第2話
三年ぶりにぐっすり眠れた朝は、一通の手紙であっけなく台無しになった。
目を覚ましたとき窓の外がすっかり明るかったので、寝坊したのかと慌てて飛び起きたら、時計はいつもと同じ六時を指していた。私の体がちゃんと朝まで眠った、ただそれだけのことなのに、頭も肩も嘘みたいに軽くて足の先までぽかぽかしていて、私は寝台の上でしばらく自分の手を握ったり開いたりしてみた。
睡眠を三位にしておいて、本当に正解だったわ。
そんなふうに一人でにこにこしていられたのは、朝食の席につくまでのことだ。
「リゼット。ロウリー侯爵夫人から手紙が届いている」
父は青い顔で、封蝋の割れた便箋を私の前に滑らせた。夜のうちに使いの者が届けに来たらしい。流れるような美しい筆跡なのに、一行ごとにペン先が紙を引っかいた跡が残っていて、怒りながら書いたのが手に取るように分かる。
『息子に恥をかかせた件について、本日午後、王宮にてご本人から直接お詫びを伺います』
お詫びを「伺います」ということは、こちらが謝ることはもう決まっているらしい。
「本気なのか、婚約を解消したいというのは」
「本気です、お父様」
「だが、ロウリー家との縁談は、お前の母さんも喜んでいたんだ」
父の声がかすかに震えて、私はスープの匙を持ったまま動けなくなった。
母が亡くなったのは、私が十五のときだ。それからずっと、私はこの家の帳簿をつけて父が食事を抜かないように見張ってきたし、使用人たちの休みを決めるのも母の命日の花を選ぶのも、母を見送ったその冬から私の役目になっていた。だから母が喜んでいたと言われると、胸の奥の古い引き出しが勝手に開いてしまうのだ。お母様ならどうしたかしら、私さえ我慢すれば丸く収まるのかしら、と。
でも、昨日書いた表の一位は、私だ。
「お母様が喜んでいたのは、私が幸せになれると思ったからだと思います」
父は何か言いかけて、結局黙ったまま、パンを小さくちぎった。
その日の王宮は、朝から戦場のようだった。
到着した使節団の団長が長旅で腰を痛めたから謁見の時刻をずらしてほしいと言い出したせいで、王太后陛下の午後のご予定がまるごと玉突きのように崩れてしまい、私は書類を抱えて宮内府と迎賓館の間を三往復しても、昼の鐘が鳴ったことにさえ気づかなかった。
ロウリー侯爵夫人がいらしたのは、ちょうど四往復目に出ようとしたときだ。
「まあ、ずいぶんお忙しそうね。婚約者の家に詫びも入れずに走り回っていらっしゃるなんて」
王太后宮の控えの間に、甘ったるい香水の匂いが広がる。侯爵夫人は扇で口元を隠したまま、私を頭のてっぺんから爪先までじろじろと眺めた。
「エドガーから聞きましたわ。猫より下ですって? 格下の家の娘が、よくもまあ」
「ロウリー侯爵夫人、申し訳ありませんが、今は陛下のご予定の調整中で」
「お詫びもなしに? そういうところよ。嫁ぐ娘が王宮で走り回るなんて、みっともないとは思わないのかしら。秘書官なんて、さっさとお辞めなさいな。うちに入ったら、そんな暇はなくなるのだから」
扇がぱちんと閉じる音がして、私は自分の指先が冷たくなっていくのを感じた。
昨日までの私なら、ここで頭を下げていたと思う。それがいちばん早く、いちばん波風を立てずに済む方法だと、嫌というほど知っていたから。
でも今の私の手帳には、ちゃんと順番が書いてある。
「辞めません」
「なんですって?」
「王太后陛下の公務は、私の二位ですので」
侯爵夫人はぽかんと口を開けて、扇を開くのも忘れたまま、たっぷり三拍は固まっていた。
「に、二位?」
「はい。失礼いたします、四往復目に行かなければなりませんので!」
言い捨てて控えの間を飛び出したものの、廊下の角を曲がったところで、私はとうとう壁にもたれてしゃがみこんでしまった。心臓がばくばくと暴れていて、ちっとも静まってくれない。侯爵夫人に口答えしたのなんて、生まれて初めてだ!
