第二十九話「疑うべき相手」
『このウイルス、本当は何なんだ?』
既読。
一秒。
五秒。
十秒。
返事は来なかった。
赤石はスマートフォンを握ったまま動かなかった。
目の前のモニターには二つのデータ。
今回のゾンビウイルス。
そして藍染が過去に発表した研究。
《一致率 98.1%》
偶然。
そう呼ぶにはあまりにも高い。
「藍……」
一分。
二分。
その時スマートフォンが震えた。
藍染からだった。
『やっぱ気付いたか』
「……?」
赤石の眉が動く。
すぐに文字を打った。
『知ってたのか?』
既読。
今度はすぐに返ってきた。
『あぁ』
赤石の表情が変わる。
『いつから?』
少しして返事。
『最初の解析をした時から』
「…………」
赤石は画面を見つめた。
最初から?
だったらなぜ言わなかった。
『電話できるか?』
送信。
数秒後。
スマートフォンが鳴った。
藍染。
赤石はすぐに出る。
「もしもし」
『赤』
「どういうことだよ」
『何が?』
「とぼけんな」
赤石の声が強くなる。
「お前の研究と今回のウイルス」
「ほとんど同じじゃねぇか」
『……そうだな』
「そうだなじゃねぇよ」
『落ち着けって』
「これで落ち着けるかよ」
一瞬の沈黙。
そして藍染が言った。
『だから俺は薬を作れた』
「……」
赤石の動きが止まる。
『前に言っただろ』
『俺が昔研究してたものと近いって』
「近いどころじゃねぇだろ」
『まぁな』
藍染は静かに続けた。
『最初に検体を見た時、俺も驚いたよ』
『昔自分が研究してたものに、あまりにも似てたから』
「だったらなんで公表しなかった」
『公表してどうする?』
「……」
『俺の昔の研究と似ていますって言ったところで、治療法ができるわけじゃない』
『それより薬を作る方が先だろ』
赤石は何も言えなかった。
筋は通っている。
藍染は続ける。
『それに』
『俺の研究は隠してない』
「……?」
『論文として公開してるだろ』
赤石はモニターを見る。
確かにそうだ。
自分が今見ているものも。
藍染が世の中へ発表した公開済みの論文。
誰でも読むことができる。
『研究者なら、必要な知識があれば再現することだってできる』
「……待て」
赤石の表情が変わる。
「じゃあお前……」
『俺も考えてるよ』
藍染の声が少し低くなった。
『誰かが俺の研究を使った可能性』
「……」
赤石は言葉を失った。
それなら。
説明がつく。
藍染の研究とウイルスが似ていること。
人工的な特徴。
そして。
藍染が誰よりも早く治療法へ辿り着けたこと。
自分の研究だから。
誰よりも構造を知っていた。
「……誰か心当たりは?」
『ない』
即答だった。
『論文を見た人間なんて世界中にいる』
『引用もされてる』
『そこから誰かを特定するなんて無理だ』
「……」
『ただ』
藍染が一度言葉を止めた。
『もし本当に』
『俺の研究が使われてるなら』
声の温度が変わった。
『俺にも責任がある』
「お前の責任じゃねぇだろ」
赤石はすぐに言った。
『でも俺が作った知識だ』
「違う」
『赤』
「包丁作った奴が殺人犯になるのかよ」
藍染が黙る。
「使った奴が悪いに決まってんだろ」
『……』
「お前は今、人を助けてる」
「それだけだ」
少しの沈黙。
そして電話の向こうで藍染が小さく笑った。
『やっぱお前』
『昔から変わんねぇな』
「何が」
『俺に甘い』
赤石も少し笑った。
「親友だからな」
『理由になってねぇよ』
「俺の中ではなる」
『……そっか』
短い言葉。
だが。
なぜか。
いつもの藍染より少しだけ静かだった。
「藍」
『ん?』
「俺も調べる」
『何を』
「お前の研究を使った奴」
『……』
「感染予測だけじゃねぇ」
「世界中のデータ漁ってやる」
「誰がやってんのか見つける」
藍染はしばらく何も言わなかった。
そして。
『頼むわ』
「任せろ」
『でも』
「ん?」
『無茶すんなよ』
赤石が笑う。
「それお前が言う?」
『俺はいいんだよ』
「よくねぇよ」
二人が。
少しだけ笑った。
『じゃあな、赤』
「あぁ」
『また連絡する』
「今度はちゃんと出ろよ」
『努力する』
「だから努力じゃねぇって」
通話が切れた。
「……」
赤石はスマートフォンを机へ置いた。
そしてモニターを見る。
《一致率 98.1%》
さっきまで藍染へ向いていた疑念。
だが今はその数字の意味がまったく違って見えた。
「誰だ……」
藍染の研究を使い。
世界中へウイルスをばら撒いている人間。
「何が目的なんだよ」
赤石は検索画面を開いた。
