第五十三話「本物」
《503,728,194人》
五億人を超えても、感染者数は増え続けていた。
人間を見つければ襲いかかり、襲われた人間も短時間でゾンビ化して、また別の人間へ襲いかかる。
これまでとは明らかに違う凶暴な感染者によって、世界各地で連鎖的な感染が始まっていた。
各国がこれまで維持してきた隔離体制は崩れ始め、警察、医療機関、軍、あらゆる組織が対応に追われている。
そして、その始まりには一つの共通点があった。
抗ウイルス試薬A。
一度は感染症状を改善させたとされる人間たち。
その一部が一定期間を経た後、突然これまでとは異なる凶暴なゾンビへと変わり始めていた。
しかし赤石たちには、まだ確かめられないことがある。
その人間たちが使ったものが、本当に藍染燈也が作った抗ウイルス試薬Aだったのか。
世界中に偽物が溢れた今、それを証明することはできなかった。
その夜。
麻生茂光の自宅。
深夜、静まり返った邸宅の中で何かが倒れる音がした。
ガタン――。
しばらくして。
「うわぁぁぁぁぁ!!」
男の悲鳴が響いた。
麻生が目を覚ます。
廊下の向こうから物が倒れる音、走る足音、そして再び悲鳴が聞こえた。
麻生はベッドから起き上がり、部屋を出る。
「何事だ!」
返事はない。
代わりに廊下の奥から、一人の使用人が青ざめた顔で走ってきた。
「麻生様……!」
「どうした!」
「お嬢様が……!」
その瞬間、使用人の背後から何かが飛びかかった。
「――っ!」
使用人が床へ倒れる。
その上に覆い被さった人間を見て、麻生の足が止まった。
「…………」
娘だった。
「……おい」
返事はない。
使用人が必死に逃れようとしているが、娘は止まらない。
これまでの彼女からは想像もできないほど激しく、獣のように目の前の人間へ襲いかかっている。
「何をしている!」
「やめろ!!」
麻生の声にも反応しない。
騒ぎを聞きつけた別の使用人たちが駆けつける。
「お嬢様!」
「近づくな!!」
遅かった。
娘が振り返り、次の人間へ襲いかかった。
邸宅に悲鳴が響く。
「…………」
麻生は動けなかった。
自分の娘を見ているはずなのに、目の前にいるものが自分の知っている娘には見えない。
その時、最初に襲われた使用人が床の上で動いた。
ゆっくりと立ち上がる。
「おい……」
次の瞬間、その使用人も近くにいた人間へ襲いかかった。
「…………!」
麻生の顔から血の気が引いた。
知っている。
ニュースで何度も見た、今まさに世界中で起きている異常。
「なぜだ……」
麻生の唇が震える。
娘は助かったはずだった。
千億という金を使って手に入れた、抗ウイルス試薬A。
世界中に溢れている偽物ではない。
研究所から奪われた、藍染燈也が作った本物のA。
それを娘に使い、症状は改善した。
娘は確かに戻ってきた。
だから麻生は思った。
金があれば、守れる。
「……本物だった」
麻生が呟く。
「間違いなく……本物だったはずだ……」
その声に反応したのか、娘の動きが止まった。
ゆっくりと顔が向く。
父親を見る。
「…………」
麻生が一歩、後ろへ下がった。
次の瞬間。
娘が麻生へ飛びかかった。
「――っ!」
麻生の身体が床へ倒れる。
「やめ……!」
娘を引き離そうと使用人たちが駆け寄る。
だが、その一人にも娘が襲いかかり、邸宅の中に悲鳴が響いた。
そして、それから間もなく。
最初に襲われた使用人が立ち上がった。
続いて、別の使用人も。
そして床に倒れていた麻生の身体が、ゆっくりと動いた。
「…………」
立ち上がる。
その目に、先ほどまでの麻生茂光はいなかった。
娘を守るために、千億という金を使った男。
金があれば、守れる。
そう信じた男は、その金で救ったはずの娘に襲われ。
自らもゾンビになった。
同じ頃。
別の場所でも、一つの異変が起きていた。
藍染燈也を撃ち、研究所から抗ウイルス試薬Aを奪った男。
その男の妹は、Aを使用して以降、何事もなかったかのように落ち着いた生活を送っていた。
症状は消え、体調も戻っていた。
だが、その夜。
突然、妹の様子が変わった。
身体が激しく動き、次の瞬間には近くにいた兄へ襲いかかる。
「おい……!」
男が妹を押さえようとする。
だが、止まらない。
「やめろ!」
妹は兄の声にも反応せず、獣のように襲いかかった。
そして間もなく、男にも異変が現れた。
「…………」
ゆっくりと立ち上がる。
その目から、人間だった頃の意識は消えていた。
妹を救うために、男はあの日一本だけAを残した。
その一本で、確かに妹は一度救われた。
だが結局。
妹もその兄もゾンビになった。
翌朝。
《517,426,803人》
テレビでは、世界各地で発生している凶暴型について繰り返し報道されていた。
『世界各地で、凶暴型による新たな感染が急速に拡大しています』
『これまでに確認された事例では、凶暴化した感染者に襲われた人が短時間で同様の状態へ移行するケースが相次いでおり、各国が警戒を強めています』
画面が切り替わる。
『また国内では、大手企業グループを率いる麻生茂光氏の自宅でも同様の事例が確認されました』
『麻生氏の娘が複数の使用人を襲い、その後、襲われた使用人や麻生氏本人にも同様の症状が確認されたということです』
『麻生氏を含む感染者はすでに隔離されており――』
「…………」
