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第四十一話 世界が見つめる先

翌朝。


夜が明けても人は減っていなかった。


むしろ増えていた。


数百人だった群衆は、すでに千人を超えている。


研究所へ続く道路には規制線。


その外側には感染者の家族、報道関係者、試薬を求める者、藍染に直接会おうとする者。


そして、ただ騒ぎを見に来た者まで集まっていた。


「藍染さん!」


「お願いします!」


「試薬を使ってください!」


「息子が感染してるんです!」


「一度でいいから話をしてください!」


警察官が声を張り上げる。


「規制線を越えないでください!」


「押さないでください!」


「危険です!」


だが、誰も帰らない。


その間にも世界では発症者が増え続けていた。


《世界累計感染者数 189,307,614》


一億九千万人。


二億が見え始めていた。


――――――――――


午前九時。


研究所前にはさらに報道陣が集まっていた。


日本だけではない。


海外メディアまで現地から生中継を始めている。


『現在、藍染燈也氏の私設研究所前には非常に多くの人が集まっています』


『警察は周辺道路を封鎖していますが、人数は増え続けています』


『抗ウイルス試薬Aについて、藍染氏本人からの正式な発表は現在もありません』


カメラが研究所を映す。


閉じられた扉。


カーテン。


そして、その奥にいるはずの男。


藍染燈也。


人々が待っていた。


世界が待っていた。


救世主が再び答えを持って現れることを。


――――――――――


その群衆の中。


一人の男が立っていた。


帽子を深く被り、周囲と同じように研究所を見ている。


叫ばない。


スマートフォンも向けない。


ただ、人の流れを見ていた。


警察。


報道。


研究所の入口。


男は一度だけ時計を見る。


そして何事もなかったように、再び群衆の中へ紛れた。


――――――――――


藍染ただ一人の研究室。


外から響く声。


報道ヘリの音。


警察の拡声器。


それらを背に複数のモニターを見ていた。


《189,826,103》


数字が更新される。


藍染は別の画面を開く。


数値を確認する。


入力。


保存。


次の画面。


そこに何が表示されているのか。


何を確認しているのか。


ここには藍染以外、誰もいない。


やがて藍染は、机の上に置かれていた小さな容器を手に取り蓋を開けると中に入っていたものを飲み干した。


空になった容器を一度見ると何気なくポケットへしまった。


再びモニターへ視線を戻し、いくつかの操作を済ませる。


机に広がっていた資料にも目を通し、何枚かをシュレッダーへ入れた。


机の上を軽く整理すると、パソコンの電源を落とした。


――――――――――


昼前。


研究所前の空気はさらに荒れ始めていた。


「いつまで待たせるんだ!」


「試薬があるなら出せよ!」


「こっちは家族が死にそうなんだぞ!」


「藍染を出せ!」


一部の人間が規制線を押す。


「下がってください!」


警察官が押し返す。


「危険です!」


怒号。


泣き声。


悲鳴。


カメラ。


世界中がその光景を見ていた。


研究所の中。


藍染は椅子から立ち上がり机の上のスマートフォンを見る。


大量の着信。


大量のメッセージ。


その中には赤石から送られた、


『藍、大丈夫か?』


まだ開いていないメッセージも残っていた。


藍染は数秒、画面を見ていた。


そしてスマートフォンを机に置く。


研究所の外から自分の名前を呼ぶ声が聞こえる。


藍染はポケットから小さなケースを取り出した。


ケースを開け中から一錠。


白い錠剤を取り出すと口に入れ、水で流し込む。


ケースを閉じ、そのままポケットへ戻した。


そして静かに研究所の入口へ向かった。


――――――――――


研究所の扉が開く。


一瞬、誰も声を出さなかった。


そして、藍染燈也が外へ出てきた。


「藍染さん!」


一人が叫ぶ。


次の瞬間。


「藍染さん!!」


「試薬は!?」


「助けてください!」


