第四十二話「救世主のいない世界」
銃声が響いた、その直後。
世界中のあらゆる場所で時が止まった。
病院。
研究施設。
政府機関。
空港。
駅。
街頭。
そして、テレビの前。
誰もが言葉を失い、ただ画面を見つめていた。
映っているのは、川。
その周囲を走り回る警察官と救助隊。
怒号だけが飛び交っている。
「下流を確認しろ!」
「まだ見つからないのか!」
「捜索範囲を広げろ!」
つい数分前までそこには藍染燈也が立っていた。
世界中が待ち望んでいた救世主。
二億人近くまで膨れ上がった感染者を救えるかもしれない、唯一の人間。
その男が世界中が見ている前で撃たれた。
そして川へ落ちた。
画面下部に速報が流れ続ける。
《藍染燈也氏 銃撃》
《川へ転落 現在も捜索続く》
《安否不明》
誰も喋らない。
誰も動かない。
世界中のあらゆる空間から、一瞬だけ音が消えたようだった。
そして、止まっていた時間が動き出した瞬間。
世界は絶叫した。
『藍染を見つけろ!!』
『まだ生きてるだろ!?』
『誰が薬を作るんだよ!』
『頼む……助かってくれ……』
『藍染がいなくなったらどうすんだよ!!』
SNSには数え切れないほどの言葉が流れ始める。
各国のニュース番組は予定されていた放送をすべて中断。
政府関係者までが会見を開き、藍染の捜索状況を伝え続けた。
だが、そんな世界の絶叫など無視するように。
《197,903,118》
《198,441,726》
《199,307,502》
感染者数は増え続けていた。
そして。
《200,000,000》
二億人を超えた。
救世主が消えてもウイルスは止まらなかった。
――――――――――
赤石は椅子に座ったまま動かなかった。
目の前には複数のモニター。
感染者のデータ。
各国から送られてくる解析結果。
更新され続ける数字。
だが、赤石の手は止まっていた。
「赤石」
同僚が声をかける。
返事はない。
「……赤石」
赤石は俯いたまま、両手を組んでいた。
頭の中からさっきの光景が消えない。
『何があっても渡しません』
『命に代えても』
その直後。
パンッ――。
赤く染まる服。
後ろへ下がる藍染。
そして川へ消えていった姿。
「…………」
何も考えられなかった。
六年前。
突然、藍染が消えた時とは違う。
あの時はどこかにいると思えた。
生きていると信じられた。
だから追いかけられた。
でも今回は。
自分の目で見た。
撃たれる瞬間を。
「……クソ」
赤石が小さく呟く。
モニターでは、また数字が更新された。
《203,718,441》
それでも赤石の手は動かなかった。
『お互いレベルアップしてまた一緒にな!』
高校を卒業した日。
自分が言った言葉が、突然頭をよぎった。
そして少し前。
六年ぶりに同じデータを見て、同じ問題を考えて。
ようやく「……やっと隣に戻れたと思ったのに」
赤石は俯いた。
周囲では研究者たちが必死に作業を続けている。
電話が鳴る。
キーボードを叩く音がする。
誰かが叫んでいる。
それなのに。
赤石には何も聞こえなかった。
まるで自分の周りだけまだ時間が止まっているようだった。
――――――――――
その頃。
都内のある場所。
一人の男が椅子に座っていた。
足元には黒いケース。
男はスマートフォンを取り出すと、一件の番号へ電話をかけた。
数秒後。
『……どうなった』
電話の向こうから声が聞こえる。
男は足元のケースを見る。
「手に入れた」
短い沈黙。
『試薬は?』
「十本」
再び沈黙。
『すぐに持ってこい』
男は答えなかった。
『聞こえているのか』
「一つ確認したい」
『なんだ』
男はゆっくりとケースを開いた。
中には。
十本の小さな容器。
《抗ウイルス試薬A》
「1000億でも買うんだろ?」
電話の向こうが静かになる。
「一本」
男は一本の容器を手に取った。
「1000億」
『……貴様』
「世界中が欲しがってる」
男は淡々と続ける。
「しかも、作った本人はもういない」
沈黙。
「これから値段が下がると思うか?」
長い沈黙のあと。
『……一本でいい』
男の口元がわずかに動いた。
『1000億払う』
「交渉成立だ」
通話が切れる。
男は手に持っていた一本をケースへ戻した。
十本。
そのうち。
麻生茂光の手に渡るのは一本。
男は残された九本を見つめる。
世界中の人間が欲しがっている。
金では手に入らないはずだったもの。
二億人を救えるかもしれないと信じられているもの。
そして今。
その価値を決められる人間はこれを持っている自分だった。
男はスマートフォンを取り出す。
別の番号を表示する。
しばらく画面を見つめたあと。
発信した。
「……商品がある」
『何だ』
男はケースを閉じた。
「抗ウイルス試薬A」
数秒。
電話の向こうから声が消えた。
そして。
『……何本だ』
男は答えた。
「九本」
――――――――――
深夜。
《207,611,820》
数字はまだ増えていた。
藍染の捜索も続いている。
しかし。
発見の知らせはない。
赤石は一人、モニターの前に座っていた。
何時間そうしていたのか。
自分でも分からなかった。
画面には感染者のデータ。
その横にはニュース。
《藍染燈也氏 現在も発見されず》
《捜索続く》
《世界各国から安否を願う声》
赤石はその文字を見つめる。
「…………」
やがて。
ゆっくりと顔を上げた。
何かを考えるようにモニターを見る。
そして椅子から立ち上がり、机に置かれていた上着を手に取る。
同僚が赤石を見る。
「赤石?」
「どこ行くんだ?」
赤石は答えなかった。
もう場所は分かっている。
六年前。
どれだけ探しても見つけられなかった男がいた場所。
ついさっきまで世界中が見つめていた場所。
赤石は上着を羽織ると、そのまま部屋を出た。
そして赤石は藍染の研究所へ向かった。




