第五十話「六年前の答え」
翌日。
赤石は研究施設の一室で、藍染の論文を読み続けていた。
机の上には資料。
正面には複数のモニター。
そのすべてに、六年前の藍染燈也が残した研究が表示されている。
『人間細胞における抗死滅性遺伝子の活性化』
『再構築された命への序章』
何度も読んだ。
それでも今は一行読むたびに、以前とは違うものが見えてくる。
「…………」
赤石が画面をスクロールする。
その時。
「赤石さん」
昨日、データを渡した研究員だった。
「ん?」
「少しいいですか」
その表情を見て、赤石の手が止まる。
「何か分かった?」
「……まだ、分かったとは言えません」
研究員は赤石の隣に座り、端末を置いた。
「ただ、昨日渡された藍染氏の研究を、現在の知識でもう一度検討してみました」
赤石が画面を見る。
「どうだった?」
「いくつか、興味深い部分がありました」
研究員が一つの資料を表示する。
「ただ、先に言っておくと、抗ウイルス試薬Aそのものに繋がるような記述は見つかっていません」
「……そうか」
「製造方法や詳しい組成はもちろん、現在の試薬Aと直接結び付けられる情報もありません」
赤石は小さく息を吐いた。
「やっぱ簡単にはいかねぇか……」
「でも」
研究員が別の資料を表示する。
「赤石さんの言う通り、試薬Aを理解する上でヒントになりそうな部分はいくつかありました」
赤石が顔を上げる。
「本当か?」
「はい」
「六年前には十分に理解できなかった部分も、現在の知識で読み直すと、この研究が何を目指していたのか、以前より見えてきます」
「何を目指してた?」
研究員は論文を見ながら言った。
「医療や薬によって、損傷した細胞をどう守るか。そして壊死した細胞や組織に対して、どこまで機能の回復や再生を促せるのか」
「そういった方向の研究に見えます」
赤石が論文を見る。
「壊れたものを……元に戻す?」
「簡単に言えば、そういうことです」
研究員が頷く。
「もちろん、何でも元通りにできるという意味ではありません。ただ、この研究の中心にあるのは、損傷や壊死が起きた後に、どう回復させるかという考え方です」
「だから『抗死滅』と『再構築』……」
「そう考えると、論文の題名とも繋がります」
赤石は二つの論文を見比べた。
『人間細胞における抗死滅性遺伝子の活性化』
『再構築された命への序章』
「…………」
試薬Aそのものの答えはない。
だが。
そこへ辿り着くための考え方は。
六年前からすでに始まっていたのかもしれない。
「ってことは……」
赤石が呟く。
「藍が薬を作るのが、毎回異常に早かった理由」
研究員が赤石を見る。
「こいつ、今回のウイルスが出てから全部ゼロから始めたわけじゃなかったんじゃないか?」
「…………」
「六年前から、こういう研究を積み重ねてきた」
赤石は論文を見つめる。
「だから世界中の研究者より、何年も先からスタートできた」
研究員は少し考えてから頷いた。
「可能性はあると思います」
赤石は小さく息を吐いた。
「……やっぱり、藍だな」
追いついたと思った。
だが、自分たちが今必死に考えていることをあいつは六年前から考えていたのかもしれない。
「本当に……どんだけ先にいたんだよ」
赤石は僅かに笑った。
その時。
「ただ……」
研究員がページを戻した。
「一つ、気になる部分があります」
「何?」
「実験対象者です」
「対象者?」
「はい」
研究員が論文の一部を表示する。
「研究の理論や結果については、かなり細かく記されています」
ページが送られていく。
「仮説も、結果も、考察もある」
「ですが、実験を行った対象者についてだけ、細かい情報がほとんど記されていません」
赤石が画面を見る。
「…………」
「そのため、実験後にどのような経過を辿ったのか」
「時間の経過によって何が起きたのか」
「その辺りに不明な点が多いんです」
「なんでそこだけ?」
「分かりません」
研究員は首を横に振った。
「単純に論文上で必要のない情報だった可能性もあります」
「あるいは、何らかの事情で詳細を記載できなかったのかもしれません」
研究員は少し間を置く。
「ただ、これだけ詳細な研究なのに、そこだけ情報が薄いのは少し気になります」
赤石はその箇所をじっと見つめた。
実験対象者。
経過観察。
そして。
記されていないその先。
「…………」
何かが引っ掛かる。
だが。
