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第五十五話「生きている」

世界中で凶暴型への発砲が始まった翌日。


赤石は、一人である施設を訪れていた。



白い廊下。


無機質な壁。


一定の間隔で並ぶ扉。



研究施設ではない。



その先にいるのは。


藍染燈也。



正確には藍染燈也として確認された遺体だった。



発見されてから、すでに時間が経っている。


身元の確認も終わっていた。



そして、この後にはさらに詳しい検査が予定されている。



赤石は受付で事情を話し、しばらく待った後、一人の係員に案内されて廊下を歩いていた。



「こちらです」



係員が扉の前で止まる。



「……ありがとうございます」



赤石は小さく頭を下げた。



扉が開く。



冷えた空気が肌に触れた。



部屋の中央には。


一台の台。



その上に、白い布をかけられた遺体が横たわっていた。



「…………」



赤石の足が止まる。



ここへ来るまで何度も自分に言い聞かせてきた。



確認するだけだ。



もう藍は死んでいる。



分かっている。



今さら何を見たって。


何も変わらない。



それでも足が動かなかった。



「……藍染さんのお知り合いですか?」



係員の声に、赤石は少し遅れて答えた。



「……はい」



そして。



少し考えてから。



「ガキの頃から、ずっと一緒でした」



係員は何も言わず、小さく頭を下げた。



やがて白い布がゆっくりと下げられる。



「…………」



赤石は息を止めた。



顔はほとんど原形を残していなかった。



銃撃を受け。


研究施設の裏を流れる川へ落ちた。



その際に頭部を岩か何かへ強く打ちつけたのだろうと説明されていた。



それほどまでに顔面は大きく損傷していた。



「…………藍」



赤石が、かすれた声で名前を呼ぶ。



返事はない。



当たり前だった。



「……ほんとに」


「死んだんだな……」



その瞬間、赤石の頬を、一筋の涙が流れた。



「…………」



もう一筋。



そして、止まらなくなった。



「藍……ごめん」



赤石は俯いた。



「俺があの日……」


「また会えるんだって……勝手に安心なんかしないで……」



声が震える。



「ちゃんと会いに行ってれば……」


「お前のところに行ってれば……」


「もしかしたら……あぁはならなかったかもしれねぇのに……」



拳を握る。



「俺さ……」


「もう一回、お前と一緒にやれると思ってたんだよ……」



涙が床へ落ちる。



「今度こそ……もっとずっと一緒に生きて……」


「二人で夢、叶えられると思ってたんだよ……」



もう声を抑えられなかった。



「藍……」


「どうしたらいいんだよ……」



赤石が顔を覆う。



「もう……どうしていいか分かんねぇよ……!」



係員は何も言わなかった。



ただ。


少し離れた場所に立っていた。



「世界中こんなんなって……」


「人はどんどん感染して……」


「研究する奴までいなくなって……」


「俺……まだ全然お前に追いつけてねぇのに……!」



声が崩れる。



「今、何からやればいいのかも分かんねぇんだよ……!」



赤石は泣いた。



子供の頃から何度も隣にいた男。



六年間消えてようやく再会できた男。



また一緒にやれると。


そう思っていた男。



その男が目の前で冷たくなっている。



「…………藍」



しばらくして。


赤石はゆっくりと手を伸ばした。



せめて最後に。



触れておきたかった。



白い布から出ていた藍染の右手を取り。



強く握る。



「…………」



その時だった。



「……ん?」



赤石の涙が止まる。



右手を見る。



「…………」



親指。



その付け根。



赤石は何も言わず、そこを見つめた。



「……ん?」



もう一度見る。



指で軽く確かめる。



ない。



「…………」



赤石の表情が変わった。



「いや……」


「待てよ……」



記憶を辿る。



小学生の頃。



中学。



高校。



何度見たかなんて覚えていない。



そもそも覚えようと思って覚えたものですらない。



ただずっと一緒にいたから知っている。



「……あったよな?」



赤石が呟く。



藍染の右手。


親指の付け根。



かなり小さなほとんど気にならない程度のほくろ。



「……あった」



間違いない。



「藍……あったよな……?」



赤石が遺体の手をもう一度確認する。



ない。



「…………」



