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第四十八話「警告の真意」

さらに数日が経った。


世界では今も、試薬Aを巡る情報が飛び交っていた。


だがその中で一つ無視できない傾向が現れ始めていた。


《試薬A使用後に症状が改善した》


そんな報告が一件ではなくなっていた。


二件。


三件。


そしてまた一件。


もちろん、そのすべてが本物のAによるものなのかは分からない。


使用者を直接確認できないものも多い。


偽物も混ざっている。


情報そのものが虚偽である可能性もある。


それでも似たような報告が増え続けていた。


さらに。


《投与後48時間経過》


《症状再発なし》


《重大な異常は確認されず》


そんな情報まで現れ始める。


「…………」


赤石は藍染の資料を開いた。


『しかし一定期間後、通常の感染とは異なる重大な異常が現れる可能性がある。』


『その期間がどれくらいなのかは、俺にも分からない。』


「…………」


一日。


二日。


三日。


何も起きない。


少なくとも世界へ流れてくる情報の中では重大な異常は確認されていなかった。


そして世界の空気が少しずつ変わり始めた。


『危険だという根拠は何なんですか?』


『実際に助かっている人がいる』


『使わずに死ぬのを待てということですか?』


『藍染氏自身も“可能性”としか書いていないんですよね?』


『研究途中の考察だったんでしょう?』


テレビでは専門家たちが議論を続けていた。


「安全性が確認されていない以上、使用すべきではありません」


「しかし現時点で有効な治療法は存在しません」


「だからといって未確認の試薬を使用することは――」


「目の前で家族が発症していたら、あなたは同じことが言えますか?」


「…………」


使えば助かるかもしれない。


使わなければ助からないかもしれない。


そして本物かどうかは分からないとしても実際にAを使用して回復したという人間がいる。


藍染燈也が残した警告。


その言葉の重さが少しずつ揺らぎ始めていた。


――――――――――


麻生茂光の娘も同じだった。


ベッドの上で身体を起こし、食事を取っている。


「体調は?」


麻生が尋ねる。


「大丈夫」


娘が答える。


「ちょっと身体が重いくらい」


「痛みは?」


「ないよ」


「気分は?」


「普通」


麻生は娘を見つめた。


あれから数日。


異常はない。


むしろ発症前の状態へ戻りつつある。


「…………」


藍染が残したという警告は、麻生も知っていた。


一定期間後。


重大な異常が現れる可能性。


だが。


目の前にいる娘は生きている。


話している。


笑っている。


もしあの時。


警告を恐れて試薬Aを使わなかったら。


娘が今どうなっていたのかは分からない。


「お父さん?」


「……なんだ」


「ずっと見すぎ」


娘が僅かに笑う。


「…………」


麻生も小さく息を吐いた。


「そうだな」


娘の顔を見ながら、麻生は僅かに笑った。


「……やはり、金で買えないものなどない」


あの時は違った。


どれだけ金を持っていても。


どれだけ積もうとしても。


ただ薬が届くのを待つことしかできなかった。


だが今回は。


「高くついたが……」


麻生は娘の手を握る。


「この状況で本物を手に入れられたのは、金があったからだ」


千億。


常識では考えられない金額。


それでも。


その金があったからこそ、今ここで娘が笑っている。


「金があれば、守れる」


麻生はそう信じた。


今度こそ。


金で娘の命を買えたのだと。



――――――――――


藍染を撃った男の妹も。


回復した状態が続いていた。


「お兄ちゃん」


男が振り返る。


妹がベッドから身体を起こそうとしている。


「寝てろ」


「もう大丈夫だって」


「まだ数日だ」


「でも普通だよ?」


男は黙ったまま妹を見る。


顔色。


呼吸。


受け答え。


どれも正常だった。


「お腹空いた」


「…………」


「なんか食べたい」


男の表情が僅かに緩む。


「何がいい」


「なんでもいい」


「一番困るやつだな」


「じゃあ、お兄ちゃんが決めて」


「……分かった」


男は立ち上がった。


その背中を見ながら、妹が笑う。


「ありがとう、お兄ちゃん」


男の足が一瞬止まる。


「…………」


だが振り返らず、そのまま部屋を出た。


試薬Aは確かに妹を救った。


少なくとも男には、そう見えていた。


――――――――――


そして世界の裏側では。


藍染の警告とは正反対のことが起きていた。


試薬Aの価値がさらに上がり始めていた。


本物。


偽物。


それすら分からない。


それでも。


《Aを使って回復した》


その情報だけで十分だった。


「五十億」


「八十出す」


「百億」


「百二十」


金額が上がっていく。


偽物を掴まされる可能性があってもその先に僅かでも助かる可能性があるなら、金を持つ者たちは手を伸ばした。


そして本物の試薬Aもその混乱の中で一本ずつ使われていった。


一本。


また一本、使われる。


そのたびに症状は改善した。


そして重大な異常は起こらない。


一日。


二日。


三日。


世界ではこんな声まで出始めていた。


《藍染燈也の警告は間違っていたのではないか》


《試薬Aは実際には完成していた可能性》


《使用を禁止することで救える命を失っている》


赤石はその言葉を見つめていた。


「違う……」


小さく呟く。


「藍が意味もなくあんなもの残すわけねぇ」


だが証明できない。


何が起きるのか。


いつ起きるのか。


そもそも本当に起きるのか。


それを知っている人間はもう、この世界にはいない。


そして数日後、世界の裏側で本物の試薬A。


最後の一本が使用された。


感染した家族へ震える手で試薬が使われる。


しばらくして激しかった症状が少しずつ弱まり始めた。


呼吸が落ち着いていく。


身体の動きが止まる。


そしてゆっくりと目が開いた。


「……聞こえる?」


僅かに頷く。


その瞬間、家族が泣き崩れた。


「よかった……」


「よかった……!」


また一人。


試薬Aによって救われた。


そう見えた。


これで研究所から奪われた十本。


麻生茂光の一本。


男が妹のために残した一本。


そして闇市場へ流れた八本。


そのすべてが人間に使用された。


十本目。


使用。


それでも何も起こらなかった。


世界はまだ、藍染燈也が残した警告の意味を知らなかった。


そして。


赤石もまだ知らない。


研究所から奪われた十本の抗ウイルス試薬A。


そのすべてがすでに人間に使用されたことを。


そして世界もまた、知らなかった。


今も人々が血眼になって探し求めている抗ウイルス試薬A。


その「本物」は。


もうどこにも残っていないことを。

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