第二十八話「救世主の限界」
《推定感染者――10万人突破》
その数字は数分後には、もう古いものになっていた。
十二万。
十五万。
十八万。
世界地図を覆う赤い点は、
増え続けている。
これまでとは違った。
一人。
六人。
千人。
段階を踏んでいた感染が今回は最初から、
世界そのものを飲み込もうとしていた。
――――――――――
『不要不急の外出を控えてください!』
『感染者を発見した場合、絶対に近付かないでください!』
『各国政府は軍および警察を投入し――』
ニュースの声をかき消すように外からサイレンが響く。
赤石は窓から街を見下ろしていた。
道路には家へ急ぐ人々。
スーパーには長い列。
駅には電車へ乗ろうとする人間が殺到している。
数日前まで世界は藍染がいるから大丈夫だと信じていた。
ウイルスが現れても薬を作ってくれる。
感染しても治してくれる。
だが。
十万人。
いや、すでに二十万人へ迫っている。
問題は薬が効くかどうかではない。
作れない。
届けられない。
間に合わない。
「……」
赤石は藍染との通話履歴を見つめた。
『しばらく外に出るな』
あいつは何か知っているのか?
そう考えてすぐに首を振る。
今はそんなことを考えている場合じゃない。
赤石は会社のシステムへアクセスした。
「予測モデル回すぞ……」
感染予測AI。
本来は感染の拡大地域を予測し、医療資源や人員をどこへ優先的に送るべきか判断するためのもの。
だが、今回そのAIはほとんど役に立っていなかった。
「……なんでだよ」
通常なら感染者が増えれば増えるほどデータも増える。
精度は上がる。
だが、今回は逆だった。
感染者が増えるほど。
予測から外れていく。
東京の次に。
北海道。
その次は。
南米。
そして。
アフリカ。
感染が移動していない。
世界中で。
突然、発生している。
「感染経路が……ない」
また同じ結論。
赤石は拳を握った。
「だったら、何を予測しろってんだよ……!」
――――――――――
その頃。
藍染の研究施設には、世界中から連絡が殺到していた。
『抗ウイルス剤を送ってください!』
『こちらではすでに3000人以上が感染しています!』
『生産量を増やせませんか!?』
『原料が不足しています!』
『輸送ルートが確保できません!』
『医療機関が限界です!』
研究者たちが慌ただしく動き回る。
その中心で藍染はモニターを見つめていた。
《推定感染者 214,382名》
数字が更新される。
《218,901名》
さらに。
《224,516名》
一人の研究者が藍染へ駆け寄る。
「藍染さん!」
「現在の生産能力では全然足りません!」
「分かってます」
「製薬会社から、追加ラインを稼働させると連絡が――」
「それでも足りない」
研究者が黙る。
藍染は画面を見たまま続けた。
「今の速度なら」
「製造が追いつく前に、感染者の方が増えます」
「……では、どうすれば」
藍染は答えなかった。
「藍染さん……?」
数秒。
沈黙。
そして。
「作り方を公開します」
「……え?」
「抗ウイルス剤の生成方法」
研究者の表情が変わる。
「待ってください!」
「それは――」
「世界中の研究機関と製薬会社に公開してください」
「しかし、知的財産もありますし、安全管理も――」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょう」
藍染の声は静かだった。
だが、強かった。
「俺たちだけで作ってたら間に合わない」
「作れるところ全部で作る」
「国も企業も関係ない」
「必要なデータは全部渡してください」
研究者が藍染を見る。
「……すべて、ですか?」
「全部です」
「対価は?」
藍染は一瞬、研究者を見る。
「いりません」
「……」
「人が死んでるんですよ」
その一言で研究者は何も言えなくなった。
「分かりました」
走っていく。
藍染は再びモニターを見る。
《感染者 231,105名》
数字は止まらない。
――――――――――
数時間後。
世界中へ。
藍染の抗ウイルス剤に関する情報が無償で公開された。
組成。
生成方法。
必要な設備。
検証データ。
量産に必要な情報。
そのほぼすべて。
ニュースはその決断を大きく報じた。
『藍染燈也氏が抗ウイルス剤の製造技術を世界へ無償公開しました!』
『特許による独占も行わない方針です!』
『各国の製薬会社が緊急生産へ入っています!』
再び。
称賛。
『神かよ』
『普通こんなの公開できないだろ』
『金取ればいくらになったんだ』
『本当に人命しか考えてない』
『この人だけは信用できる』
世界中が、
さらに藍染を信じた。
――――――――――
赤石もそのニュースを見ていた。
「全部……公開?」
画面には。
藍染が提供したという抗ウイルス剤の情報。
赤石は少し笑った。
「……お前らしいな」
金にしようと思えばいくらにでもできる。
世界中が必要としている薬。
独占すれば世界一の富豪になることだって不可能ではない。
それを無料。
高校時代、金がなくて選択肢を奪われ続けた藍染だからこそ。
命まで。
金で選別されることを許さない。
「……」
やっぱり。
自分は考えすぎだったのかもしれない。
そんな人間が世界中にウイルスをばら撒く?