今度は藍染を調べるためではない。
藍染の研究を誰が利用したのか。
それを探すために。
――――――――――
その頃。
世界では。
50万人近い感染者への治療が本格的に始まっていた。
藍染が無償公開した製造方法。
世界中の製薬会社。
研究機関。
政府。
工場。
あらゆる場所で抗ウイルス剤が作られていた。
一万人。
五万人。
十万人。
回復者は急速に増えていく。
藍染一人では絶対に救えなかった数。
だが、
藍染が薬を独占しなかったことで世界そのものが治療薬を作り始めていた。
『現在までに約十二万人の回復が確認されています!』
『各国で抗ウイルス剤の増産が続いています!』
『このまま供給が進めば――』
世界に。
少しずつ。
希望が戻っていった。
そして。
その中心には。
やはり藍染燈也がいた。
――――――――――
だが、別の場所ではまったく違うことが起きていた。
「一本でいい」
薄暗い部屋。
スーツ姿の男がテーブルの向こうにいる男へ言った。
「いくらだ」
「……三億」
「払う」
即答だった。
「ただし今日中だ」
「分かりました」
「家族の分も必要になる」
「追加は?」
「一本五億」
男は少しも迷わなかった。
「構わない」
テーブルの下で小さなケースが渡される。
中には抗ウイルス剤。
本来、金では買えないはずの薬。
それが売られていた。
――――――――――
一度、金額がつけばあとは早かった。
三億。
五億。
十億。
感染者が増えるほど値段も上がる。
そして、薬を持っている人間が売り始める。
病院関係者。
輸送業者。
製薬会社。
研究機関。
世界中で少しずつ正規の供給網から薬が消え始めた。
一本。
また一本。
その結果。
本当に薬を必要としている人間へ届かなくなる。
――――――――――
数日後。
一人の感染者が死亡した。
薬の投与が間に合わなかった。
今回の大規模感染で初めて確認された死者。
ニュースには泣き崩れる家族の姿。
『あと一日……』
母親が震える声で話していた。
『あと一日早く薬が届いていれば……』
その映像藍染は研究施設で見ていた。
「……」
隣にいた研究者が唇を噛む。
「薬はあったんです」
藍染がゆっくり顔を向ける。
「……どういうことですか」
「この患者に割り当てられていた分が」
研究者は言いづらそうに続けた。
「輸送途中で紛失しています」
「紛失?」
「はい」
「それと同じ製造番号の薬が――」
研究者が資料を見せる。
「海外の闇市場で確認されました」
「……」
藍染はその文字を見つめた。
《取引価格》
《約7億円》
「……七億」
誰かが七億円を払った。
そして、その一本を手に入れた代わりに本来その薬を受け取るはずだった人間が死んだ。
藍染は何も言わなかった。
ただ、テレビを見る。
泣いている家族。
『お金がなかったから……』
『私たちは……後回しにされたんでしょうか……』
事実とは少し違う。
金がないから後回しにされたわけではない。
だが結果だけを見れば。
金を持つ者が薬を手に入れ持たない者が死んだ。
「……」
藍染の拳が静かに握られた。
研究者が言う。
「最低ですよ」
「無料で公開した薬を……」
「金儲けに使うなんて」
藍染は何も答えなかった。
その日の夜、世界中のニュースが抗ウイルス剤の闇取引を報じた。
一本。
十億。
二十億。
場所によってはさらに高値。
金を持つ者が金を使って命を買う。
世界中で怒りが広がった。
だが、同時に薬を求める富裕層もさらに増えていった。
そして、その中には金を積んでも薬を手に入れられなかった者たちもいた。
――――――――――
「いくら払えばいい」
一人の男が電話越しに怒鳴っていた。
『申し訳ありません』
『もう確保できる薬が――』
「百億出す!」
『金額の問題では――』
「だったら二百億だ!」
『……』
「娘が感染してるんだぞ!」
男は机を殴った。
「金ならいくらでもある!」
「なのに何で買えない!」
電話の向こうから静かな声。
『藍染氏が、正規ルート以外への提供を禁止しています』
「……藍染?」
『はい』
男の表情が変わった。
「……あいつか」
電話を切る。
机の上には娘の写真。
そして、テレビ。
画面には藍染燈也。
『命に優先順位をつけるのは、医療です』
『金ではありません』
男は
黙ってその映像を見つめていた。
「……綺麗事を」
小さく呟く。
世界は藍染燈也を救世主と呼んでいた。
だが、
金で何でも手に入れてきた人間たちにとってその救世主は
少しずつ――
邪魔な存在にもなり始めていた。




