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第四十六話「遅すぎた警告」

赤石は資料から目を離せなかった。


そこに記されていたのは、抗ウイルス試薬Aについての考察だった。


『試薬Aは、一時的に症状を改善させる可能性がある。』


『しかし一定期間後、通常の感染とは異なる重大な異常が現れる可能性がある。』


『その期間がどれくらいなのかは、俺にも分からない。』


『数日なのか、数週間なのか、それ以上なのか。』


『現段階では経過を観察する必要がある。』


という内容だった。


赤石は何度も資料を読み返した。


藍染なりの仮説や観察すべき項目、試薬Aに対する考察が何枚にもわたって記されている。


だが、その内容が示している結論は一つだった。


『――だから、投与してはいけない。』


強く念を押すように記されていた。


「…………」


赤石は息を呑んだ。


頭の中に、あの日の藍染の言葉が蘇る。


『まだ薬じゃない』


『試薬の段階です』


『効果も安全性も、まだ確認が終わってない』


そして。


『瞬間的に効果があっても経過を見ないと判断できない』


「……これのことだったのか」


一時的には効く。


感染症状は改善するかもしれない。


だが、それで治ったとは判断できない。


だから藍染は、あれほど頑なに試薬Aを渡そうとしなかった。


『十億でも』


『百億でも』


『千億でも』


『俺はこの試薬を金で譲るつもりはありません』


そして。


『何があっても渡しません』


『命に代えても』


「…………」


赤石は資料を握る手に力を込めた。


「だからだったのかよ……」


あの言葉は覚悟だけじゃなかった。


金で命の順番を決めさせないという、藍染の信念だけでもなかった。


使わせてはいけなかった。


自分が死んでも。


試薬Aだけは。


「……最後まで」


「人の心配して死んでんじゃねぇよ……バカ」


赤石の目に再び涙が浮かぶ。


その時、資料の最後にまだ続きがあることに気付いた。


『あと、赤。』


「……?」


『どうして研究室じゃなく、この定食屋にしたか分かるか?』


赤石が眉を寄せる。


『どうして、お前に気付かせるようにしたか分かるか?』


「…………」


赤石はその先を読む。


『それは――』


一行空いていた。


そして。


『会った時話すわ!』


「…………は?」


赤石は思わず声を漏らした。


もう一度読む。


『会った時話すわ!』


「いや……」


「会えねぇだろ……」


涙の滲んだ目で、赤石は僅かに笑った。


「最後まで意味分かんねぇよ、お前……」


だが。


藍染燈也がなぜ研究室ではなく、この定食屋に資料を残したのか。


なぜ世界の研究者ではなく、赤石燈也だけがそこへ辿り着けるようにしたのか。


その答えを。


赤石はまだ知らない。


そしてもう一つ。


赤石はすぐに知らなければならなかった。


奪われた十本の抗ウイルス試薬Aが。


今、どこにあるのかを。


赤石は立ち上がった。


「女将さん、ありがとうございます」


「もういいんですか?」


「はい」


赤石は資料を強く握った。


「これ、すぐに公表しないとヤバい」


店を出る。


携帯を取り出し、研究施設へ連絡する。


「俺です」


「試薬Aに関する資料を見つけた」


「藍が残してた」


『本当か!?』


「あぁ、でも良い知らせじゃない」


赤石は歩きながら資料を見る。


「試薬Aを使わせるな」


『……え?』


「世界中に警告を出す準備してくれ」


「一時的に症状が改善しても、その後に何が起きるか分からない」


「藍自身が残した考察だ」


『分かった、すぐに動く』


「急いでくれ」


赤石が電話を切る。


そして小さく呟いた。


「間に合ってくれ……」


だが。


その願いは。


すでに二日、遅かった。


――――――――――


二日前。


世界の表側から姿を消した十本の抗ウイルス試薬A。


そのうち一本は。


すでに麻生茂光の手に渡っていた。


千億。


一つの試薬についた値段としては、あまりにも異常な金額。


だが麻生に迷いはなかった。


娘の命を守れるなら。


金額など関係なかった。


そして。


もう一本。


藍染を撃った男は、それを誰にも渡さなかった。


残る八本。


それらは世界の裏側へ流れ始めていた。


《抗ウイルス試薬A》


《藍染燈也が残した最後の試薬》


《入手経路非公開》


《数量限定》


《価格応談》


最初は疑う者もいた。


本物なのか。


偽物ではないのか。


そもそも本当に、あの研究所から奪われたものなのか。


だが。


十億。


三十億。


五十億。


値段が上がっても買い手は消えなかった。


世界では二億を超える人間が感染している。


病院は限界。


治療法はない。


そして唯一、何度も世界を救ってきた藍染燈也は死んだ。