その正体までは分からない。
「……今は置いとこう」
赤石が言った。
「はい」
「まずはAだ」
赤石は別の論文を開く。
『再構築された命への序章』
「こっちは?」
「そちらも確認しています」
「何かあった?」
「直接、試薬Aに繋がる記述はありません」
「……そうか」
「ですが、考え方として参考になる部分はいくつかあります」
「見せて」
赤石は再び画面へ身を乗り出した。
一行。
また一行。
六年前の藍染が残した言葉を追っていく。
「…………」
確かにAそのものの答えはない。
製造方法も詳しい組成も、現在の試薬Aを直接示すものもない。
だが、その研究の根底にある考え方には今の藍染へ繋がるものがある。
「赤石さん」
「ん?」
「もしかすると」
研究員が言った。
「藍染氏は、かなり以前から未知の感染症や細胞異常が起きた場合まで想定して研究していたのかもしれませんね」
赤石は少し黙った。
そして笑う。
「……あり得るな」
「普通なら、そこまで考えませんけど」
「あいつを普通で考えるなよ」
研究員も僅かに笑った。
赤石は画面を見る。
六年前の藍染燈也。
その頃から誰も見ていない未来を見ていた男。
だからこそ。
世界が突然未知のウイルスに襲われても。
誰より早く世界を救うことができた。
赤石はそう考えた。
その時。
ふと、昔見た映像が頭に浮かんだ。
世界中が初めて。
藍染燈也という男を知った日。
大勢の記者に囲まれながら藍染はいつもの調子で答えていた。
『勘がいい方なんで』
「…………」
赤石の口元が緩んだ。
「“勘がいい方なんで”って……」
小さく笑う。
「そういうことかよ(笑)」
六年前から。
誰も考えていなかった未来を考え。
誰も研究していなかったものを研究していた。
そして世界がそこへ辿り着いた時には。
藍染だけが。
すでに何年も先にいた。
「勘良すぎだろ……」
赤石は笑いながら画面を見る。
「それもう勘じゃねぇよ」
懐かしかった。
昔からそうだった。
藍染は何でも先に気付く。
自分がようやく答えに辿り着いた頃には。
あいつはいつも。
その先を見ていた。
「……やっと一つ分かった気がする」
赤石が呟く。
「何がですか?」
「なんで藍だけが、あんな速度で薬を作れたのか」
研究員は黙って聞いている。
「天才だから」
「もちろん、それもある」
赤石は笑った。
「でも、それだけじゃなかったんだ」
「俺たちが始めた時には、藍はとっくに始めてた」
「俺たちが初めて見るものを、あいつは昔から考えてた」
赤石は論文を見る。
「そりゃ追いつけねぇよ」
その声には少しだけ懐かしさが混じっていた。
高校時代から変わらない。
自分が必死に追いかけてもいつも藍染は少し先にいる。
「でも」
赤石の表情が変わる。
「これで終わりじゃない」
「はい」
「Aそのものが書かれてないなら、別の角度から探す」
赤石は次々と資料を開いていく。
「藍が何を作ったかじゃない」
「どういう考え方で研究してたのか」
「そこを追う」
研究員が頷く。
「過去の研究をすべて洗い直します」
「あぁ」
「試薬Aに繋がる考え方が一つでもあれば拾ってくれ」
「分かりました」
研究員が端末を持って立ち上がる。
だが数歩進んだところで。
「待って」
赤石が呼び止めた。
研究員が振り返る。
「はい?」
「さっきの対象者のところ」
「……はい」
赤石はもう一度、そのページを見る。
「そこも一応調べてくれ」
「分かりました」
研究員が部屋を出ていく。
扉が閉まった。
赤石は一人。
六年前の論文を見つめる。
そこに残されていたのは。
いつか起こるかもしれない異常に備えその先で人間を救おうとしていたように見える研究。
「……藍」
赤石は小さく笑う。
「お前、本当に昔から変わんねぇな」
赤石の中で一つの答えが生まれようとしていた。
藍染燈也は世界がこのウイルスを知るより遥か前からいつか訪れるかもしれない未知の脅威に備えていた。
だから誰より早く世界を救うことができた。
それが赤石が辿り着いた六年前の答えだった。
そして。
それは六年前の論文を読み解いた者なら。
誰もが辿り着いてもおかしくない答えだった。
ただ一つ。
実験対象者についてだけ。
説明のつかない空白を残して。
赤石は次の論文を開いた。
六年前の藍染が残した研究を。
さらに深く理解するために。
自分が今。
藍染燈也という男をより正しく理解できたと信じながら。




