第四十話 金で買えないもの
翌朝。
私設研究所の前には昨日とは比べものにならないほどの人間が集まっていた。
数百人。
報道関係者。
感染者の家族。
藍染に直接助けを求めに来た者。
そして。
試薬を手に入れようとする者。
道路には車が並び。
警察が規制線を張っていた。
「押さないでください!」
「道路に出ないでください!」
「藍染さんは現在研究中です!」
警察官の声を無視するように。
人々は研究所へ向かって叫ぶ。
「藍染さん!」
「娘を助けてください!」
「試薬があるんですよね!?」
「お願いします!」
「金なら払います!」
その様子は。
世界中へ生中継されていた。
――――――――――
研究所の中。
藍染は一人。
外から聞こえる声を気にすることなく、複数のモニターを見ていた。
《世界累計感染者数 148,281,406》
一億人を超えてからも。
勢いは衰えていない。
むしろ。
世界が一億という数字に衝撃を受けている間にも。
数千万人が新たに発症していた。
机の上には。
抗ウイルス試薬Aに関する資料。
世界各国の発症データ。
そして。
いくつもの数値が並んだ、別のデータ。
藍染は無言で画面を切り替えていく。
数値を確認し何かを入力する。
別の画面を開き再び数字を確認する。
何を調べているのか。
何のための作業なのか。
それを知る者は、ここにはいない。
その間にもスマートフォンは何度も震えていた。
政府関係者。
海外の研究機関。
報道機関。
企業。
個人。
着信が切れる。
また震える。
藍染はスマートフォンには触れず。
目の前の作業を続けていた。
――――――――――
高層ビル最上階。
麻生茂光もまた藍染への連絡を試みていた。
「出ないか」
「はい」
秘書が答える。
「弊社からすでに複数回連絡していますが、応答はありません」
「研究機関は?」
「そちらからも連絡が殺到しているようです」
麻生はテレビを見る。
研究所前。
数百人の人間が藍染の名前を叫んでいる。
「直接話せないなら構わん」
「正式に申し入れろ」
「金額は?」
「まず十億」
「試薬Aを一本」
「十億円で譲ってほしいと伝えろ」
「承知しました」
――――――――――
しばらくして秘書が戻ってくる。
「会長」
「どうだった」
「断られました」
麻生が振り返る。
「百億」
「はい」
――――――――――
再び。
「断られました」
「五百億」
――――――――――
それでも答えは同じだった。
麻生が言う。
「千億」
秘書が一瞬黙る。
「……一本に、ですか」
「あぁ」
「千億だ」
――――――――――
数十分後。
私設研究所。
藍染のモニターに、一件の連絡が表示された。
国際共同研究チームからだった。
《抗ウイルス試薬Aの提供について》
藍染が開く。
そこには麻生グループからの申し入れが記載されていた。
《提示額 100,000,000,000円》
試薬A一本。
千億円。
藍染は数秒、その文章を見る。
そして短い返信を打った。
《提供はできません》
それだけだった。
藍染は再び画面を切り替える。
そこに並んでいたのは世界各国の発症データ。
増え続ける数字。
そして先ほどまで見ていた、別のデータ。
藍染は何も言わずその数字を確認していく。
――――――――――
高層ビル最上階。
「……千億でもダメか」
「はい」
秘書が答える。
「藍染氏から正式に回答がありました」
「試薬Aはまだ試薬段階であり、安全性も効果も確立されていない」
「特定の個人への提供は行わない、と」
麻生は黙っている。
「また」
秘書が続ける。
「資産や立場によって提供の優先順位を変えることもない、と」
あの日と同じだった。
一億。
十億。
百億。
千億。
どれだけ金額を積み上げても藍染燈也は動かない。
秘書が言う。
「現時点では試薬段階です」
「藍染氏の言う通り、安全性も――」
「そんな話をしてるんじゃない」
秘書が黙る。
麻生は窓の外を見る。
「娘は今は感染していない」
「はい」
「だが明日は?」