「こっちを見てください!」


「家族が感染してるんです!」


一斉に声が飛ぶ。


カメラが藍染へ向く。


無数のフラッシュ。


藍染は研究所の前に立った。


警察官が群衆を押さえる。


報道陣がマイクを向ける。


「藍染さん!」


「抗ウイルス試薬Aは本当に存在するんですか!?」


「現在の感染拡大についてどう考えていますか!?」


「試薬はいつ使用できるんですか!?」


「すでに二億人近くが発症しています!」


藍染が口を開く。


「聞いてください」


声が少しずつ止まる。


「試薬はあります」


ざわめきが起こる。


「ただ、まだ薬じゃない」


藍染は続ける。


「試薬の段階です」


「効果も安全性も、まだ確認が終わってない」


「瞬間的に効果があっても経過を見ないと判断できない」


群衆の中から声が飛ぶ。


「そんなこと言ってる場合じゃないだろ!」


「一億人以上感染してるんだぞ!」


「うちの娘に使ってくれ!」


「金なら払う!」


「いくら欲しいんだ!」


藍染はその声を聞いていた。


そしてゆっくり口を開く。


「金額の問題じゃない」


一瞬、周囲が静かになる。


「十億でも」


「百億でも」


「千億でも」


「俺はこの試薬を金で譲るつもりはありません」


記者が聞く。


「藍染さん」


「すでに一部の富裕層から、高額での買い取りを持ちかけられているという情報もあります」


「それでもですか?」


「あぁ」


「なぜです?」


藍染は答える。


「命の価値は、持ってる金の額で決まるものじゃない」


群衆が静かになる。


「金を持ってる人間だけが先に助かる」


「そんな使い方をするつもりはありません」


記者が続ける。


「ですが、このまま感染が拡大すれば、試薬を求める人間はさらに増えると思います」


「どれほど高額な条件を提示されても、考えを変えるつもりはありませんか?」


藍染は迷わなかった。


「ありません」


別の記者が聞く。


「もし今後、さらに強く提供を求められたとしても?」


藍染は少し黙った。


世界中のカメラが、その顔を映している。


感染者の家族。


医師。


政府。


研究者。


そして試薬Aを欲しがる者たち。


全員が藍染燈也の言葉を聞いていた。


藍染が答える。


「何があっても渡しません」


一拍。


「命に代えても」


静寂。


その言葉は世界中へ流れた。


――――――――――


赤石もその生中継を見ていた。


「……藍」


画面の中にいる。


六年間、どこにいるのかさえ分からなかった男。


今は世界中から救世主と呼ばれている。


同僚が呟く。


「すげぇな……」


「千億でも売らないか」


赤石は少し笑った。


「昔からああいう奴だよ」


「金で考え変えるような奴じゃねぇ」


「そうなのか?」


「あぁ」


赤石は画面を見る。


藍染の周りでは、記者たちが次々に質問を投げかけている。


「……やっぱ」


赤石が小さく呟く。


「あいつは変わんねぇな」


その声には疑いなどなかった。


――――――――――


群衆の中。


あの男も藍染を見ていた。


《何があっても渡しません》


《命に代えても》


男は何も言わない。


表情も変わらない。


ただ藍染を見る。


そして静かに群衆の中から姿を消した。


――――――――――


午後。


高層ビル最上階。


麻生も中継を見ていた。


テレビには先ほどの藍染の発言が繰り返し流れている。


『何があっても渡しません』


『命に代えても』


秘書が麻生を見る。


「会長」


麻生は何も答えない。


「本人が公の場で明言しました」


「交渉の余地は……」


「ないだろうな」


麻生が答える。


画面には藍染の顔。


「千億でも動かない男だ」


「最初から分かっていた」


秘書は黙る。


麻生が聞く。


「準備は」


「できています」


「……そうか」


麻生はそれ以上、何も言わなかった。


――――――――――


夕方。


研究所前。


人はさらに増えていた。


藍染の発言が世界中へ流れたことで、むしろ試薬Aへの注目は強くなっていた。


《世界累計感染者数 197,481,603》