金ならある。


いくらでも払える。


それでも今まで、命だけは買えなかった。


だからこそ。


金を持つ者たちは、最後に残された可能性へ金を積んだ。


一本。


また一本。


試薬Aは人から人へ渡っていった。


やがて。


その一本が使われた。


発症した家族へ。


投与から数時間。


激しかった症状が徐々に弱まり始める。


異常な反応が減っていく。


そして時間が経つにつれ、意識にも変化が現れた。


「……聞こえる?」


家族が恐る恐る声をかける。


僅かに反応する。


「分かるの……?」


返事はまだない。


それでも。


明らかに症状は改善していた。


さらに時間が経つ。


「……水」


小さな声。


家族が息を呑む。


「喋った……」


その場にいた者たちが顔を見合わせる。


「効いた……」


「効いてる……!」


その情報は瞬く間に裏の世界へ広がった。


《試薬A使用者 症状改善》


《意識回復を確認》


《本物》


《藍染燈也の試薬は効く》


値段が跳ね上がった。


売り手には問い合わせが殺到する。


金額など関係ない。


欲しい。


家族のため。


自分のため。


何かあった時のため。


八本しか存在しない。


その事実が、さらに価値を押し上げていった。


――――――――――


その頃。


麻生茂光のもとにも恐れていた知らせが届いた。


「……会長」


麻生が顔を上げる。


「お嬢様に症状が出ています」


「…………」


麻生の表情が変わった。


一度は助かった娘。


あの時、どれだけ金を持っていても、薬が届く順番を早めることはできなかった。


ただ待つしかなかった。


だから今回は待たなくていいようにした。


「試薬Aを」


「しかし、まだ安全性が――」


「使え」


迷いはなかった。


千億で手に入れた一本。


そのために買った。


娘の命を守るために試薬Aが投与された。


麻生は娘の傍から離れなかった。


一時間。


二時間。


少しずつ症状が弱まっていく。


「…………」


さらに時間が経つ。


娘の目がゆっくりと開いた。


「……お父さん」


「…………!」


麻生が娘の手を握る。


「分かるか?」


「うん……」


弱々しい声。


それでも。


娘は確かに麻生を見ていた。


「……よかった」


麻生は強く娘の手を握った。


今度は待たなかった。


金で手に入れた娘を救うための時間を。


麻生はそう信じた。


――――――――――


そして藍染を撃った男。


誰にも売らずに残した、一本の試薬A。


男はそれを自分のために持っていたわけではなかった。


ある部屋の扉を開ける。


その奥から聞こえる激しい物音。


「…………」


男の表情が僅かに歪む。


部屋にいたのは、一人の若い女性。


男とは大きく年の離れた妹だった。


数日前、妹も発症した。


男は扉の前に立ったまま、ポケットから小さな容器を取り出す。


最後まで手放さなかった一本。


千億を積まれても。


それ以上を提示されても。


この一本だけは売らなかった。


男は妹を見る。


「…………」


そして試薬Aを使った。


数時間後、妹の症状が弱まり始めた。


激しかった身体の動きが落ち着いていく。


さらに時間が経つ。


「……お兄ちゃん」


「…………」


男の目が僅かに見開かれた。


「お兄ちゃん……?」


男は妹の傍へ寄る。


「分かるのか」


妹が小さく頷く。


「……うん」


「…………」


男は俯いた。


そして。


初めて安堵したように息を吐いた。


「……よかった」


妹の手を握る。


藍染燈也を撃った男。


世界から救世主を奪った男。


その男もまたたった一人の家族を救いたかった。


そして試薬Aはその願いに応えたように見えた。


――――――――――


現在。


赤石が発見した資料は、世界中の研究機関へ共有された。


緊急会議が開かれる。


「藍染氏本人が残した資料で間違いないのか?」


「赤石氏が確認しています」


「すぐに公表を!」


「すでに試薬Aが使われていた場合は?」


誰も答えられない。


赤石が口を開く。


「とにかく出してください」


「今すぐ」


そして世界へ警告が発信された。


《緊急警告》


《抗ウイルス試薬Aを使用しないでください》


《一時的な症状改善後、重大な異常が発生する可能性》


《藍染燈也氏が残した研究資料から判明》


ニュース。


政府。


研究機関。


インターネット。


あらゆる場所から同じ警告が発信される。


赤石はモニターを見つめていた。


「頼む……」


「まだ誰も使ってないでくれ……」


だが、その頃には試薬Aを使用した者たちは回復していた。


少なくとも。


誰の目にも。


そう見えていた。

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