第五十七話「消えた足跡」
《571,309,482人》
《死者数 9,824,617人》
感染者数も死者数も増加を続けていた。
凶暴型に襲われた人間が新たな凶暴型となり、さらに別の人間を襲う。
各国では発砲による対応が続いていたが、それでも感染の連鎖を止めるには至っていない。
研究所でも状況は変わらなかった。
「赤石さん、ドイツの研究チームから新しいデータです」
「そこ置いといてくれ。あとフランスの分と比較して、共通してる部分だけ抜き出してくれ」
「分かりました」
「隔離施設のデータは?」
「届いています。ただ、二施設と連絡が取れなくなりました」
「……そうか」
赤石は一瞬だけ手を止めた。
だが、すぐにモニターへ視線を戻した。
今も世界では人が死んでいる。
藍染が生きているかもしれない。
だからといってそれだけを追いかけるわけにはいかなかった。
赤石は今まで通り研究に参加し、感染状況を追い続けた。
そして周囲から人がいなくなると別の画面を開いた。
そこに映し出されたのは藍染燈也。
「…………」
赤石は一人で、藍染の足跡を追っていた。
――――――――――
大学。
論文。
研究機関。
過去の住所。
藍染の名前が残っている記録を、一つずつ辿った。
だが。
「……やっぱおかしいな」
赤石が呟く。
六年前、藍染は突然、赤石の前から姿を消した。
家にも帰らなくなり。
大学へ行けば。
『藍染燈也という学生は在籍していない』
そう言われた。
それなのにその後も研究成果だけは残っていた。
『人間細胞における抗死滅性遺伝子の活性化』
『再構築された命への序章』
他にも複数の研究記録。
確かに藍染燈也という人間が研究していた痕跡はある。
なのに。
「どこでやってたんだ……?」
研究成果はある。
論文もある。
だがそれを生み出した場所が見えてこない。
赤石は椅子にもたれた。
「六年間だぞ……」
六年間。
人間が生きていれば、何かしら残る。
住む場所。
食事。
移動。
人との接触。
研究をしていたのなら、なおさらだった。
設備が必要になる。
資材も必要になる。
何かを手に入れれば、どこかに記録が残る。
だが藍染燈也という人間は研究成果だけを残して生活そのものが消えていた。
「…………」
赤石はモニターを見つめる。
そして小さく笑った。
「お前、六年前からこれやってたのかよ……」
自分の存在を消す。
赤石にすら居場所を掴ませない。
そして六年後に突然現れる。
今回も死んだことになって姿を消した。
「……二回目じゃねぇか」
赤石が呟く。
「俺、お前に二回も消えられてんじゃん」
笑っているような声だった。
だが、その目は笑っていなかった。
「今度は見つけるからな」
赤石は再び画面へ向かった。
――――――――――
数時間後。
「…………ダメだ」
赤石は目元を押さえた。
調べても調べても出てこない。
藍染が六年間どこにいたのか。
どこで研究していたのか。
そして今、どこにいるのか。
何一つ分からなかった。
「なんなんだよ、こいつ……」
机の上には、藍染に関する資料が並んでいる。
大学時代の研究。
発表された論文。
救世主として表舞台に出てからの活動。
抗ウイルス薬。
抗ウイルス試薬A。
だがその間が繋がらない。
「…………」
赤石はノートを開いた。
そこには前日書いた言葉が残っていた。
『遺体のDNAは藍染燈也と一致』
『右手親指の付け根に、ほくろがない』
『六年間の研究』
そして。
『藍染燈也』
「…………」
赤石はペンを持つ。
その下に新しく一つ書き加えた。
『研究場所が分からない』
「論文だけ勝手に生えてくるわけねぇだろ……」
どこかにある。
藍染が研究していた場所が。
六年間誰にも知られずあれだけの研究を続けられた場所。
「…………」
その時。
「赤石さん」
突然声をかけられ、赤石は反射的にノートを閉じた。