研究室のモニターでニュースを見ていた赤石が、僅かに眉を寄せた。
「麻生……」
聞き覚えのある名前だった。
以前、世界中で感染が拡大した時、莫大な資産を持ちながら感染した娘をすぐに救うことができなかった男。
そして、その娘は一度回復している。
「……待てよ」
赤石が画面へ近づいた。
「この娘、前にも感染してたよな?」
「確認します」
研究者が端末を操作する。
しばらくして、一つの記録が表示された。
「……ありました」
「やっぱりか」
「以前の大規模感染時に発症しています。その後、回復したという記録があります」
「何で治った?」
「公的な記録には残っていません」
「…………」
赤石の表情が変わった。
「麻生について調べてくれ」
「麻生氏を?」
「あぁ。娘が回復した時期、その前後で何があったのか全部だ」
「分かりました」
研究者たちが動き始めた。
麻生茂光。
巨大企業グループを率い、世界でも有数の資産を持つ男。
娘が感染した当時の行動、治療に関する記録、周囲の人間とのやり取り。
その一つ一つが調べられていく。
そして。
「赤石さん」
「なんだ?」
「麻生茂光について調べていた件ですが……」
「何か分かったか?」
「はい」
研究者が画面を切り替える。
「麻生が藍染さんと直接接触していたことが判明しました」
「…………は?」
赤石が顔を上げる。
「藍と?」
「はい。二人は直接会っています。面会記録が残っています」
「いつだ?」
「以前、麻生氏の娘が感染した時期です」
「…………」
赤石は立ち上がり、画面を覗き込んだ。
日時。
場所。
そして。
藍染燈也。
麻生茂光。
二人が直接会っていた記録。
「何を話した?」
「詳しい会話の内容までは分かりません。ただ、その後も麻生氏側から藍染さん側へ複数回の接触があります」
「その後?」
「抗ウイルス試薬Aです」
赤石の目が止まった。
「…………」
研究者が記録を追う。
「Aの存在が知られた後、麻生氏側から譲渡の申し入れが行われています」
「金額は?」
「最初は十億です」
画面が切り替わる。
「その後、百億」
さらに。
「五百億」
そして。
「最終的には……千億です」
「……千億?」
赤石が呟いた。
「一本に?」
「はい」
「藍は?」
「すべて拒否しています」
「…………」
赤石はしばらく画面を見つめていた。
麻生茂光は藍染燈也を知っていた。
直接会い、言葉を交わしている。
そしてAが現れた時、一本の試薬に千億を提示した。
それでも藍染は売らなかった。
その直後。
藍染燈也は撃たれた。
研究所から十本のAが消えた。
そして。
麻生の娘は感染から回復した。
「……おい」
赤石の声が低くなる。
「この順番……」
研究者も黙って画面を見ていた。
藍染と直接会っている。
Aを求めている。
千億まで提示している。
拒否されている。
その後、藍染が撃たれた。
十本のAが強奪された。
そして麻生の娘が回復した。
さらに今、その娘が凶暴型へ変わり、麻生自身を襲った。
「…………」
赤石が椅子へ座った。
「麻生の娘が何を使って回復したのか、記録は?」
「ありません」
「……だろうな」
赤石はしばらく考え込む。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
「これ……」
「麻生が本物のAを手に入れてたって考えた方が自然じゃねぇか?」
研究室が静かになる。
「確証はありません」
「あぁ、分かってる」
赤石は画面を指差した。
「でも麻生は藍と直接会ってる」
「Aの存在も知ってた」
「一本に千億出して、それでも藍に断られた」
「その後、藍が撃たれてAが十本消えた」
「それから麻生の娘が回復してる」
赤石の視線がテレビへ向く。
「その娘が今度は、凶暴型になった」
「…………」
研究者の一人が息を呑んだ。
赤石は藍染が残した紙を手に取る。
『試薬Aは、一時的に症状を改善させる可能性がある。』
『しかし一定期間後、通常の感染とは異なる重大な異常が現れる可能性がある。』
『――だから、投与してはいけない。』
「一時的に改善」
「一定期間後」
「通常とは違う異常……」
赤石の目が細くなる。
「全部合ってる」
「…………」
「まだ証明はできねぇ。でも……」
赤石は麻生の名前を見る。
「こいつの娘が使ったのは、本物だった可能性がかなり高い」
そして。
赤石は知らない。
かつて、藍染燈也と麻生茂光が直接向き合ったあの日。
麻生は席を立った。
「金で買えないものなんて」
麻生は振り返らずに言った。
「この世にはない」
扉が閉まる。
藍染は一人、その言葉を聞いていた。
「……」
そして。
誰もいない応接室で小さく呟いた。
「……そうですか」
あの時、麻生茂光はまだ知らなかった。
自分がいつか、千億という金を使ってどうしても手に入れたかったものを手に入れその結果、最も守りたかった娘によって自らもゾンビになることを。
そして、そのニュースを別の場所でも見ている人物がいた。
薄暗い部屋。
モニターの光だけが、その人物の輪郭を僅かに照らしている。
画面には、隔離される麻生茂光の映像。
そして、次々と更新される感染者数。
《519,103,472人》
人物は何も言わない。
ただ静かに、画面を見ていた。
やがてその口元が僅かにニヤリと歪んだ。




