第三十一話「再び始まる悪夢」
それから数日が経った。
世界中で続けられていた抗ウイルス剤の投与。
回復者は日に日に増えていった。
病院を埋め尽くしていた感染者も少しずつ姿を消していく。
各国で続いていた厳戒態勢も段階的に解除され始めていた。
そして。
ついに世界保健機関から一つの発表が出された。
『現在確認されているゾンビウイルスについて』
『新規感染者の発生は停止しています』
『治療を継続している患者も大幅に減少しており』
『今回の世界的な感染拡大は』
『事実上、終息へ向かっていると判断しています』
世界中で歓声が上がった。
街では抱き合う人々。
泣きながら笑う家族。
長く閉まっていた店のシャッターが少しずつ開いていく。
学校。
会社。
電車。
人々の日常がゆっくりと戻り始めていた。
世界は終わらなかった。
――――――――――
藍染のいる研究施設でも長く続いた緊張がようやく解け始めていた。
「海外の生産ライン、停止準備に入ります」
「国内分も備蓄を残して終了ですね」
「追加の感染報告もありません」
研究者たちの声にも以前のような焦りはない。
モニターに表示された世界地図。
そこを埋め尽くしていた赤い点も、ほとんど消えていた。
「……終わったな」
一人の研究者が椅子にもたれる。
別の研究者が笑った。
「長かった……」
「俺、何日家帰ってない?」
「知らないよ」
「嫁に殺されるかもしれない」
「ゾンビより怖いな」
研究室に笑い声が起こる。
藍染もモニターを見ながら小さく笑った。
一人の研究者が藍染を見る。
「藍染さん」
「はい?」
「あなたも帰った方がいいですよ」
「帰りますよ」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんって何ですか」
また笑いが起こる。
以前、一人で研究を続けていた頃とは違う。
今、藍染の周りには多くの研究者がいた。
世界中の研究機関が藍染の作った抗ウイルス剤を共有し、改良し、量産している。
藍染が始めた研究はもう、藍染一人だけのものではなくなっていた。
「皆さん」
藍染が声を上げる。
研究者たちが振り返った。
「ありがとうございました」
「……」
「俺一人だったら」
「あれだけの人数に薬を届けることはできませんでした」
藍染が頭を下げる。
一瞬、研究室が静かになる。
そして、大きな拍手が起こった。
「こっちの台詞ですよ!」
「最初の薬を作ったの藍染さんじゃないですか!」
「救世主が何言ってんですか!」
「それやめてください」
藍染が少し困ったように笑う。
その姿を見て、また笑い声が起こった。
――――――――――
その夜。
テレビでは今回の感染についての特集が組まれていた。
『世界を襲った未曾有の危機』
『その終息に最も大きく貢献した人物として』
『今、世界中から注目されているのが――』
画面に藍染燈也が映る。
『抗ウイルス剤を開発した日本人研究者』
『藍染燈也氏です』
SNSにもその名前が溢れていた。
『この人がいなかったらマジで終わってた』
『世界の救世主』
『薬を独占しなかったのが本当にすごい』
『金持ちも貧乏人も関係なく治療したんだろ?』
『藍染燈也って何者なんだよ』
『日本から世界を救う人間が出るとは思わなかった』
賞賛。
感謝。
尊敬。
藍染燈也という名前は、
一人の研究者の名前から世界中が知る名前へ変わっていた。
――――――――――
赤石も自宅でそのニュースを見ていた。
「……すげぇな」
テレビには記者に囲まれる藍染。
昔とほとんど変わらない顔。
高校時代、教室の中心で笑っていた男。
それが今、世界中から救世主と呼ばれている。
「本当に世界のトップ行きやがった」
赤石が少し笑う。
高校時代。
何度も藍染に言った。
――俺はお前と世界のトップ企業を作りたい。
「……」
赤石はテレビを見ながら少しだけ、寂しそうに笑った。
「先越されちまったな」
本当は隣にいたかった。
一緒にそこへ行きたかった。
でも、
藍染は自分が想像していたより遥かに遠いところまで一人で行ってしまった。
赤石は机のモニターを見る。
そこには以前解析した一つのデータが残っていた。
《一致率 98.1%》
「……」
あの時。
自分は藍染を疑った。
今回のウイルスと藍染の過去の研究。
あまりにも似ていた。
だが、その後、
藍染は自分の研究を公開した。
世界中の研究者と共有した。
金を取ることもなく。
薬を独占することもなく。
何日も。
ほとんど眠らず。
人を救い続けた。
そして。
世界は救われた。
「……何考えてたんだ、俺」
赤石は解析画面を閉じた。
誰かが藍染の公開研究を悪用した。
その可能性だってある。
むしろ、今まで見てきた藍染の姿を考えればそちらの方が自然に思えた。
「悪ぃな、藍」
小さく呟く。
そしてスマートフォンを手に取った。
LINE。
藍染との画面。
最後の会話。
『全部終わったら』
『またあの店行こうぜ』
『唐揚げ?』
『じゃあ俺が奢る』
『約束な』
赤石が笑う。
そして、メッセージを送った。
『終わったな』
しばらく既読にはならなかった。
だが赤石はもう気にしなかった。
