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第三十八話 抗ウイルス試薬A

翌朝。


世界累計感染者数。


一億人を超えても。


発症は止まらなかった。


《100,038,412》


《100,071,806》


《100,119,337》


一度に増える人数は、数万人。


昨日までとは違う。


一億という数字を超えた今も世界は何も変わらず壊れ続けていた。


――――――――――


各国の医療機関では、すでに限界を超えていた。


病院に入りきれない患者。


廊下に並べられた簡易ベッド。


医療従事者の不足。


治療を待つ人々。


その家族。


そして、今はまだ発症していない人々。


誰もが同じ恐怖を抱えていた。


次は自分かもしれない。


感染経路は分からない。


どこにいれば安全なのかも分からない。


外出を控えても。


人との接触を避けても。


世界のどこかで新たな発症者が確認され続けている。


テレビでは専門家たちが議論を続けていた。


『これだけの規模で発症が続いている以上、従来の対応では限界があります』


『現在最も求められているのは、新たな治療法です』


そして必ずその名前が出る。


『藍染燈也氏から、まだ正式な発表はありません』


――――――――――


私設研究所。


藍染は一人。


モニターに並ぶデータを見ていた。


世界各国の発症記録。


患者の状態。


過去に使用された薬剤。


細胞変化。


時間経過。


藍染は黙ったまま画面を切り替えていく。


スマートフォンは何度も震えていた。


だが手に取らない。


やがて一つのモニターに通知が表示された。


《国際共同研究チーム 緊急会議》


藍染は数秒画面を見たあと。


接続した。


――――――――――


画面に複数の研究者が映る。


疲れ切った顔。


背後では人が慌ただしく動いている。


「藍染さん」


「連絡が取れて良かった」


「あぁ」


「現在、一億人を超えても発症者が増え続けています」


「見てる」


「これまでの治療法では対応できません」


別の研究者が口を開く。


「このまま増え続ければ、医療だけの問題では済みません」


「各国からも問い合わせが殺到しています」


藍染は黙って聞いている。


「何かありませんか?」


「……」


「どんな段階でも構いません」


「可能性だけでも」


画面の向こう。


何人もの研究者が藍染を見ていた。


少しの沈黙。


藍染が口を開く。


「ある」


研究者たちの表情が変わった。


「……ある?」


「あぁ」


「ただし」


藍染は続ける。


「まだ薬とは呼べない」


「どういう意味です?」


「試薬段階だ」


研究者の一人が身を乗り出す。


「効果は?」


「まだ断定できない」


「ですが可能性はある?」


「あぁ」


藍染は画面を切り替える。


いくつかの解析データが共有される。


研究者たちが一斉に確認する。


そして。


画面に一つの名称が表示された。


《抗ウイルス試薬A》


「抗ウイルス……試薬A」


研究者がその名前を読み上げる。


「これが新しい治療法の候補ですか?」


「あぁ」


「現在どこに?」


「俺が持ってる」


「藍染さんが?」


「あぁ」


研究者たちの表情が変わる。


「では、こちらにも送ってください」


「複数の研究機関で同時に検証すれば――」


「まだ送れない」


藍染が遮る。


「なぜです?」


「量がない」


「どれくらいですか?」


藍染は答えなかった。


「藍染さん?」


「今ある分を失えば、そこで終わる」


「……」


「まず俺が調べる」


研究者が言う。


「しかし時間がありません」


「分かってる」


「今も数万人単位で増えているんです」


「分かってるよ」


藍染の声は変わらない。


「だから失敗できねぇんだろ」


誰も言葉を返せなかった。


数秒後。


一人の研究者が頷く。


「……分かりました」


「こちらは引き続き患者データを送ります」


「あぁ」


「必要なものがあれば、すぐに言ってください」


「頼む」


通信が切れた。


――――――――――


再び。


研究所に静寂が戻る。


藍染一人。


モニターには。


《抗ウイルス試薬A》


その文字が残っていた。


藍染は席を立つ。


研究室の奥へ向かい扉を開ける。


その先、保管設備の前で足を止める。


藍染がロックを解除する。


扉が開く。


中には複数の小さな試薬瓶。


藍染は無言でそれを見つめる。


一本を手に取る。


ラベルには。


《抗ウイルス試薬A》


藍染はそれを確認すると。


静かに元の場所へ戻した。


扉を閉める。


ロックをかける。


その時、机に置かれたスマートフォンが震えた。


藍染は振り返らない。


研究所の外では世界累計感染者数がまた更新されていた。


《100,184,902》


一億人を超えても世界はまだ藍染燈也を求め続けていた。


そして世界を救うかもしれない試薬が存在することを。


今はまだ知る者は限られていた。


――――――――――


数時間後。


日本。


深夜にもかかわらずSNSでは感染症に関する投稿が凄まじい速度で流れ続けていた。


《感染者また増えてる》


《もう一億超えてるんだぞ》


《政府は何してるんだ》


《藍染は?》


《藍染燈也は今どこにいる?》


《前みたいに薬作ってくれよ》


《家族が発症した。頼むから早くしてくれ》


数秒ごとに新しい投稿が流れていく。


その中に一つ。


ほとんど誰にも見られていない投稿があった。


《藍染燈也はもう新しい薬を作ってるらしい》


最初、誰も気に留めなかった。


根拠もない。


情報源も書かれていない。


今の世界には。


同じような噂が無数にあった。


《またデマか》


《ソースは?》


《本当ならニュースになってる》


数件の返信。


それだけだった。


だが、少しして別のアカウントが投稿する。


《新薬じゃなくて試薬らしい》


さらに別の投稿。


《まだ正式発表されてない》


《研究関係者しか知らない情報だって》


誰かが聞く。


《試薬って何?》


その数分後。


一つの言葉が書き込まれた。


《抗ウイルス試薬A》


――――――――――


午前二時十三分。


その言葉を検索する者は。


ほとんどいなかった。


午前二時四十七分。


数十人。


午前三時十二分。


数百人。


《抗ウイルス試薬Aって何?》


《藍染が持ってるってマジ?》


《これ本当なら一億人救えるんじゃないの?》


《どこ情報?》


《藍染本人が持ってるらしい》


まだ噂だった。


真偽不明。


誰が最初に流したのかも分からない。


だが一億人が発症している世界ではたった一つの噂でさえ希望になった。


そして。


希望は時として、恐怖よりも速く広がる。


――――――――――


朝。


《抗ウイルス試薬A》


その言葉はすでに数万件の投稿に使われていた。


ニュース番組にも問い合わせが殺到していた。


『藍染燈也氏が新たな試薬を開発しているという情報が、インターネット上で急速に拡散しています』


『ただし現時点で、藍染氏本人や研究機関から正式な発表はありません』


画面には大きく表示される。


《抗ウイルス試薬A》


『情報の真偽は確認されておらず、専門家は冷静な対応を呼びかけています』


しかし、人々が求めていたのは冷静さではなかった。


一億人。


そして今も数万人単位で増え続ける感染者。


そんな世界に突然現れたたった一つの希望。


《抗ウイルス試薬A》


人々の関心はその薬が本当に存在するのか。


そこから少しずつ変わり始める。


《本当にあるなら誰が持ってる?》


《藍染本人じゃないの?》


《藍染はどこにいる?》


《研究所ってどこ?》


《誰か場所知らない?》


世界が求めていたものは薬だった。


そしてその薬を持っていると噂された男。


藍染燈也。


やがて人々は薬ではなくその男の居場所を探し始めた。

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