頭が混乱する。



そんなはずはない。



この遺体は藍染燈也だ。



正式に確認されている。



「すみません」



突然呼ばれ、係員が振り返る。



「はい?」



赤石が立ち上がった。



「これ……」


「藍の、藍染燈也の遺体ですよね?」



係員が一瞬、不思議そうな顔をする。



「はい。そうですが……」



「間違いないですか?」



「……少々お待ちください」



係員が手元の記録を確認する。



数秒。



「はい。改めて確認しましたが、藍染燈也さん本人の遺体で間違いありません」



「…………」



赤石は遺体を見る。



「DNAとかも……調べたんですよね?」



「はい」



係員は頷いた。



「身元確認に必要な検査はすべて行われています。確認も取れていますので、間違いありません」



「…………」



赤石は数秒、黙っていた。



「……そうですか」



そして小さく頭を下げる。



「分かりました」


「ありがとうございます」



係員が少し離れる。



赤石は。


もう一度、遺体の右手を見た。



DNAは一致している。



身元確認も終わっている。



正式に。



藍染燈也。



「…………」



それなのに。



赤石の中では。



さっきまでとは全く違う答えが出ていた。



「……違う」



小さく呟く。



もう一度。



「藍じゃない」



赤石は右手を握ったまま、その親指の付け根を見る。



「俺が……」


「藍の手を見間違えるわけねぇだろ……」



幼い頃からずっと一緒だった。



朝起きたら顔を洗うのと同じくらい隣にいることが当たり前だった。



その男の手を自分が知らないはずがない。



「…………」



赤石の頭に一つの文章が浮かんだ。



『あと、赤。』



藍染が定食屋に残していた手紙。



『どうして研究室じゃなく、この定食屋にしたか分かるか?』


『どうして、お前に気付かせるようにしたか分かるか?』


『それは――』



そして最後の一文。



『会った時話すわ!』



「…………」



赤石の目が大きくなる。



「会った時……?」



あの時は意味が分からなかった。



死んだ人間が何を書いているんだと思った。



でも。



もし。



「……お前」



赤石の口元が。


ほんの少しだけ緩んだ。



涙はまだ流れている。



「もしかして……」



一度、首を振る。



「いや……」



もう一度、右手を見る。



そして笑った。



「もしかしなくても……」



涙を流しながら赤石は笑った。



「あいつ……まだなんか仕込んでやがる」



DNAが一致している理由は分からない。



どうやったのかも分からない。



この遺体が誰なのかも分からない。



それでも一つだけ赤石には確信があった。



「藍は……生きてる」



その言葉を口にした瞬間。



さっきまで崩れきっていた赤石の表情が少しだけ戻った。



「そうだよ……」



藍染が残した論文。



人間細胞における抗死滅性遺伝子の活性化。



再構築された命への序章。



六年間。



自分の知らないところで藍染が積み上げてきた研究。



「DNAまで一致してる……」


「普通ならありえねぇよ」



赤石は涙を拭う。



「でも……」



目の前の遺体を見る。



「お前なら……」



何をしたのかは分からない。



だからこそ、調べればいい。



「……探そう」



赤石が立ち上がる。



「Aじゃない」



「感染者でもない」



今まで自分は世界で起きていることばかり追っていた。



藍染が残したものを追い。


藍染の研究を追い。


抗ウイルス試薬Aを追った。



なのに。



一番最初に確かめるべきことを、確かめようともしなかった。



「また俺、間違えた……」



赤石が涙を拭う。



「まず、お前を探すべきだったんだ」



死んだと聞いて。


死体が見つかったと聞いて。


DNAが一致したと聞いて。



信じた。



「俺が……」


「お前が生きてるって信じられなかった」



赤石は俯いた。



「また間違えた……」



それでも、今度は少し笑っていた。



「クソっ……」



涙が頬を伝う。



「ほんと……追いつけねぇな、藍」



赤石は最後にもう一度、目の前の遺体を見た。



さっきまで親友だと思っていた遺体。



だがもう違う。



「待ってろ」



小さく呟く。



「今度は俺から見つけてやる」



そして、赤石は部屋を出た。



藍染燈也を探すために。

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