「なっ、アルノー伯爵、正気ですの!」
「正気ですとも。遅すぎたくらいです」
侯爵夫人は顔を真っ赤にして立ち上がり、扇を握る指の関節を白く浮かせた。
「よろしいわ。せいぜい後悔なさい。王太后陛下の慈善院のご訪問、無事に済むといいわね」
吐き捨てるようにそう言って、侯爵夫人は客間を出ていった。取り残されたエドガー様が慌てて腰を浮かせ、それからすがるような目で私のほうを見る。
「リゼット、本当にいいのか? 僕を失って、本当に後悔しないのか?」
二日前の回廊でも、私はこの人に同じ返事をしたのだったと思い出して、ちょっと笑ってしまう。
「はい」
エドガー様は口を開けて、閉じて、もう一度開けて、結局なにも言わないまま母親のあとを追っていった。
玄関の扉が閉まる音を聞き届けてから、私は手帳を開いて、十二位の行にまっすぐ一本の線を引いた。インクがにじんで、エドガー様の名前は太い線の下に隠れてしまう。
線を一本引いただけなのに、胸の上にずっと乗っていた重たい石がころんと転がり落ちたみたいに、体が軽くなった。
「お父様、ありがとうございました」
「礼を言うのは、私のほうだ」
父は照れくさそうにそう言って、冷めかけた紅茶を一息に飲み干した。
翌朝、王太后宮の執務室に入ると、ベルンハルト様が先に来ていて、窓際で書類をめくっていた。
「おはようございます。昨日の件、うまくいったと聞きました」
「どうしてご存じなんですか!」
「雨の日に侯爵家の馬車がアルノー家から全速力で飛び出していけば、宮廷じゅうが知っています」
それはそうかもしれない。熱くなった頬を押さえていると、ベルンハルト様は手にしていた書類の束を、ためらうようにして机の端に置いた。
「これは、陛下の過去三年分のご予定の記録の写しです。あなたが一日も休まずに働いてきた証拠になります。昨日の午後にあなたがお休みを取ったと陛下から伺ったので、もしやと思って用意しておきました。使うかどうかは、あなたが決めればいいと思っていたのですが」
「もう、終わりました。自分で」
「ええ。そうだろうと思っていました」
そう言って、ベルンハルト様は笑った。
初めて見る顔だった。いつもの何を考えているのか分からない顔がほどけて、目尻にやわらかな皺が寄る。笑うとこんな顔になる人だったのかと思ったら、どこを見ていいのか分からなくなって、私は慌てて手帳を開いた。
十五位の行をペンで消して、ずっと上の行に書き直す。
「七位です」
「七位」
ベルンハルト様は書類を持ったまま、珍しく眉を上げた。
「ずいぶん上がりましたね。何か理由が?」
「代わりにやってしまわずに、使うかどうかを私に決めさせてくれたからです」
口に出してから急に恥ずかしくなったけれど、ベルンハルト様はしばらく黙ったあと、手帳を静かにのぞきこんだ。
「図書室の本の返却期限より、上ですか」
「はい」
「光栄です」
すました顔に戻って言うくせに、さっきの笑い皺がまだ目尻にうっすら残っているものだから、私は手帳で自分の顔を半分隠すしかなかった。
そのとき扉を叩く音がして、宮内府の若い書記官が封書を一通差し出した。
「アルノー秘書官に。慈善院ご訪問の日程変更届です」
日程変更? そんな話、誰からも聞いていない。
ベルンハルト様と顔を見合わせてから封を切ると、宮内府次官の署名の入った一枚の紙から、甘ったるい香水の匂いがかすかに立ちのぼった。
昨日、うちの客間に残っていったのと、同じ匂いだった。