「……」
「一週間後は?」
答えられない。
誰にも分からない。
「前回」
麻生が呟く。
「私は娘が発症してから動いた」
一億。
十億。
百億。
千億。
それでも順番は変わらなかった。
「金はあった」
「人脈もあった」
「医者も政治家も動かした」
「それでも」
麻生の視線が壁に掛けられた時計へ向く。
「待つしかなかった」
十三時十二分。
あの日、薬が届いた時間。
「今度は違う」
秘書が麻生を見る。
「発症してからでは遅い」
「発症する前に手に入れる」
「ですが藍染氏は、譲らないと」
「あぁ」
麻生は静かに答える。
「売らない」
「なら」
そこで言葉を止める。
数秒。
「別の方法を考えろ」
秘書の表情が変わった。
「……別の方法、ですか」
麻生は答えない。
ただテレビへ視線を向ける。
研究所前の中継。
人が増えていた。
数百人。
その向こうに。
藍染燈也がいる。
そして抗ウイルス試薬Aもそこにある。
――――――――――
午後。
研究所前。
「藍染を出せ!」
「試薬を見せろ!」
「本当にあるんだろ!」
朝とは空気が変わり始めていた。
最初は助けを求める声だった。
だが感染者数が増えるほど人々から余裕が消えていく。
《162,628,173》
《168,017,884》
《174,491,205》
一億人は。
終着点ではなかった。
ただの通過点だった。
研究所の場所が拡散されたことで全国から人が向かっていた。
警察は規制を強化。
道路の一部が封鎖される。
それでも人は増える。
「うちの息子が感染してるんです!」
「お願いします!」
「藍染さんに会わせてください!」
「こっちは金払うって言ってんだ!」
「順番くらい決めろよ!」
怒号。
泣き声。
カメラのシャッター音。
上空には報道ヘリ。
世界が一つの研究所に注目し始めていた。
――――――――――
その映像を赤石も見ていた。
「……何やってんだよ」
モニターには研究所を囲む人々。
同僚が言う。
「場所までバレたみたいだな」
「これじゃ何もできねぇだろ」
赤石はスマートフォンを見る。
昨日送ったメッセージ。
『藍、大丈夫か?』
まだ既読はついていない。
赤石は新しいメッセージを打とうとして、やめた。
「……邪魔するだけか」
スマートフォンを置く。
画面の向こうでは人々が藍染の名前を叫んでいる。
赤石は眉を寄せた。
「薬作れって言って」
「研究所囲んでどうすんだよ」
その言葉に同僚は何も返せなかった。
――――――――――
夕方。
麻生の部屋。
秘書が入ってくる。
「会長」
「どうした」
「例の件ですが」
麻生が顔を上げる。
秘書は少し声を落とした。
「人を用意できます」
麻生は黙っている。
「研究所周辺は現在かなり混乱しています」
「警察もいますが、人が増え続けているため完全には管理できていません」
麻生が聞く。
「中に入れるのか」
「確実とは言えません」
「ですが」
秘書が続ける。
「混乱がさらに大きくなれば、可能性はあります」
麻生は研究所の中継を見る。
「目的は一つだ」
「試薬A」
「はい」
「それだけ持ってこい」
秘書が頷く。
そして部屋を出ようとする。
「待て」
秘書が振り返る。
麻生は数秒黙ったあと。
言った。
「できるだけ」
「藍染には危害を加えるな」
「……承知しました」
扉が閉まる。
麻生は一人になる。
テレビには研究所。
その前を埋める人々。
麻生は知らない。
この選択がどこへ繋がるのか。
ただ一つ決めていた。
もう、待たない。
――――――――――
夜。
研究所の裏手。
暗闇の中。
川の水が静かに流れていた。
研究所の明かりが水面に揺れている。
その川を挟んだ向こう側から一人の男が研究所を見ていた。
しばらくして男はスマートフォンを取り出す。
短い通話。
「確認した」
「明日動く」
通話を切る。
男はもう一度、研究所を見る。
正面には人。
警察。
報道。
そして建物の裏には静かに流れる川。
男はその場を離れた。
あとには川の流れる音だけが残っていた。




