第五十一話「経過観察」
赤石は、六年前に藍染が残した研究を読み続けていた。
一つ読み終えれば、次へ。
その研究を読み終えれば、さらに次へ。
六年前には理解しきれなかったものも今なら分かる。
医療技術も進歩した。
赤石自身も、あの頃とは比べものにならないほど多くの知識を身につけた。
それでも読み進めるほどに思い知らされる。
「……やっぱすげぇな」
赤石が小さく呟いた。
六年前、まだ大学生だった藍染燈也が残した研究。
そこに記されているのは単純な治療法の研究ではなかった。
損傷した細胞をどう守るのか。
壊死した組織に対して、どこまで機能の回復を促せるのか。
そして回復した後、その状態がどう変化していくのか。
赤石の指が止まった。
「…………」
画面を少し戻す。
もう一度読む。
そして別の研究を開いた。
そこにもさらに別の研究にも。
似た考え方が何度も現れていた。
「……経過?」
近くにいた研究者が赤石を見る。
「どうしました?」
「いや……」
赤石は画面を見たまま答えた。
「藍の研究ってさ」
「はい」
「治ったかどうかより、その後をかなり気にしてないか?」
研究者も画面へ目を向ける。
いくつかの資料を確認していく。
「……確かに」
「回復直後の状態だけで結論を出していませんね」
「だよな」
「時間が経過した後にどう変化するか。そこまで確認して初めて結果として扱っているように見えます」
「…………」
赤石の頭の中に一つの言葉が蘇った。
『瞬間的に効果があっても経過を見ないと判断できない』
藍染が抗ウイルス試薬Aについて語った言葉だった。
「……これか?」
「え?」
赤石は立ち上がった。
そして机に置いてあった、藍染の残した考察へ手を伸ばした。
何度も読んだ文章。
そこには、
『試薬Aは、一時的に症状を改善させる可能性がある。』
『しかし一定期間後、通常の感染とは異なる重大な異常が現れる可能性がある。』
『その期間がどれくらいなのかは、俺にも分からない。』
『数日なのか、数週間なのか、それ以上なのか。』
『現段階では経過を観察する必要がある。』
赤石は最後の一文を見つめた。
「……経過を観察する必要がある」
六年前の研究。
そして抗ウイルス試薬A。
「藍はずっと同じことやってたんだ」
研究者が赤石を見る。
「同じこと?」
「治ったように見えたからって、そこで終わりにしない」
赤石は六年前の研究を指差した。
「こっちもそうだろ?」
「はい」
「一回回復したからって、その状態がずっと続くとは限らない」
「……なるほど」
「だから藍はAにも書いたんだ」
赤石は考察へ視線を戻した。
「経過を見ろって」
しばらく誰も言葉を発しなかった。
その間にも世界の感染は止まっていなかった。
《245,103,881人》
赤石が六年前の研究を読み進めている間にも。
数字は少しずつ、だが確実に増え続けていた。
そしてそれは研究施設の外だけで起きていることではなかった。
「赤石さん」
「ん?」
声をかけられ、赤石が振り返る。
研究員の一人が立っていた。
だが。
様子がおかしい。
「……どうした?」
「いや……なんか……」
研究員が額へ手を当てる。
「急に、身体が……」
「おい」
その身体が大きくふらついた。
近くにいた研究員が慌てて支える。
「大丈夫ですか!?」
「ちょっと待て!」
赤石が立ち上がる。
研究員は感染対策を徹底していた。
必要のない外出は避け施設への出入りも最低限。
感染者との接触も確認されていない。
この数日間ほとんどの時間を、この研究施設の中で過ごしていた。
それでも発症した。
「隔離室へ!」
「はい!」
研究員たちが動き出す。
赤石は運ばれていく男を見つめていた。
「…………」
まただ。
感染経路が分からない。
どこで感染したのか。
誰から感染したのか。
何をしたから感染したのか。
何も分からない。
だが異変はここだけではなかった。
その日の夜、海外の研究機関から報告が届いた。
アメリカ。
感染症研究に携わっていた研究員、一名が発症。
翌朝。
ドイツ。
二名。
さらに。
フランス。
一名。
日本国内の別の研究施設でも。
三名。
「……なんだよ、これ」
赤石が報告を見つめる。
彼らには共通点があった。
感染について一般の人間より遥かに多くの知識を持っていた。
感染者との接触を避け。
施設内への持ち込みを警戒し。
日々、徹底した感染対策を続けていた人間たちだった。
それでも発症する。
翌日にはさらに別の国から報告が届いた。
イギリス。
カナダ。
イタリア。
オーストラリア。
研究員。
医師。
検査技師。
感染を調べている側の人間たちまで。
少しずつ。
発症し始めていた。
「感染経路は?」
赤石が聞く。
「特定できていません」
「接触歴は?」
「確認できないケースがあります」
「施設の外にほとんど出てねぇ奴もいるんだろ?」
「……はい」
「じゃあ、なんでだよ」
誰も答えられなかった。
感染者を避けても。
人混みを避けても。
外出を控えても。
感染について誰より理解していても。
関係ない。
まるで。
どこにいても。
誰であっても。
逃げることなどできないかのように。
《247,826,419人》
数字はまた増えていた。
さらに二日後。
《251,438,672人》
研究施設の中でも。
病院でも。
自宅からほとんど出ていなかった人間からも。
新たな発症者が確認され続けていた。
世界中の研究者たちは。
感染を止めるために研究を続けていた。
だがその研究者自身が、一人。
また一人と研究室から消えていく。
赤石は空いた席を見つめた。
