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優先順位を考えた結果、婚約者は猫の次になりました  作者: 九葉(くずは)


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第1話

「優先順位を考えろ、リゼット!」


王太后宮へ続く回廊のど真ん中で婚約者のエドガー様がそう声を張り上げたとき、私の腕には来月分の謁見予定の束が抱えられていて、頭の中では明日の昼に着く使節団の馬車の数と昼食会の席次がまだぐるぐると回っていた。


すれ違った女官が二人、ぎょっとした顔でこちらを振り返って足早に去っていく。せめて場所を選んでくださらないかしら、と言いかけた口を私はなんとか閉じた。


「母上の茶会は今度の土曜だ。婚約者の君が顔を出さなかったら、母上の立場がないだろう?」


「その日は王太后陛下が慈善院をご訪問されます。三か月前からお伝えしていたはずです」


「そんなもの、ほかの秘書官に代わってもらえばいいじゃないか」


そんなもの。


慈善院の子どもたちが陛下のために三か月かけて練習している歌のことも、雨になったときの馬車の道順も、院長先生の持病のことも、陛下がお好きな焼き菓子の店のことも、全部この腕の中の書類と私の頭の中にしかないのに、この人はそれを「そんなもの」と呼ぶ。


でも、驚きはしなかった。去年の私の誕生日の夕食は「母上が頭痛で」の一言で消えたし、二人で行くはずだった春の植物園は侯爵夫人の仕立て屋の都合で消えたし、そのたびに私は「わかりました」と笑って自分の予定を書き換えてきたのだから、今さら一つ増えたところで何が変わるわけでもない。


王太后陛下付きの秘書官になって三年、私の手帳は陛下のご予定でびっしり埋まっている。どの面会を先にして、陛下のお昼寝の時間をどこに確保するか、優先順位をつけるのが私の仕事で、それなりに上手くやってきたつもりだ。


なのに手帳のいちばん後ろ、自分の名前を書いたページだけは、三年間ずっと真っ白のままだった。


「聞いているのか? 優先順位くらい、考えられるだろう」


エドガー様が苛立ったように靴の先で床を叩く。その音を聞いているうちに、お腹の底で何かがすうっと冷えて、それから急にかっと熱くなった。


考えられますとも。それが私の仕事ですもの。


「少しお待ちください」


私は書類の束を窓枠に置いて手帳を開き、いちばん後ろの真っ白なページを出した。ペン先をインクに浸すのももどかしくて、一行目には迷わずこう書いた。


一位、私。


そこから先はペンが止まらなかった。二行目、三行目と書き進めるうちに、自分でも知らなかった自分の順番がどんどん紙の上に現れてきて、最後の行を書き終えたときに手が震えていたのは、怒っていたからなのか嬉しかったからなのか、よく分からない。


「考えました。どうぞ」


差し出した手帳をエドガー様はひったくるように受け取り、眉間に皺を寄せて読み上げ始めた。


「一位、私……? 二位、王太后陛下の公務。三位、睡眠。四位、温かい食事。おい、なんだこれは」


「優先順位です」


「五位、父の健康。六位、侍女アンのお休み。七位、図書室の本の返却期限。八位、冬物の衣替え」


読み進めるにつれて、エドガー様の声がだんだん上ずっていく。


「九位、庭の白薔薇の剪定。十位、新しいペン。十一位、ポムの夕ごはん。ポムって誰だ!」


「うちの猫です」


「猫!?」


ひっくり返った声が回廊の高い天井に跳ね返った。エドガー様は手帳に顔を近づけて最後の一行を穴が空くほど見つめ、それからわなわなと口元を震わせた。


「十二位、エドガー様」


「はい」


「僕が! 猫の夕飯より下だと言うのか!」


「はい」


二度目の「はい」は、自分でも驚くほどすんなりと口から出ていく。


猫より下だと言われてそんなに怒るくらいなら、せめて私の誕生日くらい覚えていてくださればよかったのに! 喉元まで出かかったその言葉を飲み込んで、私は手帳を取り返した。


不思議なもので、頭の中で考えているだけのときは、この人を嫌いだなんて一度も思わなかった。それなのにこうして自分の大事なものを並べてみると、十二の行のどこを探しても、この人のために空けておきたい場所が見つからない。


「エドガー様。考えた結果、分かりました。私たちは婚約していないほうがいいと思います」


「なっ……」


「父を通して、婚約の解消を申し入れます。ロウリー侯爵家には、のちほど正式に」


エドガー様の顔が赤くなり、それから白くなって、最後にまた赤くなった。


「後悔するぞ、リゼット! 母上が黙っていると思うなよ!」


捨て台詞を回廊じゅうに響かせて、エドガー様は大股で去っていった。遠ざかっていく足音を聞きながら、私の足はしばらく床に縫いとめられたまま動かない。


言ってしまった。本当に、言ってしまったんだわ。


膝が今ごろになって笑い出して、私は窓枠に手をついた。怖いのか、すっきりしたのか、泣きたいのか笑いたいのか、ぜんぶが一度に押し寄せてきてどれから片づければいいのか分からないし、こんなに散らかった気持ちを書いておく欄なんて、手帳のどこにもありはしない。


「失礼」


すぐ後ろから落ち着いた声がして、私は小さく悲鳴を上げて飛び上がった。


柱の陰から現れたのは、宰相補佐のユリウス・ベルンハルト様だった。いつもどおり書類を小脇に抱え、いつもどおり何を考えているのか読めない顔で、こちらを見下ろしている。


「立ち聞きをするつもりはなかったのですが、使節団の件でお話があって待っていたら、ずいぶん興味深い表が読み上げられ始めたものですから」


「ぜ、ぜんぶ聞いていらしたんですか!」


「猫の夕ごはんのあたりからは、特に熱心に」


顔から火が出るかと思った。よりにもよって、宰相府でいちばん仕事が速くて、いちばん冗談の通じなさそうな人に聞かれていたなんて!


ベルンハルト様は使節団の日程変更の書類を私に手渡しながら、わずかに首をかしげる。


「ひとつ伺っても?」


「なんでしょう」


「参考までに、私は何位でしょう」


真顔だった。からかっている様子はどこにもなくて、会議の議題の順番でも確かめるような口ぶりだったものだから、私はつい正直に答えてしまった。


「圏外です」


「圏外」


ベルンハルト様はその言葉をもう一度口の中で転がすと、何か考えるように視線を落としてから、また私の顔を見た。


「では、載れるよう努力します」


「ど、努力って、何をですか!」


聞き返したときにはもう、ベルンハルト様は一礼して回廊の向こうへ歩き出している。背筋のぴんと伸びた後ろ姿を見送りながら、私は手帳を胸に抱えたまま、しばらくその場に立ち尽くしていた。


その日、私は三年ぶりに定時で王宮を出た。


門番には目を丸くされ、帰りの馬車の御者には「どこかお加減でも」と心配され、屋敷に着けば侍女のアンが「お嬢様が明るいうちにお帰りに!」と大騒ぎして、ふだんは寝てばかりいるポムまで、のそのそと玄関に迎えに出てきた。温かいスープを二杯もおかわりして、まだ八時の鐘も鳴らないうちに寝台にもぐりこむ。


枕元で手帳を開くと、十二位のエドガー様の名前の下には、まだ白い余白が続いていた。


圏外、と書き足しかけて、やめる。代わりに、真顔で「努力します」と言った人の顔が浮かんできて、私は誰もいない部屋で一人、声を出して笑ってしまった。


その夜、私は朝まで一度も目を覚まさずに眠った。


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