第五十八「知らなかった六年間」
数時間後、赤石は時計を確認した。
研究所では今も、何人もの研究員がモニターに向かっている。
感染者数の増加。
凶暴型による被害。
各国から次々と送られてくる新たなデータ。
やるべきことはいくらでもあった。
それでも赤石の頭から、あの定食屋が離れなかった。
「…………」
もう一度時計を見る。
そして近くにいた研究員へ声をかけた。
「悪い。ちょっと出てくる」
「どこか行くんですか?」
「あぁ。藍の昔のこと、もう少し調べてくる」
「藍染さんの?」
「あぁ。ここで資料見てるだけじゃ分からねぇこともあるからな」
嘘ではない。
藍染のことを調べに行く。
ただ、本当に探しているものは言わない。
「こっちは?」
「さっきまでの続き頼む。何か大きく変わったら、すぐ連絡くれ」
「分かりました」
「悪いな」
赤石は手紙の写しを折り畳み、ポケットへ入れた。
そして誰にも本当の目的を話さないまま、研究所を出た。
――――――――――
しばらくして赤石は一軒の定食屋の前に立っていた。
店の明かりは消えている。
この状況だ、当たり前のように入口には営業休止を知らせる紙が貼られていた。
「…………」
何度も来た場所。
藍染と飯を食った場所。
そして、あの手紙が残されていた場所。
赤石は店を見上げた。
「……何があんだよ、ここに」
店内を覗く。
当然、客はいない。
静まり返った店内。
その奥に、わずかに人影が見えた。
赤石は入口の扉を軽く叩いた。
少しして、店の奥から女将が姿を現した。
赤石を見る。
「…………」
少し驚いたような表情を浮かべると、女将は入口まで歩いてきて鍵を開けた。
「赤石さん……?」
「すみません、女将さん。こんな時に」
「どうしたんですか?」
「ちょっと聞きたいことがあって」
女将は少し不思議そうに赤石を見たが、扉を開けた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
赤石は店の中へ入った。
「…………」
久しぶりに入る店内。
営業していないことを除けば、赤石の記憶にある景色とほとんど変わっていない。
カウンター。
テーブル。
椅子。
赤石はゆっくりと周囲を見渡した。
そして、一つの席で目が止まる。
「…………」
六年ぶりに藍染と再会した日。
二人で唐揚げ定食を食べた席だった。
赤石は何も言わず、その席へ向かった。
「ここ、座ってもいいですか?」
「えぇ、もちろん」
椅子を引いて座る。
向かいには誰もいない。
だが、あの日はそこに藍染がいた。
『全部終わったら会社作るぞ』
『勝手に決めんな』
『俺は昔から勝手だろ』
『知ってる』
「…………」
赤石は少しだけ笑った。
そして、その席に座ったまま店内をゆっくりと一周見渡した。
右。
左。
カウンター。
厨房。
その向こう。
店の奥。
どこを見ても、昔から知っている何の変哲もない定食屋だった。
「赤石さん?」
女将の声で、赤石が視線を戻す。
「あぁ、すみません」
「何かあったんですか?」
赤石は少し間を置いた。
「女将さん。藍のことでちょっと聞きたいんですけど」
「燈也君のことですか?」
「はい」
赤石は女将を見る。
「藍って、昔からここによく来てましたよね?」
「えぇ。学生の頃から来てましたよ」
「俺が一緒じゃない時もですか?」
「来てましたね」
「…………」
赤石は少し間を置いた。
「俺たちが大学に入った後も?」
「えぇ」
女将は頷いた。
そして、少し懐かしそうに。
「というより……その頃からずっとうちにいたのよ」
「…………」
赤石は一瞬、言葉の意味を理解できなかった。
「……えっ?」
女将を見る。
「ずっと……ここに?」
「そうよ」
「…………」
赤石は言葉を失った。
そんなこと想像もつかなかった。
六年前、藍染の家へ行った。
誰もいなかった。
大学へ行った。
藍染燈也という学生は存在しないと言われた。
メッセージを送っても、既読すらつかなかった。
どこにいるのか。
何をしているのか。
何一つ分からなかった。
なのに。
「……ここにいたんですか?」
「えぇ」
「…………マジかよ」
赤石は思わず額に手を当てた。
自分は藍染を探して大学まで行った。
家にも何度も足を運んだ。
それなのに子供の頃から何度も来ていたこの定食屋にあいつはいた。