「……おう」
研究員が資料を持って立っていた。
「さっきの比較データ、まとまりました」
「あぁ、ありがとう」
資料を受け取る。
研究員が赤石の机を見る。
「藍染さんの研究、何か分かりました?」
「…………」
赤石は閉じたノートに手を置いた。
「いや」
少しだけ笑う。
「相変わらず、何考えてんのか分かんねぇ奴だよ」
「そうですか……」
「あぁ。こっちは俺が続けるから、今は感染の方頼む」
「分かりました」
研究員が離れていく。
赤石は、その姿が見えなくなるまで待った。
そして再びノートを開く。
「…………危ねぇ」
誰にも言わない。
藍染が生きている可能性も、自分が藍染本人を探していることも。
まだ誰にも。
――――――――――
深夜。
研究所に残っている人間も少なくなっていた。
赤石は一人、藍染の資料を眺めていた。
「…………」
六年前。
大学から消えた。
生活の痕跡も消えた。
それでも研究だけは続いていた。
なら藍染には表に出ていない研究場所があった可能性が高い。
「でも、どこだよ……」
赤石は頭を掻いた。
藍染が行きそうな場所。
藍染が誰にも知られずにいられる場所。
六年間。
研究を続けられる場所。
「…………」
思いつかない。
子供の頃からずっと一緒にいた。
高校も一緒だった。
藍染の家にも何度も行った。
それなのに知らない。
「……クソっ」
赤石が呟く。
その時、机の端に置いていたスマートフォンが震えた。
画面には新たな感染状況。
《574,618,903人》
その下。
《死者数 10,306,281人》
「…………」
赤石の表情から、苛立ちが消えた。
藍染を探したい。
今すぐ。
だがその間にも世界は壊れ続けている。
「……分かってるよ」
誰に言うでもなく呟いた。
赤石は藍染の資料を閉じると、感染データを開いた。
今はこっちも止めるわけにはいかない。
それでも閉じた資料の一番上には一枚の紙が残っていた。
藍染燈也。
六年間。
誰にも知られず研究を続けていた男。
赤石は感染データを確認しながら一度だけその紙へ目を向けた。
「……絶対見つけるからな」
そして再び世界の感染状況へ目を戻した。
――――――――――
翌日。
赤石は感染研究の合間を縫って、再び藍染の足跡を追っていた。
大学。
研究機関。
論文。
過去の住所。
調べる対象を変えても、結果は同じだった。
研究成果は存在する。
だがその研究を行った場所だけが見つからない。
「…………」
赤石は藍染が発表した論文の一つを開いた。
研究内容ではない。
今度は、その研究が行われた時期を見ていた。
「この時期……」
藍染が大学から消えた後だった。
次の論文。
さらに次。
「…………」
すべて六年間の空白の中にある。
「やっぱりそうだ」
赤石が椅子から身体を起こした。
大学にいない。
既存の研究機関にもいない。
自宅にも戻っていない。
なのに研究は止まっていない。
それどころか藍染の研究は、この六年間で急速に進んでいる。
「場所があったんだ」
赤石が呟く。
「俺が知らない……」
「藍だけの研究場所が」
そう考えれば辻褄が合う。
六年間、藍染は消えていたのではない。
どこかにいた。
赤石が知らない場所でずっと研究を続けていた。
「…………」
赤石はノートに新しく書き込んだ。
『個人研究施設?』
その文字を丸で囲む。
「でも……」
問題はどこにあるのか。
藍染が六年間、誰にも知られずに研究できる場所。
研究設備を置ける。
人目につかない。
そして藍染自身が選びそうな場所。
「…………」
赤石は腕を組んだ。
自宅ではない。
大学でもない。
公的な研究施設でもない。
「他にあいつが行きそうな場所……」
子供の頃、中学、高校。
記憶を遡る。
公園。
学校。
バイト先。
よく通った道。
赤石と遊んだ場所。
「…………違うな」
どれも研究施設を隠せるような場所ではない。
