第四十九話「六年の差」
数日が経った。
世界では今も、抗ウイルス試薬Aの捜索が続いていた。
闇市場には今も。
《抗ウイルス試薬A》
《藍染燈也が残した本物》
《正規品》
《即時取引可能》
そんな文字が溢れている。
だがその中に、本物がいくつ存在するのか赤石たちには分からない。
それどころか、仮に本物を手に入れたとしても、それが本物だと断定することすら容易ではなかった。
赤石たちは、本物の抗ウイルス試薬Aを一度も手にしたことがない。
詳しい組成も。
製造方法も。
藍染が何をもって試薬Aと呼んでいたのか、そのすべてを把握している者はいなかった。
研究施設。
赤石はモニターに並ぶ情報を見つめていた。
「こっちは?」
「まだ確認できていません。現物の確保を進めています」
「分かった。手に入ったらすぐ回してくれ」
「はい」
赤石は次の情報へ目を移す。
「こっちも追ってくれ」
「これですか?」
「あぁ」
画面には、本物の試薬Aだと主張する新たな取引情報が表示されていた。
「本物なら、藍の警告の意味を調べられるかもしれない」
研究員が頷く。
今、赤石たちが必要としているのは。
噂でも使用したという証言でもネット上に溢れる情報でもない。
本物の抗ウイルス試薬A。
その現物だった。
だが、赤石はモニターを見つめながら一つの疑問を抱く。
仮に一本を確保できたとして。
それを何と比較する?
「……これじゃ」
赤石が呟いた。
「見つけても分からねぇじゃん」
研究員の一人が振り返る。
「時間をかけて解析すれば、ある程度の情報は得られると思います」
「でも、それが藍の作ったAと同じものかは?」
「…………」
研究員は答えられなかった。
比較するための本物がない。
基準となる詳しいデータもない。
赤石は椅子にもたれ、天井を見上げた。
「……待てよ」
「どうしました?」
赤石は答えなかった。
頭の中で、最悪の可能性が浮かんでいた。
「もし……」
赤石はゆっくり身体を起こす。
「もし仮に、本物の抗ウイルス試薬Aが十本とも、もう使われてたら……?」
研究員たちの手が止まった。
「俺たちは……」
赤石はモニターを見る。
そこには今も、本物を名乗る無数の試薬Aが並んでいる。
「一生、本物には辿り着けないんじゃねぇか……?」
研究室が静まり返った。
誰も否定できなかった。
製造方法はない。
詳しい組成も分からない。
本物と比較することもできない。
もし十本すべてがすでに使用されていたとしたら。
残るのは本物を名乗る無数の試薬と、確かめることのできない情報だけ。
赤石はゆっくり俯いた。
「……藍」
まただ。
また自分は。
藍染がいなくなった後になって、その意味に気付かされている。
「俺はまた、ここで気付かされてんだな……」
赤石の脳裏にあの日の藍染の姿が蘇る。
大勢の人間を前に、世界中のカメラを前に藍染は言った。
『何があっても渡しません』
そして。
『命に代えても』
「藍は……これも分かってたんだろうな」
「一度こうなったら、もう手がつけられなくなるって」
赤石は小さく笑った。
だが、その顔に笑みはなかった。
「本当に……お前はどんだけ先にいたんだよ」
そしてもう一度。
あの言葉を思い出す。
『命に代えても』
「……その言葉の意味、深すぎるよ」
赤石はしばらく俯いていた。
だが、すぐに顔を上げる。
「……何か」
モニターを見る。
「何かないのか……」
研究員たちが赤石を見る。
「本物が見つからなくても……」
赤石は立ち上がった。
「何かあるだろ」
「藍が残した資料でも、使用した人間の情報でも、何でもいい」
「本物そのものがなくても、本物に辿り着ける何かが……」
赤石は次々と画面を切り替えていく。
藍染が残した資料。
これまでの感染データ。
過去の研究記録。
「考えろ……」
一つずつ。
何度も見た情報を、もう一度見直していく。
「何か……」
赤石の指が止まる。
「何かないのか……」
その時だった。
「…………」
赤石が一つの画面を見つめる。
そこに表示されていたのは。
藍染燈也という名前。
「……論文」
研究員の一人が振り返る。
「え?」
「藍の論文だ」
赤石はすぐに端末を操作した。
六年前。
そして、それ以前。
藍染燈也という名前で発表された研究論文。
一つ。
また一つ。
赤石は片っ端から開いていく。
『人間細胞における抗死滅性遺伝子の活性化』
そして。
『再構築された命への序章』
一度読んだ。
何度も読んだ。
藍染が消えた六年間。
その背中を追い続けるために、赤石は何度もこれらの論文を読んできた。
だが今の自分が読むのとあの頃の自分が読むのでは見えているものが違うかもしれない。
一ページ。
また一ページ。
仮説。
実験結果。
考察。
赤石の目が高速で文字を追っていく。
「…………」
やがて。
指が止まった。
「……これ」
一つの記述を見つめる。
すぐに別の論文を開く。
さらにもう一本。
何度も画面を行き来する。
「……まさか」
赤石は一つのデータをまとめると、研究員へ送った。
「これ、試してくれ」
「え?」
研究員が送られてきたデータを見る。
「どういうことですか? これはいったい……」
赤石は藍染の論文を見つめたまま答えた。
「あいつなら、自分の研究の穴も、後から出る反論も予測して動く」
「……?」
「だったら」
赤石は画面を指差した。
「藍の論文の中に、抗ウイルス試薬Aに繋がるヒントがあるかもしれない」
研究員がもう一度データを見る。
「ですが、これは何年も前の研究ですよ」
「あぁ」
赤石は小さく笑った。
「だから調べるんだよ」
研究員が赤石を見る。
「藍は六年前から、俺たちの遥か先にいた」
赤石は画面に映る論文へ目を戻した。
「だったら、六年前の俺たちには理解できなかったものがあるはずだ」
「……理解できなかったもの?」
「あぁ」
赤石はゆっくりとページを戻していく。
「俺たちはこの六年間、ずっと研究を続けてきた」
「知識も増えた。技術も進んだ。あの頃には分からなかったことも、今なら分かる」
そして、一つの文章で指を止める。
「だから今の俺たちが、藍の六年前の研究をちゃんと理解して……」
「そこで初めて気付けるヒントがあるはずだ」
研究員は黙って論文を見る。
「あいつは俺たちなんかより、ずっと……ずっと先にいた」
赤石は少しだけ俯いた。
「自分の研究が何年後にどう理解されるのか」
「どこを疑われて、どこを調べられて、そこで何に気付くのか」
「そんなところまで、あいつには見えてたんじゃねぇかって思う」
「…………」
「普通なら考えすぎだ」
赤石はそう言って、僅かに笑った。
「でも藍だからな」
そして研究員を見る。
「頼む。調べてくれ」
研究員はもう一度、送られてきたデータへ目を落とした。
「……分かりました」
赤石は再びモニターを見る。
六年前に発表された。
藍染燈也の論文。
「六年前の藍が、今の俺たちに何を残してるのか」
赤石はまた藍染の背中を追い始めた。