赤石はしばらく呆然としていたが、すぐに顔を上げた。
「何しに来てたんですか?」
「部屋を貸してほしいって言われたのよ」
「……部屋?」
「地下にね、昔使ってた貯蔵室があるの」
女将は店の奥へ視線を向けた。
「漬物とか食材を置いてたところなんだけど、しばらく使ってなかったから」
「…………」
「燈也君が、自分で掃除も片付けもするし、中にある物も整理するから使わせてほしいって」
赤石の表情が少しずつ変わっていく。
「それで……貸したんですか?」
「えぇ。昔から知ってる子だし、使ってない部屋だったからね」
女将は少し懐かしそうに笑った。
「……実はね、今だから話すけど」
「はい?」
「燈也君が高校生の頃、たまに夜ご飯を持たせてたのよ」
赤石は少し笑った。
「あぁ……それはなんとなく知ってました」
「知ってたの?」
「藍、たまに見覚えのないおかず持って帰ってたんで」
赤石も懐かしそうに笑う。
「聞いても『店の残りだって』しか言わなかったですけど」
「あら……」
女将は少し困ったように笑った。
「残り物って言えば、あの子も受け取ってくれたから」
「やっぱりそうだったんですね」
「一人だったでしょ、あの子」
女将は静かに続けた。
「ちゃんと食べてるのか、それだけは昔から気になってたのよ」
「…………」
「だから大学に入ってから、ここに来るようになった時は少し安心したわ」
「安心した?」
「えぇ。いっそのことここに来てくれた方が、私も作ったものをすぐ食べてもらえるからね」
「…………」
赤石は少しだけ俯いた。
自分が藍染を探し回っていた頃。
藍染はこの店に来ていた。
地下の部屋を借り。
女将の作った飯を食べていた。
「……なんだよ、それ」
思わず、いつもの口調が漏れた。
赤石は小さく笑う。
「俺、あいつがどこで何してんのか全然分からなくて……ずっと心配してたんですよ」
女将が少し驚いたように赤石を見る。
「そうだったの?」
「はい」
赤石は苦笑した。
「俺には何にも言わないで消えたんで」
「…………」
「なのに、ここでは普通に飯食ってたのかよ……」
赤石は額に手を当てた。
「ほんっとムカつくな、あいつ……」
それでも、その表情は少しだけ嬉しそうだった。
六年前。
自分には何も言わずに消えた。
何度連絡しても返事はなかった。
どこで何をしているのかも分からなかった。
でも、藍染は完全に一人だったわけではなかった。
少なくともここには、あいつがちゃんと飯を食っているか心配してくれる人がいた。
「…………」
赤石は顔を上げた。
そして、先ほどの話を思い出す。
「女将さん」
「なに?」
「その地下の部屋って……」
赤石は店の奥を見る。
「まだあるんですか?」
「あるわよ」
「…………」
赤石の目が変わった。
地下。
大学から消えた時期。
その後も発表され続けた研究。
六年間、どれだけ探しても見つからなかった研究場所。
そしてあの手紙。
『どうして研究室じゃなく、この定食屋にしたか分かるか?』
「…………」
赤石はゆっくりと立ち上がった。
ようやくすべてが一つに繋がった。
「もしかして、あいつ……」
『どうして、お前に気付かせるようにしたか分かるか?』
「まさか……」
赤石は笑った。
「定食屋にした理由って……」
そして。
「…………クソっ」
呆れたように。
それでもどこか嬉しそうに笑う。
「本当にムカつく……あいつ」
女将は何のことか分からないように赤石を見ていた。
「赤石さん?」
「あぁ、すみません」
赤石は店の奥へ視線を向けた。
「女将さん」
「なに?」
一度、息を吐く。
「その部屋……見せてもらってもいいですか?」
「えぇ、いいけど……」
女将はそう答えると、店の奥へ向かった。
赤石もその後を追う。
厨房を抜け。
さらに奥へ。
そこには赤石も知らなかった、小さな扉があった。
女将が扉を開ける。
その先には地下へ続く階段。
「…………」
赤石は黙って、その階段を見つめた。
六年間。
どれだけ探しても見つけられなかった。
藍染燈也の足跡。
それがずっとこんな近くにあった。
赤石は一段、階段を下りた。
そして、もう一段ゆっくりと地下へ向かっていく。
その先に何があるのかわからない。
ただ六年前に見失った藍染燈也へ続く道がようやく見つかった。