なんとか息を整えて王太后宮の執務室に戻ると、机の上の予定表が、私の知らない形に書き換えられていた。
午後一時から一時半まで、陛下のご予定の欄にぽっかりと空白ができている。しかもその空白には、きっちりとした細い字でこう書き添えられていた。
『アルノー秘書官、昼食(四位)』
「なっ、なんですか、これ!」
「使節団の謁見を三十分後ろへずらして、迎賓館の昼食会を前倒しにしました。陛下のご承認はいただいています」
振り向くと、入口にベルンハルト様が立っていた。今日も書類を抱えていて、今日も何を考えているのか分からない顔をしている。その後ろから、厨房の下働きの少年が湯気の立つ器を盆にのせて、おそるおそる顔をのぞかせた。
「勝手に陛下のご予定を動かすなんて! それは私の仕事です!」
かっとなって声を上げても、ベルンハルト様は少しも動じずに頷くだけだった。
「ええ、あなたの仕事です。だから陛下に申し上げて、お許しをいただいてから動かしました。あなたの表の四位は、温かい食事でしたね」
「……読んでいらしたんですか」
「読み上げられていましたので。その四位が昼の時点で守られていないのは、表を作った方として不本意なのではないかと思ったものですから」
少年は盆を机に置くと、ぺこりと頭を下げて逃げるように出ていった。器の中では、刻んだ野菜と鶏肉のスープが、まだ小さく湯気を立てている。
文句を言わなければ、と頭のどこかで誰かが言った。私の仕事に口を出さないでください、と。
なのに匙を手に取って一口飲んだら、塩気と温かさが喉から胃までゆっくり落ちていって、それきり何も言えなくなってしまった。三年間、昼食といえば冷めたパンを書類の山の陰でかじるものだと思っていたし、誰かが私の昼の三十分をわざわざ守ってくれたことなんて、ただの一度もなかったのだ。
「おいしい、です」
やっとのことでそう言うと、ベルンハルト様の目元がふっとゆるんだ。
「それはよかった。では、私は迎賓館に戻ります」
「待ってください!」
呼び止めてから何を言うつもりだったのか分からなくなって、私は慌てて手帳を開いた。昨日の夜から、思いついたことを書き足していたページだ。
十三位、ポムの爪切り。十四位、アンの焼くりんごのパイ。
その下に、急いでペンを走らせる。
「十五位です」
「十五位」
ベルンハルト様は手帳をのぞきこむと、書いたばかりの自分の名前と、そのすぐ上の二行を順番に見比べた。
「猫の爪切りより、下ですか」
「爪切りは大事なんです! 放っておくと、カーテンがぼろぼろになるんですから!」
「なるほど。それは確かに重要です」
真面目くさって頷いたあと、彼の視線がもう一段上の行へ動いた。十二位、まだ消えていないエドガー様の名前のところへ。
「十二位の方よりも、下ですね」
「婚約は、まだ解消されていませんから」
「そうでした。順番には手続きがある」
ベルンハルト様は納得したように頷くと、それ以上は何も言わずに執務室を出ていった。
一人になった部屋で、私は残りのスープを大事に飲んだ。最後の一口まで、ちゃんと温かかった。
その夜、屋敷に帰ると、私は着替えるより先に父の書斎の扉を叩いた。
「お父様。ロウリー家の方々と、正式に話し合う場を作ってください」
父は驚いたように書類から顔を上げた。
「お前が、自分で話すのか」
「はい。私の順番の話ですから、私が話します」
怖くないと言えば嘘になるけれど、十二位の行に線を引くところだけは、誰にも代わってもらいたくない。手帳を握る手に力をこめて待っていると、父はしばらく私の顔を見つめたあと、机の上の書類を脇へ押しやってペンを取った。
「日取りは、お前の都合のいい日にしよう。お前の予定を、教えてくれるか」
「明日の午後なら、陛下にお休みをいただけます」
答えた声が、我ながら情けないくらいかすれていた。
母が亡くなってから七年、父が先に私の予定を聞いてくれたのは、これが初めてだった。