二億人目前。


それでも藍染は試薬を渡さない。


ネットでは賛否が激しくぶつかっていた。


《藍染の判断が正しい》


《まだ安全性も分からないんだぞ》


《でも家族が感染してたらそんなこと言えるか?》


《試して助かる可能性があるなら使ってほしい》


《金持ちに売らないのは当然》


《命に代えてもって……》


《あいつ本気だ》


世界中が藍染燈也を見ていた。


――――――――――


日が傾き始める。


研究所の扉が再び開いた。


藍染が外へ出る。


報道陣が一斉に動く。


「藍染さん!」


「試薬の検証状況は!?」


「新しい情報はありますか!?」


警察官が人々を押さえる。


藍染は数歩進む。


カメラが追う。


その映像は世界中へ生中継されていた。


赤石もモニターの前で見ていた。


「藍……」


その時、一人の男が人の流れから外れる。


誰も気付かない。


男は研究所へ向かっていた。


騒ぎの中心は藍染。


警察も。


報道も。


群衆も。


すべての視線が一人の男へ向いている。


男の姿が建物の陰へ消えた。


――――――――――


数分後。


藍染が質問に答えている。


「今はまだ詳しいことは話せません」


「ですが」


「必ず――」


パンッ――。


乾いた音。


一瞬。


何が起きたのか誰にも分からなかった。


カメラが揺れる。


悲鳴。


「きゃああああ!!」


「何だ!?」


「伏せろ!!」


「下がれ!!」


警察官が叫ぶ。


画面の中央。


藍染が立っていた。


「……え?」


赤石の声。


藍染の身体がわずかに揺れる。


服に赤いものが広がっていく。


「……藍?」


藍染が一歩、後ろへ下がる。


もう一歩。


足元が崩れる。


その先。


研究所の裏手を流れる川。


藍染の身体が、そのまま川へ落ちた。


「藍!!」


赤石が立ち上がる。


映像が大きく揺れる。


報道陣の叫び声。


警察官が走る。


群衆が逃げる。


誰かが泣いている。


何が起きたのか。


誰が撃ったのか。


画面からは何も分からない。


ただ。


藍染燈也が撃たれ、川へ落ちた。


それだけだった。


赤石は画面を見たまま動かなかった。


「……」


何も言えない。


理解が追いつかない。


つい数秒前までそこにいた。


話していた。


世界を救おうとしていた。


なのに。


もう画面の中に藍染はいない。


赤石の頬を何かが流れた。


自分でも気付かないまま涙が落ちる。


「……なんで」


声が震える。


「なんであいつが……」


同僚も何も言えない。


赤石は画面から目を離せなかった。


「……あいつは」


「ずっと人を助けてただけじゃねぇか……」


もう一度。


涙が落ちる。


「なんであいつが……」


――――――――――


研究所前。


完全な混乱。


警察官が川へ走る。


救助隊が呼ばれる。


報道陣も群衆も、誰もが藍染が落ちた川へ意識を向けていた。


その間。


研究所の中、誰もいない廊下を一人の男が歩いていた。


迷いはない。


立ち止まらない。


奥へ進む。


扉。


保管設備。


男は中を確認する。


そこに並んでいた小さな試薬瓶。


ラベル。


《抗ウイルス試薬A》


男はそれを見つめる。


一本。


二本。


三本。


次々に回収していく。


十本。


すべて。


男はケースを閉じた。


外では救世主が撃たれたことで、世界中が混乱している。


男は静かに研究所を後にした。


――――――――――


川。


警察。


消防。


救助隊。


次々に人員が投入される。


「下流を確認しろ!」


「捜索範囲を広げろ!」


「急げ!」


川の流れは止まらない。


藍染の姿は見つからない。


ニュース速報が世界中へ流れる。


《藍染燈也氏 銃撃》


《私設研究所付近で発砲》


《藍染氏は川へ転落》


《現在も捜索続く》


そしてもう一つ。


世界はまだ知らない。


その混乱の中で研究所から十本の抗ウイルス試薬Aが消えていた。

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