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第四十七話 「警告の価値」

抗ウイルス試薬Aに対する警告が世界へ発信された。


《抗ウイルス試薬Aを使用しないでください》


《一時的な症状改善後、重大な異常が発生する可能性》


《藍染燈也氏が残した研究資料から判明》


テレビ。


インターネット。


各国政府。


研究機関。


同じ警告が世界中へ繰り返し発信されていた。


だが、赤石たちにはもっと早く確認しなければならないことがあった。


「抗ウイルス試薬Aは今、いったいどこにある」


研究員たちがモニターへ向かう。


研究所から奪われたのは十本。


それは分かっている。


だが、その後、誰の手に渡ったのか。


どこに持ち込まれたのか。


一本でも使用されたのか。


何一つ分かっていなかった。


「警察からは?」


「まだ有力な情報はありません」


「海外へ渡った可能性も含めて追っています」


「…………」


赤石は藍染の資料を見る。


『――だから、投与してはいけない。』


「広まってなければいいが……」


だが、奪われてからすでに数日が経っている。


「まず、どこにあるのか早急に探し出さないと」


「分かりました」


「警察でも政府でも海外の研究機関でも、使えるところ全部に情報を回してくれ」


「はい」


赤石はモニターへ視線を戻した。


「頼むから……」


「まだ誰の手にも渡ってないでくれ」


――――――――――


それから数日。


試薬Aの所在は依然として掴めなかった。


十本すべて。


行方不明のまま。


そんな中。


一つの情報が研究施設へ入った。


「赤石さん」


研究員の声に赤石が振り返る。


「どうした?」


「試薬Aについて、気になる情報が出ています」


「……何?」


研究員がモニターを切り替える。


そこに表示されたのは、正式な医療機関からの情報ではなかった。


出所も分からない。


誰が最初に流したのかも分からない。


だが、複数の場所で同じような噂が出始めていた。


《抗ウイルス試薬Aが裏で取引されている》


「…………」


赤石の表情が変わる。


「本物なのか?」


「分かりません」


「偽物の可能性もあります。ただ……」


研究員が別の情報を表示する。


《藍染燈也の研究所から消えた試薬》


《数量限定》


《高額取引》


「似た内容の情報が複数出ています」


「…………」


赤石が立ち上がる。


「遅かった……」


最悪の可能性が頭をよぎる。


研究所から消えた十本が。


すでに世界のどこかへ散っている。


「今どの程度広がってる?」


「まだ分かりません」


「取引された本数は?」


「それも確認できていません」


「じゃあ、もう使用した人間がいる可能性は?」


研究員は答えなかった。


答えられなかった。


「…………」


赤石は両手を机につく。


「頼む……」


「まだ誰も使ってないでくれ……」


だが赤石の願いとは逆に事態はさらに複雑になっていった。


――――――――――


翌日。


「赤石さん」


「今度はなんだ?」


研究員がモニターを見たまま答える。


「試薬Aを名乗るものが、急激に増えています」


「……どういうことだ?」


画面には複数の情報が並んでいた。


《抗ウイルス試薬A》


《藍染燈也が残した本物》


《残り一本》


《即時取引可能》


そして別の場所にも。


《試薬A入手》


《正規品》


《高額購入者のみ連絡》


さらに。


《藍染研究所から流出した試薬A》


「…………」


赤石が画面を見つめる。


「何本ある?」


「分かりません」


「少なくとも、確認できているだけで十本を超えています」


「は?なんだって?」


研究所から奪われた試薬Aは十本。


だが今、世界の裏側で『試薬A』として取引されているものは、それ以上ある。


赤石はすぐに理解した。


「……偽物か」


「その可能性が高いです」


藍染燈也が死んだ。


世界で唯一、ウイルスに対抗できるかもしれない試薬を残して。


しかも、その数は僅か十本。


その一本に。


何十億。


何百億。


場合によっては、それ以上の金を払う人間がいる。


ならばそれを利用する人間が現れないはずがなかった。


「本物と偽物を見分けられないのか?」


「情報だけでは無理です」


研究員が答える。


「現物を直接調べない限り、判別できません」


「…………」


赤石は頭を抱えた。


探さなければならないのは十本だった。


だが今は違う。


世界中に存在する『試薬A』の中から。


本物の十本を探し出さなければならない。


「ふざけんなよ……」


さらに別の研究員が声を上げる。


