第三十話「金で買えない命」
世界中で抗ウイルス剤の生産が昼夜を問わず続いていた。
十万人。
二十万人。
三十万人。
回復者は確実に増えている。
感染者の増加もすでに止まっていた。
このままいけば時間はかかっても多くの人間を救える。
世界には再びそんな希望が広がり始めていた。
だが。
その「時間」を待てない人間もいた。
――――――――――
都内。
とある病院の集中治療室の前。
一人の男が、医師に詰め寄っていた。
「いつだ」
「いつ薬が来る!」
「現在、手配しています」
「それを昨日から聞いてる!」
男の声が廊下に響く。
六十代。
世界各国に事業を展開する、
巨大企業グループの会長。
麻生茂光。
その資産は数千億円とも言われていた。
そして集中治療室には麻生の一人娘。
二十三歳。
数日前。
ゾンビウイルスへの感染が確認されていた。
「娘は重症なんだぞ!」
「分かっています」
「だったら最優先にしろ!」
医師が苦しそうに答える。
「現在の基準では、娘さんより緊急性の高い患者が――」
「いくらだ」
「……?」
「いくら払えばいい」
医師の表情が変わる。
「麻生さん」
「一億か?」
「そういう問題ではありません」
「十億」
「……」
「百億でもいい」
「麻生さん!」
医師の声が強くなる。
「これはオークションではありません!」
「娘の命だぞ!!」
麻生が怒鳴る。
廊下が静まり返った。
「金ならある」
「病院ごと買ったっていい」
「製薬会社だって買える」
「なのに……」
声が震える。
「なんで娘一人、先に助けられないんだ」
医師は何も答えなかった。
――――――――――
その夜、麻生は一人病院の待合室にいた。
スマートフォンには何件もの連絡先。
政治家。
医師。
製薬会社。
海外の企業。
あらゆる人脈を使った。
金額も。
問わなかった。
それでも正規の治療順を変えることはできなかった。
いや、正確には一つだけ方法があった。
スマートフォンが震える。
《一本、入手できるかもしれません》
麻生の目が変わる。
すぐに返信する。
《いくらだ》
数秒。
《30億》
麻生は迷わなかった。
《払う》
返信。
だが続きが来る。
《ただし、保証はできません》
《現在、不正流通への取り締まりが厳しくなっています》
《藍染側が製造番号をすべて追跡しています》
「……」
麻生の表情が険しくなる。
《何とかしろ》
《金は倍出す》
しばらくして。
返信。
《難しいです》
麻生はスマートフォンを握り締めた。
また藍染。
待合室のテレビをつける。
そこには偶然その男が映っていた。
『不正に流通した抗ウイルス剤について、現在すべての製造番号を追跡しています』
記者が質問する。
『正規ルート以外で薬を入手しようとする人もいるようですが?』
藍染は答えた。
『事情はあると思います』
『家族を助けたい人もいるでしょうし』
『その気持ちまで否定するつもりはありません』
『ただ』
藍染の表情が少しだけ厳しくなる。
『その一本を誰かが金で買えば』
『本来その薬を受け取るはずだった誰かが、受け取れなくなる』
『金を持っている人だけが』
『他人の順番を買えるような仕組みにはしたくありません』
麻生は黙って画面を見ていた。
『命は』
藍染が続ける。
『金で買うものじゃないと思っています』
「……」
麻生の拳が震えた。
「お前に……」
小さく声が漏れる。
「お前に何が分かる」
テレビの中で藍染は救世主と呼ばれている。
世界中から称賛されている。
だが。
麻生にとって今必要なのは救世主ではない。
娘を今すぐ助けてくれる人間だった。
――――――――――
一方。
赤石は別の方向から事件を追っていた。
藍染の論文。
それを引用した研究者。
研究機関。
製薬会社。
大学。
世界中に数えきれないほど存在している。
「……無理だろ、これ」
候補が多すぎる。
論文は公開されている。
専門知識さえあれば誰でも読むことができる。
そして藍染の説明にも矛盾はない。
むしろ調べれば調べるほど。
赤石には別の可能性の方が現実的に思えてきていた。
誰かが藍染の研究を悪用した。
そして藍染は、自分の研究から生まれたかもしれない怪物を必死に止めている。
