第五十二話「経過の先」
数日が経った。
世界の感染は、今も止まっていない。
《259,482,117人》
世界各地では、新たに発症した人間が次々とゾンビ化し、そのたびに隔離されていた。
そして感染と戦っている研究者たちも例外ではない。
赤石たちの研究施設でも、また一つ席が空いていた。
「…………」
赤石は一瞬だけ、その席を見る。
昨日まで、そこには一人の研究員が座っていた。
感染経路を調べ、各国から送られてくるデータを整理し、夜遅くまで研究を続けていた。
だが突然発症し、その後ゾンビ化。
現在は隔離されている。
世界各国の研究施設でも、同じことが起き続けていた。
研究者。
医師。
検査技師。
感染を止める側の人間が、少しずつ減っていく。
「……急ぐぞ」
赤石が言った。
「はい」
「俺たちだって、いつ発症するか分からねぇ」
研究者たちは黙って頷いた。
赤石は再びモニターへ視線を戻す。
そこには、抗ウイルス試薬Aを使用したと主張する人間たちの経過記録が並んでいた。
一日後――異常なし。
三日後――異常なし。
五日後――異常なし。
別の人物。
症状再発なし。
体調良好。
日常生活へ復帰。
さらに別の人物。
異常なし。
「…………」
赤石は黙って画面をスクロールする。
あれから可能な限り、世界中のA使用者に関する情報を集め続けていた。
だが相変わらず、藍染が残した警告に該当するような異常は確認されていない。
『試薬Aは、一時的に症状を改善させる可能性がある。』
『しかし一定期間後、通常の感染とは異なる重大な異常が現れる可能性がある。』
赤石は何度も、その文章を読み返していた。
「……まだ何もねぇな」
「はい」
研究者が答える。
「現時点では」
「…………」
「やはり、藍染さんの考察が間違っていた可能性も――」
その時だった。
「待ってください」
別の研究者が声を上げた。
「ん?」
赤石が振り返る。
「どうした?」
「……一件」
研究者がモニターを見つめている。
「経過観察中の人物に異常が出ています」
赤石がすぐに立ち上がった。
「どれだ?」
「こちらです」
画面が切り替わる。
海外。
抗ウイルス試薬Aを使用したと主張していた人物。
投与後、症状は急速に改善。
その後も再発なし。
数日前には、日常生活へ戻ったという報告まで残されていた。
「何があった?」
「先ほど、突然様子がおかしくなったと」
「再発か?」
「……いえ」
研究者が首を振る。
「少なくとも、これまで確認されていた発症とは経過が違います」
「どういうことだ?」
「通常であれば、ゾンビ化するまでにいくつかの症状が確認されます」
「あぁ」
赤石たちは、すでに二億人を遥かに超える感染者を見てきた。
発症。
症状の進行。
そしてゾンビ化。
だが。
「この人物には、その過程がほとんど確認されていません」
「…………」
「直前まで普通に生活しています」
「それが……」
研究者が言葉を止める。
「突然、ゾンビ化しました」
「……は?」
赤石の表情が変わった。
「ちょっと待て」
画面へ近づく。
「そいつ、Aで治ったって言ってた奴だよな?」
「はい」
「その後も異常なかったんだろ?」
「確認できている範囲では」
「じゃあ……」
赤石は画面を見つめる。
一度、完全に回復したように見えた人間。
その人間が何の前触れもなく再びゾンビになった。
「普通にまた発症したんじゃねぇのか?」
「その可能性も否定できません」
研究者が答える。
「ただ……」
「なんだ?」
「経過が違いすぎます」
「…………」
赤石の視線が、ゆっくりと机の上に置かれた藍染の考察へ向いた。
『しかし一定期間後、通常の感染とは異なる重大な異常が現れる可能性がある。』
「…………」
赤石はその一文を見つめる。
「……これか?」
誰も答えない。
「いや」
赤石が首を振った。
「待て。まだAが原因だって決まったわけじゃねぇ」
「はい」
「そいつが使ったAが本物だった証拠もねぇ」
「普通に発症した可能性だってある」
「記録だけ残せ」
「分かりました」
偶然。
その可能性は十分にある。
世界では今も毎日、新たな発症者が出ている。
Aを使用したと主張していた人間が、たまたま再び発症した。
それだけかもしれない。
だがその日の夜。
《261,037,492人》
二件目。
別の国。
同じく抗ウイルス試薬Aを使用したと主張していた人物。
一度は症状が改善。
その後、日常生活へ復帰。
そして突然のゾンビ化。
「……二人目」
赤石が呟いた。
「はい」
「通常の症状は?」
「ほとんど確認されていません」
「…………」
さらに数時間後。
三件目。
「…………」
研究室に重い空気が流れた。
三人。
全員、抗ウイルス試薬Aを使用したと主張していた。
全員、一度は症状が改善したとされている。
そして、全員、通常とは異なる経過で、突然ゾンビ化した。
「……偶然でしょうか」
研究者が呟いた。
赤石はすぐには答えなかった。
「分からねぇ」
「…………」
「まだ三人だ」
