第三十九話 今度は、待たない
朝。
《抗ウイルス試薬A》
その言葉はすでに世界中へ広がっていた。
正式発表はない。
藍染本人も何も語っていない。
それでも人々はその存在を信じ始めていた。
《本当にあるのか?》
《藍染が持ってるらしい》
《まだ試薬段階だって》
《だったら早く使えよ》
《一億人超えてるんだぞ》
《藍染はどこにいる?》
最初はただの噂だった。
しかし時間が経つほど情報は増えていった。
《複数の研究関係者が存在を把握している》
《藍染本人が保管しているらしい》
《外部の研究機関には渡されていない》
《量が少ないという話もある》
誰が書いたのか。
どこまでが事実なのか分からない。
だが断片的だった情報が少しずつ、一つの形になり始めていた。
藍染燈也は新たな試薬を持っている。
そしてその試薬は今も藍染の手元にある。
――――――――――
昼。
ニュース番組でも。
その噂が大きく取り上げられていた。
『現在、インターネット上で急速に拡散している抗ウイルス試薬Aについて、新たな情報です』
画面に。
藍染燈也の写真が映る。
『複数の関係者への取材から、藍染氏が新たな治療法の研究を進めていることは事実とみられています』
『ただし、抗ウイルス試薬Aという名称や、その効果については確認が取れていません』
別の出演者が聞く。
『もし本当に存在するのであれば、なぜ公表されないのでしょうか』
専門家が答える。
『試薬段階であれば、安全性も効果も確認されていない可能性があります』
『つまり、まだ患者に使えるものではない?』
『その可能性は十分あります』
だが、その説明で世界が納得するはずもなかった。
家族が発症している人間にとって。
安全性。
検証。
治験。
そんな言葉は遠すぎた。
欲しいのは今、目の前の人間を救う薬。
それだけだった。
――――――――――
午後。
SNSに。
一枚の写真が投稿された。
人里から少し離れた場所。
大きな建物。
投稿には短い文章。
《ここじゃないか?》
最初は何の建物なのか分からなかった。
しかしすぐに別の人間が反応する。
《これ研究施設?》
《場所どこ?》
《藍染と関係あるの?》
数分後。
別角度から撮影された写真。
《前に藍染がこの近くで目撃されてる》
さらに。
《車の出入りを見たことがある》
《研究関係の荷物が運び込まれてた》
情報が集まり始める。
一つ。
また一つ。
地図。
道路。
周辺の建物。
過去の目撃情報。
写真。
人々は世界中から一つの場所を探し始めていた。
――――――――――
私設研究所。
藍染は一人。
モニターを見ている。
《藍染燈也 研究所》
《抗ウイルス試薬A 場所》
《藍染 現在地》
検索数が急激に増えていた。
藍染は画面を閉じる。
机の上には患者データ。
感染者数。
そして抗ウイルス試薬Aに関する資料。
藍染は何も言わない。
スマートフォンが震える。
着信。
政府関係者。
次。
医療機関。
次。
海外の研究機関。
藍染は取らない。
そのまま作業を続けていた。
――――――――――
夕方。
ついに一つの投稿が急速に拡散された。
《藍染燈也の私設研究所、ここだと思う》
地図が添付されていた。
投稿からわずか数分。
数千。
数万。
数十万。
拡散。
《マジで?》
《ここに試薬Aがある?》
《誰か確認してくれ》
《近いから行ってみる》
《藍染に直接頼めばいいんじゃないか?》
《家族を連れていく》
《金なら払う》
《いくらでも払う》
《頼むから売ってくれ》
そして、最初の一人が研究所へ向かった。
一人が。
二人。
十人。
数十人。
その中には感染した家族を持つ者もいた。
報道関係者もいた。
ただ藍染を一目見ようとする者もいた。
そして、金で誰よりも早く試薬を手に入れようとする者もいた。
――――――――――
都内。
高層ビル最上階。
広い部屋。
一人の男が。
テレビを見ていた。
麻生茂光。
巨大企業グループを率いる男。
かつて。
たった一人の娘を救うため。
一億。
十億。
百億。
そして。
千億。
どれだけ金額を積み上げても。
藍染燈也は順番を変えなかった。
あの日、麻生は時計を見続けていた。
薬が届くまでただ、待つしかなかった。
十三時十二分。
娘の元に薬が届いた。
娘は助かった。
だが。
あの時間を麻生は忘れていなかった。
金があれば何でも手に入る。
そう思って生きてきた。
会社も。
人も。
情報も。
時間さえ。
金で動かしてきた。
だが、藍染燈也だけは動かなかった。
テレビから声が流れる。
『現在、藍染燈也氏が新たな抗ウイルス試薬を保有しているとの情報が――』
麻生が画面を見る。
《抗ウイルス試薬A》
『なお、藍染氏の私設研究所と思われる場所もインターネット上で拡散されており――』
画面が切り替わる。
研究所周辺の映像。
すでに数十人が集まっていた。
麻生は無言で見ている。
秘書が口を開く。
「会長」
「確認しますか?」
「あぁ」
「試薬の存在を?」
「全部だ」
麻生は立ち上がる。
「本当にあるのか」
「どれだけあるのか」
「そして」
画面に映る研究所を見る。
「どうすれば手に入るのか」
「承知しました」
秘書が部屋を出ていく。
麻生は再びテレビを見る。
画面の中では研究所へ向かう車が増えていた。
麻生の脳裏にあの日の時計が浮かぶ。
十三時十二分。
娘は助かった。
結果だけを見ればそれでいい。
だが。
もし、あの日、薬が届かなかったら。
もし、あと十分遅かったら。
もし、次に娘が発症した時薬が間に合わなかったら。
世界累計感染者数。
一億人超。
次に誰が発症するのか誰にも分からない。
娘も例外ではない。
麻生が小さく呟く。
「……もう二度と」
金があっても待つしかない。
そんな時間を麻生は二度と味わうつもりはなかった。
――――――――――
夜。
私設研究所。
藍染は一人、窓の外を見る。
昼間にはいなかった人間が研究所の前に集まり始めていた。
車。
カメラ。
報道関係者。
感染者の家族。
藍染の名前を呼ぶ者。
「藍染さん!」
「お願いします!」
「家族を助けてください!」
「試薬があるんですよね!?」
声が。
建物の中まで聞こえてくる。
藍染はカーテンを閉じた。
机へ戻る。
モニターには《抗ウイルス試薬A》
そして世界累計感染者数。
数字は今も増え続けていた。
――――――――――
同じ頃。
麻生の元へ。
秘書が戻ってきた。
「会長」
麻生が振り返る。
「確認が取れました」
「藍染燈也が、新しい試薬を研究しているのは事実のようです」
麻生の目が細くなる。
「量は」
「分かりません」
「入手は?」
「現時点では不可能です」
「金額を提示しろ」
「……いくらで?」
麻生は即答する。
「いくらでもいい」
秘書が少し黙る。
「ですが」
「前回と同じなら、藍染氏は――」
「分かってる」
麻生が遮った。
藍染燈也は金では動かない。
麻生自身が誰よりも知っている。
だからこそ、その言葉が出た。
「今度は」
麻生は研究所の映像を見つめる。
「待たない」




