第三十二話「答えのない変異」
翌朝。
世界中の研究機関にメキシコで確認された感染者のデータが共有された。
血液。
唾液。
細胞組織。
遺伝子配列。
そして、前回使用された抗ウイルス剤への反応。
研究者たちはすぐに解析を始めた。
当然、藍染のいる研究施設にも同じデータが届いていた。
「……やっぱり違う」
一人の研究者がモニターを見ながら呟く。
「前回と同じじゃない」
「どの程度?」
「基本構造は似ています」
「でも――」
画面に二つの遺伝子配列が並ぶ。
「一部が変異しています」
別の研究者が眉をひそめる。
「自然変異?」
「分かりません」
「これだけじゃ判断できない」
藍染は何も言わず、そのデータを見つめていた。
「藍染さん」
「……」
「藍染さん?」
「あ、はい」
「どう思います?」
藍染が画面を見る。
数秒。
沈黙。
「……まだ分かりません」
「ですよね」
「感染者一人じゃデータが少なすぎます」
藍染は椅子に座る。
そして解析を始めた。
――――――――――
一方。
赤石の会社にも同じ情報が届いていた。
「感染予測モデル回すぞ!」
「これまでの感染データ全部入れて!」
「メキシコから周辺国への移動履歴も!」
社員たちが慌ただしく動く。
赤石もモニターを睨んでいた。
メキシコ。
一人。
その始まり方を、赤石は知っている。
過去にも一度。
まったく同じ国から。
まったく同じ人数で始まった感染があった。
メキシコ。
一人。
その後。
韓国。
一人。
フランス。
二人。
オーストラリア。
二人。
そして。
一ヶ月の沈黙。
その後、世界同時大量発生。
今回も最初は。
メキシコ。
一人。
「……」
嫌なほど似ていた。
同僚が赤石の画面を見る。
「何見てる?」
「過去の感染記録」
「比較してんの?」
「あぁ」
赤石は今回の感染データを重ねる。
「似すぎてる」
「何が?」
「始まり方」
同僚が画面を見る。
「でも一人だろ?」
「だからだよ」
「……?」
「前にも一人だった」
赤石は腕を組む。
「普通」
「これだけ感染力の強いウイルスなら」
「最初の一人が見つかった時点で」
「周囲にも感染者が出ててもおかしくない」
「まぁ……そうだな」
「でも」
赤石が画面を指す。
「今回も一人」
「接触者にも感染なし」
「家族にもなし」
「医療従事者にもなし」
「……」
「まるで」
赤石の言葉が止まる。
またあの感覚。
これまでの感染でも何度も感じた。
感染しているのに広がらない。
そして、ある瞬間だけ突然世界中で発生する。
同僚が聞く。
「まるで?」
「……いや」
赤石は首を振った。
「何でもない」
まだ決めつけるには早い。
――――――――――
その日の夜。
赤石のスマートフォンが震えた。
藍染。
『見た』
昨日送った三つのメッセージへの返信だった。
赤石はすぐに返す。
『遅ぇよ』
既読。
『忙しかった』
『また研究してんの?』
『今みんなで調べてる』
『やっぱ今までのと違う?』
少し間が空いた。
『たぶん』
『たぶんって救世主様が弱気だな』
『救世主やめろ』
赤石が少し笑う。
そして文字を打つ。
『俺のところでも感染予測回してる』
『必要ならデータ送るぞ』
既読。
しばらくして。
『頼む』
赤石の指が止まった。
「……」
藍染が、自分を頼った。
たった二文字。
それだけなのに。
赤石は思わず笑った。
『任せろ』
すぐに必要なデータをまとめ始める。
高校を卒業してからずっと、この時のためにやってきた。
薬学へ進んだ藍染を。
いつか、自分の技術で支える。
「……やっとかよ」
赤石は小さく笑った。
――――――――――
翌日。
感染者はまだ増えていなかった。
メキシコ。
一人。
それだけ。
世界には少しずつ楽観的な空気も出始めていた。
『変異型ではあるものの感染力は低いのではないか』
『大規模な流行には至らない可能性』
そんな専門家の意見もニュースで流れ始めていた。
だが、研究者たちは楽観していなかった。
藍染の研究施設。
「ダメです」
「何が?」
「既存薬の濃度を上げても反応なし」
「別の阻害剤は?」
「そっちもダメです」
「細胞への侵入経路は?」
「これまで確認されたものとほぼ同じです」
「じゃあなんで効かないんだ?」
誰も答えられない。
藍染も無言でデータを見続けていた。
一時間。
二時間。
五時間。
日付が変わる。
そして、午前二時過ぎ。
研究室のモニターに新しい通知が入った。
《緊急共有データ》
一人の研究者が開く。
「……え?」
「どうした?」
「韓国」
藍染が顔を上げる。
研究者が振り返った。
「韓国でも確認されました」
「感染者は?」
数秒、誰も声を出さなかった。
画面には数字が表示されていた。
《確認感染者数 1》
「……」
研究室が静まり返る。
一人の研究者が呟く。
「また……一人?」
藍染は何も言わず、画面を見ていた。
――――――――――
同じ頃。
赤石の会社。
警告音が鳴った。
「新規感染!」
「どこ!?」
「韓国です!」
赤石が立ち上がる。
「人数!」