数日前まで。
そこには仲間が座っていた。
「…………」
さらに新しい報告が届く。
アメリカ。
感染症研究に携わる研究員、二名。
ドイツ。
一名。
イギリス。
三名。
感染を研究している人間も。
治療法を探している人間も。
例外ではなかった。
「……まずいな」
赤石が呟いた。
「え?」
「このままだとまずい」
赤石は世界各地から届く報告を見つめた。
「感染者が増えるだけじゃねぇ」
「このまま研究者まで発症し続けたら……」
一度、言葉を止める。
「研究できる奴がいなくなる」
研究室が静まり返った。
感染者を救うためには研究する人間が必要だった。
原因を調べる人間。
ウイルスを解析する人間。
治療法を考える人間。
薬を作る人間。
だが、今、その人間たちまで。
同じように発症し始めている。
「……時間がねぇな」
赤石が椅子へ戻った。
「急ぐぞ」
「はい」
「藍が残したものも、Aの経過も、全部だ」
「俺たちが動けるうちに、少しでも先に進める」
誰もそれに反対しなかった。
なぜなら。
次にこの研究室から消えるのが誰なのか、それすら分からなかったからだ。
「……でも」
赤石は再び藍染の考察を見る。
「肝心のAがねぇ」
研究所から奪われた十本の抗ウイルス試薬A。
その後、世界中に現れた大量の偽物。
今も本物を求める人間は後を絶たない。
だが赤石たちは、本物を一つも確認できていなかった。
本物がどこにあるのか。
誰が持っているのか。
そもそも。
まだ残っているのか。
何も分からない。
「…………」
赤石が椅子へ座る。
そして。
突然、動きを止めた。
「……待てよ」
研究者が振り返る。
「どうしました?」
赤石は何も答えない。
数秒。
何かを考え続ける。
そして顔を上げた。
「Aを探す必要ねぇんじゃねぇか?」
「え?」
「いや……違うな」
赤石はすぐに言い直した。
「Aだけを探す必要がない」
「どういうことですか?」
「本物のAが見つからねぇなら」
赤石は藍染の考察を見る。
「本物を使った人間を探せばいい」
「……!」
研究者の表情が変わった。
「Aそのものがなくても、使った人間がいるなら経過は追える」
「ですが、本物を使用したかどうかの確認が……」
「できねぇ」
赤石は即答した。
「今出てる情報だけじゃ、本物か偽物かなんて分からない」
「だったら……」
「全部だ」
「え?」
「世界中から集める」
赤石は立ち上がった。
「抗ウイルス試薬Aを使ったって言ってる人間」
「本物でも偽物でもいい」
「とにかく可能性がある奴を全部集める」
「使用した日時」
「その時の症状」
「使用直後にどうなったか」
「それから今まで、何が起きたか」
「追える範囲で全部だ」
研究者はすぐに端末へ向かった。
「各国の研究機関にも協力を要請します」
「あぁ」
赤石はもう一度。
藍染の言葉を見る。
『現段階では経過を観察する必要がある。』
「藍」
小さく呟く。
「お前が何を見てたのか」
「俺も見てやるよ」
それから世界各地から情報が集められ始めた。
抗ウイルス試薬Aを使用したと主張する人間。
家族。
医師。
病院。
研究機関。
SNS上に残された記録。
真偽の確認できない情報も大量にあった。
本物のAだったのか。
偽物だったのか。
それすら分からない。
それでも赤石たちは一つずつ記録していった。
使用直後――症状改善。
一日後――異常なし。
二日後――異常なし。
三日後――異常なし。
別の使用者。
症状改善。
再発なし。
日常生活へ復帰。
さらに別の使用者。
異常なし。
その翌日も。
異常なし。
調査開始から二日。
《253,762,904人》
Aの情報が集まり続ける間にも。
世界では。
また新たな発症者が増えていた。
さらに数日が経った。
報告は増えていく。
だが藍染が残した考察にあった、
『通常の感染とは異なる重大な異常』
それらしいものは一つも確認されなかった。
《256,419,783人》
感染者数だけは。
今日も増え続けている。
「……赤石さん」
研究者が声をかけた。
「現時点では、Aを使用したとされる人たちに共通する異常は確認できません」
「…………」
「むしろ、本物だった可能性があるものほど、症状が改善したという報告が目立ちます」
赤石は画面を見つめていた。
「藍染さんの考察が……」
研究者が言葉を止める。
赤石が横目で見る。
「間違ってたかもしれないって?」
「……その可能性も、考える必要はあるかと」
赤石は何も答えなかった。
画面には何人もの経過記録が並んでいる。
異常なし。
異常なし。
異常なし。
確かに何も起きていない。
だが赤石は藍染の残した文章をもう一度開いた。
『その期間がどれくらいなのかは、俺にも分からない。』
『数日なのか、数週間なのか、それ以上なのか。』
「……まだだ」
「え?」
「まだ分からねぇ」
赤石は画面を閉じなかった。
「追うぞ」
「ですが……」
「藍は何日後に起きるなんて書いてねぇ」
赤石は椅子へ深く座り直した。
「本物か偽物か分からなくてもいい」
「可能性がある奴は全部追え」
「一日後も」
「一週間後も」
「その先も」
そして藍染が六年前から繰り返していた考え方を。
今度は赤石が口にした。
「経過だけは全部残せ」
画面には今日も新しい記録が追加されていく。
症状なし。
再発なし。
異常なし。
そして。
また一人。
異常なし。
その画面の隅では。
《257,103,662人》
世界の感染者数がまた増えていた。
抗ウイルス試薬Aを使用したとされる人間たちには。
まだ何も起きていない。
少なくとも、今はまだ。