「……」
赤石は椅子にもたれる。
その時、スマートフォンが震えた。
藍染。
メッセージだった。
『生きてる?』
赤石が。
思わず笑う。
『勝手に殺すな』
すぐに既読。
『仕事しすぎて死んでるかと思った』
『お前に言われたくねぇよ』
『俺は若いから』
『同い年だわ』
数秒。
藍染から。
『そうだっけ?』
「……こいつ」
赤石は笑った。
ほんの数日前まで疑っていた。
その自分が少し馬鹿らしくなる。
赤石は少し考えてメッセージを送った。
『なぁ藍』
『ん?』
『全部終わったら』
『またあの店行こうぜ』
少し間が空いた。
『唐揚げ?』
『お前それしか食わねぇじゃん』
『赤のおごりなら』
『世界の救世主がたかんな』
『俺の金じゃねぇもん』
赤石が笑う。
そして返信。
『じゃあ俺が奢る』
既読。
少しして。
『約束な』
「……」
赤石はその文字を見つめた。
そして。
『おう』
送信した。
――――――――――
翌日。
回復者はさらに増えていた。
残る感染者も急速に減っている。
薬の生産量も必要量へ追いつき始めていた。
世界は今回も助かる。
そう思われていた。
藍染のいる研究施設では、
世界中の研究機関から送られてくるデータを元に研究者たちが
休むことなく動き続けていた。
「追加分、完成しました!」
「海外の生産ラインも安定しています!」
「供給の遅れていた地域にも、今日中には届きます!」
藍染はモニターを見ながら頷く。
「お願いします」
疲れていた。
目の下には薄く隈ができている。
何日まともに寝ていないのか。
それでも藍染は研究施設から離れなかった。
一人の研究者が言う。
「藍染さん」
「はい?」
「少し休んでください」
「大丈夫です」
「大丈夫に見えませんよ」
藍染が笑う。
「昔から寝なくても平気なんで」
「人間は寝ないと死にます」
「じゃあ一時間だけ」
「最低六時間です」
周囲から小さな笑いが起こる。
藍染も笑った。
その時、一人の職員が駆け込んできた。
「藍染さん!」
「はい?」
「面会を求めている方が」
「誰ですか?」
職員が少し困った表情をする。
「麻生グループの会長」
「麻生茂光さんです」
「……」
藍染はその名前を知らなかった。
「どなたですか?」
「国内でも最大規模の企業グループの会長です」
「何の用です?」
「娘さんが感染しているそうで」
藍染の表情が少し変わった。
「……分かりました」
「会います」
――――――――――
応接室。
麻生と藍染。
二人が向かい合って座っていた。
「娘を助けてほしい」
麻生は挨拶すらしなかった。
藍染は静かに答える。
「現在、順番に治療が進んでいます」
「それは知っている」
「でしたら――」
「今すぐだ」
「……」
「今すぐ娘に薬を使ってくれ」
藍染は少し黙った。
「娘さんの状態は?」
「重症だ」
「医療機関の判断では?」
「まだ優先順位が上の患者がいると言われた」
藍染は頷いた。
「でしたら、その判断に従ってください」
麻生の目が鋭くなる。
「金なら払う」
「必要ありません」
「百億」
「必要ありません」
「五百億」
「金額の問題ではありません」
「千億」
「麻生さん」
藍染は静かに言った。
「俺に金を払っても」
「娘さんの順番は変わりません」
「……」
麻生の拳が強く握られる。
「お前は」
「はい」
「自分の家族でも同じことが言えるのか」
「……」
藍染が黙った。
初めて返事が止まった。
麻生はその反応を見逃さない。
「言えないだろ」
「自分の娘だったら」
「親だったら」
「愛する人間だったら」
「他人より先に助けたいと思うだろ!」
藍染はしばらく何も言わなかった。
そして。
「……思うでしょうね」
麻生の表情が変わる。
「だったら!」
「でも」
藍染が言葉を続ける。
「それを許したら」
「金を持っている人から助かる世界になる」
「……」
「俺は」
「それをやりたくない」
麻生が藍染を睨む。
「綺麗事だ」
「そうかもしれません」
「お前は娘がいないから言える!」
「そうかもしれません」
「なら――!」
藍染は麻生をまっすぐ見た。
「それでも」