「今度は待ってやるよ」
スマートフォンをテーブルへ置いた。
――――――――――
それからさらに数日。
街には人が戻った。
学校が再開した。
店が開いた。
電車が走る。
居酒屋から笑い声が聞こえる。
ほんの少し前まで世界の終わりを恐れていたことが嘘だったように日常が戻っていった。
赤石の会社もようやく通常業務へ戻り始めていた。
「赤石」
同僚が声をかける。
「今日、早く帰れるんじゃない?」
「マジ?」
「ここ最近ずっと泊まり込みだっただろ」
「じゃあ帰る」
「即答かよ」
「帰れる時に帰らねぇと」
赤石はパソコンを閉じた。
会社を出る。
外には人がいる。
笑っている。
食事をしている。
酒を飲んでいる。
信号が変わり。
人々が横断歩道を渡っていく。
「……戻ったな」
赤石が呟く。
本当に終わったのだ。
そう思えた。
――――――――――
その頃。
藍染も研究施設を出ようとしていた。
「藍染さん」
後ろから研究者が呼び止める。
「はい?」
「本当に帰るんですか?」
「帰りますよ」
「珍しい」
「俺だって帰ります」
「何日ぶりです?」
「……」
藍染が考える。
「分かんないです」
「それを帰ってないって言うんですよ」
藍染が小さく笑う。
「じゃあ、お疲れ様でした」
「お疲れ様でした」
「ちゃんと寝てくださいね」
「善処します」
「絶対寝ないやつだ」
藍染は笑いながら研究施設を出た。
夜。
街には明かりが戻っていた。
車。
人。
店。
信号。
いつもの世界。
藍染はしばらくその光景を見ていた。
その時。
スマートフォンが震える。
赤石。
『終わったな』
藍染の足が止まる。
画面を見る。
そして返信。
『あぁ』
数秒後。
赤石から。
『唐揚げ』
藍染が思わず笑う。
『覚えてたのかよ』
『お前が約束なって言ったんだろ』
『そうだっけ』
『殺すぞ』
藍染は小さく笑った。
『暇になったら連絡する』
『今度はマジでしろよ』
『分かった』
『絶対な』
藍染の指が。
一瞬。
止まる。
そして。
『あぁ』
送信。
スマートフォンをポケットへしまう。
藍染は再び歩き出した。
――――――――――
翌朝。
赤石は久しぶりに目覚まし時計で目を覚ました。
「……眠ぃ」
顔を洗う。
コーヒーを淹れる。
テレビをつける。
天気予報。
交通情報。
芸能ニュース。
いつもの朝。
赤石はコーヒーを飲みながらスマートフォンを見る。
昨日の藍染とのLINE。
『暇になったら連絡する』
「……暇になれよ、救世主」
赤石が笑う。
その時、テレビの画面が突然切り替わった。
《速報》
「……?」
赤石の手が止まる。
アナウンサーが原稿へ視線を落とした。
『ただいま入った情報です』
『メキシコで――』
赤石の表情から笑みが消える。
『ゾンビウイルスへの感染が疑われる人物が確認されました』
「…………は?」
コーヒーカップをゆっくりテーブルへ置く。
『現在確認されているのは――』
赤石の頭にあの日の記憶が蘇る。
メキシコ。
一人。
韓国。
一人。
フランス。
二人。
オーストラリア。
二人。
そして。
世界同時発生。
「待て……」
アナウンサーが。
続ける。
『一名です』
「……」
赤石は動かなかった。
「嘘だろ……」
テレビには遠くから撮影された一人の感染者。
以前と同じ。
たった一人。
赤石はすぐにスマートフォンを取った。
藍染とのLINEを開く。
『藍』
送信。
『ニュース見ろ』
送信。
『また出た』
送信。
既読には。
ならない。
だが、赤石はテレビへ視線を戻した。
「……いや」
前回とは違う。
もう、抗ウイルス剤がある。
製造方法も世界中の研究者が知っている。
藍染一人に頼る必要もない。
「大丈夫だ」
赤石は自分に言い聞かせるように呟いた。
「今回は大丈夫だ」
その日の午後。
メキシコの感染者へ抗ウイルス剤が投与された。
一時間。
二時間。
三時間。
世界中が。
その結果を待った。
そして。
夜。
再び速報が流れた。
『続報です』
赤石がテレビを見る。
アナウンサーの表情は朝とは明らかに違っていた。
『本日メキシコで確認された感染者について』
『前回、世界中の感染者を回復させた抗ウイルス剤を投与しましたが――』
一瞬、言葉が止まる。
『効果が確認されませんでした』
「……」
赤石が立ち上がる。
『複数回の投与が行われましたが』
『現在も症状に変化はありません』
「効かない……?」
『専門家は』
『前回とは異なるウイルスである可能性を指摘しています』
赤石はスマートフォンを見る。
藍染へのメッセージ。
まだ。
既読になっていない。
テレビには三つの文字が並んでいた。
《新型の可能性》
《既存抗ウイルス剤 効果なし》
《感染者 一名》
赤石は画面を見つめる。
一度、終わったはずだった。
世界は救われたはずだった。
なのに。
また。
一人。
あの日とまったく同じところから始まった。
「藍……」
赤石は小さく呟いた。
「今度は……」
「何が来るんだよ」
世界はまだ知らなかった。
一度目の恐怖は終わったのではない。
ただ次の恐怖が始まるまで。
少しだけ静かにしていただけだった。