「待ってください」


「今度は何だ?」


「試薬Aを使用したという情報が出ています」


赤石が振り返る。


「本物か?」


「分かりません」


「使用者は?」


「特定できていません」


「じゃあ何が分かってんだよ!」


研究室が静まり返る。


「…………」


赤石はすぐに俯いた。


「……悪い」


誰が悪いわけでもない。


分からないのだ。


本物なのか、偽物なのか。


誰が持っているのか、誰が使ったのか。


そして。


《試薬A使用者 症状改善》


新たな情報が流れる。


「…………」


赤石が画面を見る。


「これも?」


「分かりません」


本物のAによって回復したのか偽物なのか。


そもそも情報自体が嘘なのか。


直接調べなければ判断できない。


だが、闇で取引されている以上その現物に辿り着くことすら難しい。


さらに別の情報が入る。


《試薬Aを使用したが効果なし》


その直後。


《偽物を掴まされた可能性》


そして。


《試薬A使用者 意識回復》


《投与から48時間経過 異常なし》


真逆の情報が次々と流れてくる。


効いた。


効かなかった。


回復した。


変化がなかった。


本物だった。


偽物だった。


何が本当で何が嘘なのか誰にも分からない。


藍染が残した十本の試薬A。


その行方を追うはずだった研究者たちはいつの間にか、世界中に溢れ始めた偽物の中から本物を探し出すところから始めなければならなくなっていた。


「…………」


赤石はモニターに並ぶ無数の情報を見つめていた。


本物。


偽物。


高額取引。


使用報告。


回復したという情報。


効果がなかったという情報。


「……まさか」


赤石が小さく呟く。


頭の中に、あの日の藍染の姿が浮かぶ。


『何があっても渡しません』


『命に代えても』


「藍が命に代えても渡したくなかったのは……」


赤石は画面を見つめる。


「この状況まで想定してたのか……?」


試薬Aが奪われる。


金で取引される。


その価値に群がる人間が現れる。


そして偽物まで作られ、本物がどこにあるのかすら分からなくなる。


藍染はそこまで考えていたのか。


「…………」


赤石は俯いた。


「俺は本当にバカだ……」


拳を強く握る。


「なんで気付けなかった」


六年間、ずっと藍染を追いかけてきた。


ようやく隣に戻れたと思っていた。


同じものを見て、同じ問題を考えて。


少しは追いつけたと思っていた。


でも。


「……追いついてなんかいねぇじゃん」


赤石が僅かに笑う。


その目には涙が滲んでいた。


「あいつはまだ……」


「まだまだ遥か先にいたんだ」


モニターには今も、新しい情報が増え続けている。


試薬A。


本物。


偽物。


金。


命。


そして、その隣では今この瞬間も感染者数が増え続けていた。


《世界感染者数 243,817,406人》


数字が更新される。


《244,091,773人》


また。


《244,508,219人》


「…………」


それだけじゃない。


《各国で医療機関の受け入れ能力が限界》


《複数地域で新たな隔離区域を設置》


《治療法確立の見通し立たず》


《抗ウイルス試薬Aを巡る違法取引が拡大》


《試薬Aを名乗る偽物が各国で確認》


情報が次々と流れていく。


感染者は増える。


治療法はない。


唯一の希望だった藍染は死んだ。


残された試薬Aは行方すら分からない。


ようやく見つけた藍染の資料には、その試薬を使うなと書かれていた。


そして今は本物と偽物すら区別できない。


「…………」


赤石はモニターを見つめたまま動けなかった。


何から手をつければいい。


感染者を止めるのか。


試薬Aを探すのか。


偽物を追うのか。


すでにAを使った人間を探すのか。


藍染が残した研究を引き継ぐのか。


どれも今すぐやらなければならない。


だがそのどれにも答えがない。


「……どうすりゃいいんだよ」


また数字が変わった。


《244,871,603人》


世界中の欲望と恐怖が入り混じり、赤石の前で膨れ上がっていく。


そしてその間にも。


《245,103,881人》


人が感染していく。


今までならその先には藍染がいた。


どれだけ絶望的な状況でも最後には必ず答えを出す男がいた。


だが、もういない。


赤石は誰も座っていない隣の席を見る。


「……藍」


「俺はいったい……」


「どうしたらいいんだよ……」


答える者はいなかった。


その間にもモニターの数字だけがまた一つ更新された。

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