「順番は変えません」
沈黙。
数秒。
麻生がゆっくり立ち上がる。
「……分かった」
声は不気味なほど静かだった。
「もう頼まない」
藍染は何も言わなかった。
麻生は扉へ向かう。
そして開ける直前、立ち止まった。
「藍染」
藍染が顔を上げる。
「金で買えないものなんて」
麻生は振り返らずに言った。
「この世にはない」
扉が閉まる。
藍染は一人、その言葉を聞いていた。
「……」
そして。
誰もいない応接室で小さく呟いた。
「……そうですか」
――――――――――
翌朝。
麻生の一人娘の容体が急変した。
薬の到着予定はその日の午後。
医師たちが懸命に処置を続ける。
「まだなのか!」
「もう少しです!」
麻生は病室の前で何度も時計を見る。
午前十時。
十一時。
十二時。
今までの人生で、
これほど時間が長いと思ったことはなかった。
金ならある。
数千億。
欲しいものはほとんど手に入れてきた。
人も。
会社も。
情報も。
時間さえ。
金を使えばある程度は買えると思っていた。
だが。
今、麻生にできることは。
ただ待つことだけだった。
一秒。
一秒。
娘の命が削られていく。
それでも金は、何もしてくれない。
そして、午後一時十二分。
廊下の向こうから医師が走ってくる。
「届きました!」
麻生が立ち上がる。
「早く!」
「お願いします、下がってください!」
医師たちが集中治療室へ入る。
扉が閉まった。
「……」
麻生はその前に立ち尽くした。
――――――――――
一時間。
二時間。
麻生は。
一度もその場を離れなかった。
そして扉が開く。
医師が出てきた。
「……麻生さん」
麻生が顔を上げる。
「娘は」
医師は一度、息を吐いた。
そして、少しだけ笑った。
「薬が効いています」
「……」
「まだ経過観察は必要ですが」
「峠は越えました」
麻生は何も言わなかった。
その場で力が抜けるように椅子へ座った。
「……そうか」
それだけ呟いた。
両手で顔を覆う。
そして誰にも聞こえないほどの声で呟いた。
「……よかった」
――――――――――
翌日。
麻生は眠っている娘の横に座っていた。
モニターの数値は安定している。
昨日までとは明らかに違う。
娘は助かった。
その病室のテレビではニュースが流れていた。
《世界各地で回復者が急増》
《大規模感染 終息へ》
そして画面に藍染燈也が映った。
『抗ウイルス剤の供給は安定し始めています』
『まだ治療を待っている方もいます』
『でも』
『必ず届きます』
『もう少しだけ待ってください』
麻生は黙ってその男を見る。
娘は助かった。
藍染の薬で。
だから恨む理由など本来ならない。
むしろ。
感謝すべきなのかもしれない。
「……」
それでも。
麻生の中には一つだけ消えないものが残っていた。
あの日、千億を提示しても藍染は自分を特別扱いしなかった。
これまで金を積めばほとんどの扉は開いた。
政治家も。
企業も。
人間も。
欲しいものも。
必要なものも。
金額を上げれば最後には手に入った。
だが。
あの男だけは開けなかった。
麻生は眠る娘を見る。
そしてもう一度。
テレビの中の藍染を見る。
「……金で買えないもの、か」
小さく呟く。
その表情が何を意味しているのか。
まだ誰にも分からなかった。
――――――――――
同じ頃。
藍染の研究施設。
「残りの供給も目処が立ちました!」
研究者の声が響く。
「各国から回復報告が続いています!」
「重症者も減少しています!」
藍染はモニターを見る。
世界地図を覆っていた無数の赤い点。
それが一つ。
また一つ。
消えていく。
「……」
一人の研究者が藍染の隣へ立つ。
「今度こそ」
「終わりそうですね」
藍染は画面を見たまま少しだけ笑った。
「そうですね」
世界は再び藍染燈也によって救われようとしていた。
人々は少しずつ日常へ戻ろうとしている。
金を持つ者も。
持たない者も。
同じ薬で同じように人間へ戻っていく。
そして、世界中の誰もがその中心にいる男を救世主と呼び始めていた。
藍染燈也。
その名前はもう一人の研究者の名前ではなかった。
世界にとって希望そのものになり始めていた。