赤石は息を吐いた。
「こんだけ一緒にいたのに……」
小さく笑う。
「知らねぇことばっかじゃねぇか」
その時。
赤石の視線が、机の端で止まった。
そこには藍染に関する資料とは別に一枚の紙が置かれていた。
以前何度も読み返したもの。
藍染が残した手紙の写しだった。
「…………」
赤石はそれを手に取った。
『赤へ』
見慣れた文字。
『ここに辿り着くとは、やるね。』
「…………」
あの時は抗ウイルス試薬Aについての警告を残すための手紙だと思っていた。
実際そこにはAについての考察が記されていた。
だが最後、藍染はわざわざ別のことを書いている。
『あと、赤。』
赤石の目が止まる。
『どうして研究室じゃなく、この定食屋にしたか分かるか?』
「…………」
一瞬、赤石の頭に何かが引っ掛かった。
だがすぐには繋がらない。
『どうして、お前に気付かせるようにしたか分かるか?』
「…………」
『それは――』
そして。
『会った時話すわ!』
赤石は手紙を見つめたまま動かなかった。
「…………」
数秒。
「……いや」
手紙を机へ戻す。
「今はこっちじゃねぇ」
藍染が生きている。
それが分かった今。
『会った時話すわ!』
その意味は以前とは違って見える。
だが今探しているのは藍染の居場所だ。
六年間。
どこで研究していたのか。
その場所を――
「…………」
赤石の手が止まった。
もう一度ゆっくりと手紙を見る。
『どうして研究室じゃなく、この定食屋にしたか分かるか?』
「…………」
研究室。
定食屋。
「…………ん?」
赤石が手紙を手に取る。
もう一度読む。
『どうして研究室じゃなく、この定食屋にしたか分かるか?』
「…………」
今までこの文章を。
『研究室ではなく、思い出の定食屋に手紙を残した理由』
だと思っていた。
だが。
もし。
そうじゃなかったら。
「…………待て」
赤石の表情が変わる。
藍染には自分の知らない研究場所がある。
そして藍染はわざわざ研究室と定食屋を並べて書いている。
「…………」
赤石の心臓が大きく鳴った。
「いやいや……」
立ち上がる。
だがすぐに座る。
「待て待て」
考えすぎかもしれない。
たまたまだ。
単純に二人の思い出の場所だったから。
あの定食屋に手紙を残しただけかもしれない。
「…………」
赤石は再び手紙を見る。
『ここに辿り着くとは、やるね。』
「…………」
『どうして研究室じゃなく、この定食屋にしたか分かるか?』
「…………」
『どうして、お前に気付かせるようにしたか分かるか?』
赤石の眉間に皺が寄る。
「……あっ」
ようやく一つの可能性が繋がった。
「もしかして、あいつ……」
赤石は立ち上がった。
椅子が後ろへ動く。
「まさか……」
手紙を握ったまま赤石は呆れたように笑った。
「定食屋にした理由って……」
そして数秒。
「…………クソっ」
涙を流していた昨日とは違う。
今度は完全にいつもの赤石の顔だった。
「本当にムカつく……!」
赤石は手紙を持ち。
研究室を出ようとする。
だが扉の前で止まった。
「…………」
振り返る。
まだ研究員たちがいる。
誰にも話さないと決めた。
ここで慌てて定食屋へ向かえば、不自然に思われるかもしれない。
赤石は一度、息を吐いた。
「……落ち着け」
藍ならここまで考える。
なら自分も考えろ。
赤石は席へ戻った。
そして何事もなかったように感染データの画面を開いた。
「…………」
だが、もう数字などほとんど頭に入っていなかった。
赤石の頭にあるのは一つだけ。
あの定食屋。
藍染が手紙を残した二人の思い出の場所。
そして藍染がわざわざ。
『研究室』という言葉と並べた場所。
赤石は時計を見る。
「…………」
今すぐ行きたい。
それでも周囲には誰も気付かせない。
数時間後。
研究所を出るまで赤石は一度も定食屋の名前を口にしなかった。