「一名!」
「……」
赤石は目を閉じた。
「やっぱりか」
同僚が振り返る。
「何が?」
赤石は過去の感染記録を開く。
メキシコ。
一人。
韓国。
一人。
そして。
今回。
メキシコ。
一人。
韓国。
一人。
二つの記録が重なる。
「前にもあった」
「何が?」
赤石が画面を指す。
「この並びだよ」
過去の記録。
メキシコ。
一人。
韓国。
一人。
フランス。
二人。
オーストラリア。
二人。
同僚の表情が変わる。
「……まさか」
「あぁ」
赤石は今回の記録を見る。
「国も」
「人数も」
「間隔も」
「ここまでほとんど同じだ」
同僚が画面を見つめる。
「そんなことあるか?」
「分からねぇ」
「でも」
赤石は過去の記録にある次の国を見る。
フランス。
「次にフランスで二人出たら」
「……」
「これは偶然じゃない」
――――――――――
二日後。
フランス。
感染者。
二名。
赤石は速報を見ても驚かなかった。
ただ黙って画面を見ていた。
その翌日。
オーストラリア。
感染者。
二名。
「……」
メキシコ。
一人。
韓国。
一人。
フランス。
二人。
オーストラリア。
二人。
かつて世界同時大量発生の前に現れた並びと同じだった。
世界中の研究者たちも、その異常性に気づき始めていた。
『偶然とは考えにくい』
『なぜ同じ地域で』
『なぜ同じ人数なのか』
『感染経路に関連性は確認されていません』
『各感染者同士の接触もありません』
説明できない。
自然発生なら、あまりにも規則的すぎる。
だが誰かが意図的に起こしていると考えるには証拠がない。
世界は再び不気味な沈黙に包まれ始めた。
――――――――――
藍染の研究施設。
研究者たちは何日も解析を続けていた。
「分からない……」
「今までの薬をどれだけ調整しても効かない」
「この変異部分だけで、ここまで変わるのか?」
「いや……」
「何か別の仕組みがある」
藍染は一人、モニターを見ていた。
画面には新型ウイルスの解析結果。
そして、これまでに作られた抗ウイルス剤の研究データ。
藍染は無言でそれらを見比べていた。
やがて、口を開く。
「皆さん」
研究者たちが振り返る。
「少し」
「試したいことがあります」
「何ですか?」
藍染は画面を指す。
「このウイルス」
「以前、俺が個人的に研究していたものと」
「似ている部分があります」
「……個人的に?」
「はい」
一人の研究者が身を乗り出す。
「そのデータ、ここにありますか?」
「一部は」
藍染が答える。
「でも」
「全部じゃありません」
「昔の研究なので」
「別の場所に残してあるものがあります」
「取り寄せます?」
藍染は少し考える。
そして首を振った。
「いや」
「俺が行きます」
「……今から?」
「はい」
「ここでみんなで解析した方が早くないですか?」
「それも考えたんですけど」
藍染はモニターを見る。
「これまでの抗ウイルス剤については」
「皆さんの方が」
「もう俺と同じくらい理解しています」
研究者たちが黙って聞く。
「既存薬の検証と」
「現在の感染者への対応は」
「ここで続けてください」
「俺は」
「昔の研究データを使って」
「別の方向から調べてみます」
研究者が少し心配そうに言う。
「一人で?」
藍染が笑った。
「その方が早いと思います」
「……」
「何か見つけたら」
「すぐ共有します」
一人の研究者がため息をつく。
「また一人で無茶するつもりじゃないでしょうね」
「しませんよ」
「信用できないなぁ」
藍染が少し笑う。
「大丈夫です」
「今回は」
「皆さんがいますから」
研究者たちは顔を見合わせる。
そして、一人が頷く。
「分かりました」
「こっちは任せてください」
「お願いします」
藍染は立ち上がった。
白衣を脱ぐ。
荷物を持つ。
そして、研究室を出ようとする。
「藍染さん」
足が止まる。
「はい?」
「見つけてくださいね」
藍染は少しだけ笑った。
「もちろん」
扉が閉まる。
――――――――――
深夜。
藍染は一人、街を歩いていた。
人通りは少ない。
世界はまた恐怖を思い出し始めている。
やがて一つの建物の前で足を止めた。
大きくはない。
看板もない。
古びてもいない。
だが、研究施設と呼ぶにはあまりにも静かな場所。
藍染は鍵を取り出した。
扉を開け、中へ入る。
照明をつける。
白い光が室内を照らした。
机。
モニター。
実験器具。
薬品棚。
長い間使われていなかったようにも見える。
藍染はゆっくりと奥へ進む。
一つの机の前で止まった。
引き出しを開ける。
中には何冊もの古い研究ノート。
藍染はそのうちの一冊を取り出した。
表紙には何も書かれていない。
ページを開く。
「……」
しばらくその文字を見つめる。
そして、静かに椅子へ座った。
パソコンの電源を入れる。
暗かった画面に光が灯る。
藍染は新型ウイルスのデータを表示した。
その隣に古い研究データを開く。
二つを並べる。
「……」
深夜。
誰もいない一人だけの研究室。
藍染燈也は、静かに解析を始めた。