「しかも、こいつらが本物のAを使った証拠がねぇ」
「だったらまだ、Aが原因だとは言えねぇ」
その時。
「赤石さん!」
研究室に大きな声が響いた。
「今度はなんだ!?」
「最初の一人が……!」
「どうした!?」
「隔離が間に合っていません!」
「……は?」
赤石がモニターを見る。
現地から送られてきた映像。
そこにはゾンビ化した一人の人間が映っていた。
だが。
「……なんだよ、これ」
違う。
これまで見てきた感染者とは、明らかに違う。
理性を失っていることは同じ。
だが動きが違う。
激しい。
速い。
そして何より、人間の姿を見つけた瞬間、獣のように襲いかかっていた。
「止めろ!」
「近づくな!!」
「隔離区域から出すな!!」
映像の中で怒号が飛び交う。
一人が襲われた。
さらに一人。
「…………」
赤石は言葉を失った。
これまでゾンビ化した感染者は、各国が隔離し、辛うじて管理してきた。
だが目の前のそれは、人間を見つけると、自ら襲いかかる。
明確にこれまでとは違う。
「待ってください……」
研究者の声が震えた。
「なんだ?」
「今、襲われた人が……」
赤石が画面を見る。
「もう発症しています」
「……は?」
つい先ほど襲われたばかりの人間。
その人間が倒れ。
そして再び立ち上がった。
「……嘘だろ」
その直後、別の人間へ襲いかかった。
「速すぎる……」
一人から。
二人。
二人から。
さらにこれまでとは比較にならない速度で。
ゾンビ化が広がっていく。
「赤石さん!」
別の研究者が叫ぶ。
「二件目でも同じ現象が起きています!」
「……何?」
「三件目もです!」
「…………」
三つの国。
三人のA使用者候補。
そして三ヶ所すべてで同じことが起きている。
一度は回復した人間が突然、これまでとは異なるゾンビへ変わる。
人間を襲う。
襲われた人間もこれまでより遥かに短い時間でゾンビ化する。
そしてまた次の人間へ。
「……待て」
赤石が呟く。
机の上の紙を掴んだ。
『しかし一定期間後、通常の感染とは異なる重大な異常が現れる可能性がある。』
「通常の感染とは異なる……」
赤石の目が見開かれる。
「……これのことかよ、藍」
だが気付いた時には、すでに世界各地で異変が始まっていた。
《263,819,506人》
数時間後。
《271,438,905人》
「……増え方が変わってる」
研究者が呟いた。
それまでとは明らかに違った。
各国から、同じ報告が届き始めていた。
人が襲われる。
ゾンビ化する。
その人間が、また別の人間を襲う。
《286,719,443人》
「隔離が追いついていません!」
「市街地でも発生しています!」
「複数の都市で同時に拡大しています!」
各国がこれまで構築してきた隔離体制が少しずつ崩れ始めていた。
一人を隔離するまでにその一人が次の人間を襲う。
襲われた人間がさらに次を襲う。
これまでとは感染の広がり方そのものが違う。
そして夜が明けた。
赤石は一睡もしていなかった。
研究室では、世界中から送られてくる情報を研究者たちが休むことなく処理し続けている。
《327,506,817人》
「三億……」
それからも。
数字は増え続けた。
《361,847,220人》
午前。
《398,618,309人》
昼。
《427,291,774人》
「まだ増えています……」
「あぁ……」
赤石はモニターから目を離せなかった。
昨日まで世界は辛うじて保たれていた。
発症者を見つける。
隔離する。
それを繰り返すことで崩壊を食い止めていた。
だがその前提が完全に壊れ始めている。
《463,731,602人》
夕方。
各国の隔離施設は逼迫し。
都市によってはゾンビ化した人間を隔離することさえ難しくなっていた。
そして。
A使用者候補に最初の異常が確認されてから。
およそ一日。
「赤石さん……」
研究者の声に。
赤石が顔を上げる。
モニターを見る。
《498,731,602人》
「…………」
数字が。
変わった。
《500,103,881人》
五億人。
世界の感染者数が。
ついに。
そこへ到達した。
「……五億……」
誰かが呟いた。
昨日まで。
二億人台だった。
それが。
わずか一日で。
五億。
しかも。
まだ。
増えている。
赤石は藍染の残した警告を握り締めた。
『試薬Aは、一時的に症状を改善させる可能性がある。』
一時的に。
『しかし一定期間後、通常の感染とは異なる重大な異常が現れる可能性がある。』
通常とは異なる。
そして最後に残された。あの一文。
『――だから、投与してはいけない。』
「…………」
赤石は震える手で紙を握った。
一度は藍染の考察が間違っていたのかもしれないと思った。
Aによって救われた人間たちは。
何事もなく普通の生活へ戻っていた。
だが違った。
まだ。
経過の途中だった。
「……藍」
赤石は小さく呟いた。
「お前……」
「どこまで分かってたんだよ……」
《503,728,194人》
五億を超えても数字は止まらなかった。




