第五十六話「生存者」
遺体安置所を出た赤石は、一人で研究所へ戻っていた。
藍は生きている。
少なくとも赤石は、そう確信していた。
右手の親指の付け根にあるはずの、小さなほくろ。
ずっと一緒にいた赤石だからこそ気付けた、ほんの小さな違和感。
だが研究所へ戻るまでの間、赤石の頭は少しずつ冷静さを取り戻していた。
「…………」
歩きながら考える。
藍が生きている。
もしそれが本当なら。
「……待てよ」
赤石の足が止まった。
なぜ藍染燈也は死んだことになっている?
遺体まで用意されている。
しかもDNAは一致していた。
世界中が藍染燈也の死を信じている。
それほどの状況を作ってまでなぜ藍は姿を消す必要があった?
「…………」
分からない。
ただ一つだけ、赤石にも分かることがあった。
「これ……今は誰にも言わねぇ方がいいな」
藍染燈也は世界の救世主だった。
その藍染が生きている可能性がある。
そんな情報が公になれば、どうなるか。
政府が動く。
研究機関が動く。
メディアが動く。
そして、治療法を求める世界中の人間が動く。
現在、世界では凶暴型による感染が拡大し続けている。
治療研究もまともに進んでいない。
そんな状況で。
『藍染燈也は生きている』
その情報が広がれば世界は再び藍染一人に希望を求める。
「それに……」
赤石が小さく呟く。
「藍が自分から出てこねぇ理由が分からねぇ」
生きているのならなぜ姿を現さない。
何か理由があるはずだった。
誰かに狙われているのか。
研究を続けるためなのか。
それとも赤石の知らない何かがあるのか。
今の段階では何も分からない。
なら。
「俺が見つけるまで黙っとくか」
赤石は再び歩き出した。
あの遺体にほくろがなかったことも。
藍染の生存を疑っていることも。
誰にも話さない。
少なくとも藍染本人を見つけるまでは。
――――――――――
研究所へ戻ると、そこには変わらない光景があった。
いや、以前と比べれば、変わり果てた光景だった。
空席が増えた研究室。
感染によって隔離された研究員。
動かなくなった研究チーム。
それでも残った人間たちは、必死にモニターへ向かっていた。
「赤石さん」
一人の研究員が赤石に気付いた。
「戻ったんですね」
「あぁ。こんな時に抜けてすまなかった」
「いえ、藍染さんは赤石さんにとって……」
その言葉を遮るように、別の研究員が慌ただしく駆け寄ってきた。
「感染者数がまた増加しています。それと、凶暴型への対応について各国から新しいデータが――」
「分かってる。まとめて俺のところに送っといてくれ」
「分かりました」
研究員が頷く。
赤石は自分の席へ向かった。
だが数歩進んだところで。
「赤石さん」
再び呼び止められる。
「ん?」
「これからどうします?」
赤石は少しだけ黙った。
世界では感染が続いている。
凶暴型が人を襲い。
襲われた人間が新たな凶暴型となる。
隔離だけでは、もう抑えられない。
研究者まで感染し治療法の研究そのものが止まり始めている。
本来なら今まで通り感染者を追うべきだった。
抗ウイルス試薬Aを追うべきだった。
凶暴型を調べるべきだった。
だが赤石の中で優先順位が変わっていた。
「藍の研究を、もう一回最初から洗う」
「藍染さんの?」
「あぁ」
研究員が少し考える。
「抗ウイルス試薬Aについてですか?」
「それも含めて全部だ」
赤石は答えた。
「六年前の論文から、最近の研究まで全部見直す」
「何か見つかりそうなんですか?」
「…………」
赤石は一瞬だけ黙った。
「分からねぇ」
そして。
「ただ、まだ俺が見落としてるものがある気がする」
研究員は頷いた。
「分かりました。こちらは今まで通り、感染状況と凶暴型のデータを追います」
「あぁ、頼む」
「何か必要なら言ってください」
「ありがとな」
研究員が離れていく。
その背中を赤石はしばらく見ていた。
「…………」
そして、誰にも聞こえない声で呟いた。
「悪いな」
嘘は言っていない。
藍染の研究を調べる。
それは本当だ。
だが赤石が探そうとしているものは。
抗ウイルス試薬Aではない。
新しい治療法でもない。
藍染燈也。
その人間自身だった。
――――――――――
赤石は一人、机の前に座った。
モニターにはこれまで集めてきた藍染の研究資料、過去の論文、大学時代の記録。
そして六年間という空白。
赤石はノートを一冊取り出した。
「……整理しよう」
ペンを握る。
まず一つ目。
『遺体のDNAは藍染燈也と一致』
二つ目。
『右手親指の付け根に、ほくろがない』
赤石のペンが止まる。
「…………」
どう考えても。
この二つは矛盾している。
だが赤石は二つ目を消さなかった。
DNA鑑定がどれほど正確でも自分の記憶を疑うつもりはなかった。
三つ目。
『六年間の研究』
その下に二つの論文名を書く。
『人間細胞における抗死滅性遺伝子の活性化』
『再構築された命への序章』
「…………」
そして赤石の頭に、もう一つの光景が浮かんだ。
藍染が死んだ後、初めて入った研究室。
異様なほど整えられていた机。
整理された資料。
シュレッダー。
電源の落ちたパソコン。
「……待てよ」
赤石の手が止まる。
あの時も引っ掛かっていた。
ただ藍染が死んだ。
その事実があまりにも大きすぎてそれ以上、考えられなかった。
「なんで……」
赤石が顔を上げる。
「なんであの研究室、あんなに綺麗だった?」
誰かに撃たれ。
突然、命を奪われた人間の研究室。
それなのに。
まるで。
「…………」
赤石の表情が変わる。
「藍……」
あの日、藍染は研究室で何をしていた。
何を片付け。
何を残した。
そして。
なぜあれほど綺麗な状態だった。
「お前……」
赤石は小さく息を吐いた。
「最初から、あそこに戻るつもりなかったのか……?」
一瞬。
別の考えが頭をよぎる。
誰かに狙われていた?
だから逃げた?
死んだことにする必要があった?
それならあの遺体は何だ。
なぜDNAまで一致している。
「…………分かんねぇ」
赤石は椅子の背もたれに身体を預けた。
分からないことだらけだった。
だがさっきまでとは違う。
藍染は死んだ。
その前提で考える必要は、もうない。
赤石は再び身体を起こした。
そしてノートの中央に大きく一つ名前を書いた。
『藍染燈也』
その名前を赤石はしばらく見つめていた。
「六年消えた時もそうだったな……」
誰にも何も言わず突然いなくなった。
大学へ行っても記録すら残っていなかった。
それでも研究だけは世界のどこかで続いていた。
そして六年後。
何事もなかったように自分の前へ戻ってきた。
「今回も同じか?」
返事などない。
それでも赤石は、少しだけ笑った。
「だったら……」
机の上にある資料を一つ手に取る。
「今度は六年も待たねぇぞ」
藍染が生きていることを知っている者は。
まだ世界に赤石一人しかいない。
そしてその日から、赤石燈也は世界を救う方法と並行して誰にも知られることなく藍染燈也を探し始めた。