何のために?
金?
違う。
藍染は今。
その金を自分から捨てている。
名誉?
それならこんな危険なことをする必要はない。
「……違うよな」
赤石は小さく呟いた。
「お前じゃねぇよな」
その時、モニターに新しいデータが表示された。
「……?」
赤石の目が止まる。
先ほど申請していた千人の感染者に関するより詳細な解析結果。
赤石は画面を開いた。
そして眉をひそめる。
「なんだこれ……」
ウイルスの解析結果。
そこに、ごく小さな不自然な配列があった。
自然変異では説明しづらい部分。
赤石は拡大する。
「……」
一度。
見たことがある。
どこで?
赤石は過去のデータベースを検索する。
論文。
研究資料。
遺伝子データ。
何百。
何千という資料。
AIが照合していく。
《一致率 12%》
違う。
《一致率 28%》
違う。
《一致率 41%》
違う。
そして。
一件。
画面が止まった。
《一致率 97.8%》
「……?」
赤石はその資料を開いた。
古い論文。
発表者の名前。
その文字を見た瞬間。
赤石の呼吸が。
止まった。
《AIZOME TOUYA》
「…………」
藍染燈也。
大学時代、姿を消していたはずの藍染が。
唯一、世の中へ残していた研究。
赤石が、何度も、何度も読み返した論文。
そこに記載されていた人工的なウイルス制御に関する配列と。
今回のゾンビウイルスの一部が――
ほぼ一致している。
「……嘘だろ」
赤石は画面へ近づいた。
もう一度。
照合。
《97.8%》
「いや……」
もう一度。
条件を変える。
《97.6%》
別の箇所。
《98.1%》
「……」
手が震え始めた。
「なんで……」
偶然?
似ているだけ?
藍染が研究していた分野と今回のウイルスに共通点がある。
それだけ。
以前も。
そうやって。
自分を納得させた。
だが。
今回は。
違う。
これは。
似ているなんてものではない。
「藍……」
赤石はスマートフォンを見る。
そして。
藍染へ電話をかけた。
呼び出し音。
一回。
二回。
三回。
四回。
出ない。
もう一度。
出ない。
「出ろよ……」
もう一度。
『おかけになった電話は――』
「クソ!」
赤石は電話を切った。
画面を見る。
《AIZOME TOUYA》
《一致率 98.1%》
これだけでは証拠にならない。
藍染が犯人だと決まったわけじゃない。
むしろ逆もあり得る。
誰かが藍染の研究を利用した。
その可能性だってある。
「……そうだ」
赤石は自分に言い聞かせる。
「藍の研究を……誰かが使った」
その方が自然だ。
藍染は世界を救っている。
今だって。
薬の作り方を公開して。
何十万人もの命を救おうとしている。
「……」
だが。
赤石の頭に。
一つの疑問が浮かんだ。
もし。
誰かが藍染の研究を利用しているなら。
なぜ。
藍染は。
毎回。
誰よりも早く。
そのウイルスに対応できる?
「…………」
赤石は目を閉じた。
考えるな。
証拠がない。
まだ。
何も。
決まっていない。
その時、テレビから大きな声が聞こえた。
『速報です!』
赤石が顔を上げる。
『世界各地で確認されていた感染者について、新たな情報が入りました!』
画面には世界地図。
そして数字。
《推定感染者 487,000名》
「……」
五十万人。
だが。
アナウンサーが伝えたのは感染者数ではなかった。
『先ほどから――』
『新規感染者の増加が、急激に鈍化しています』
「……え?」
赤石が画面を見る。
グラフ。
あれほど垂直に近い勢いで増えていた感染者数が。
突然、横ばいになり始めている。
『理由は分かっていません』
『各国で外出制限などが行われていますが、その効果が表れるには早すぎるとの指摘もあります』
「……また」
赤石の顔から血の気が引く。
まただ。
前もそうだった。
突然始まって。
突然止まった。
まるで誰かが。
決めた人数に達した瞬間止めたように。
「……」
赤石はモニターを見る。
《AIZOME TOUYA》
そして。
テレビ。
《感染者増加 急停止》
二つの画面を交互に見る。
その時、赤石のスマートフォンが震えた。
「……!」
藍染からメッセージ。
赤石はすぐに開いた。
たった一言。
『悪い。忙しかった。どうした?』
「……」
いつもの藍染。
赤石は返信欄を開いた。
指が止まる。
何度も文字を打とうとする。
そして消す。
最後に一つだけ送った。
『藍』
既読。
すぐに。
返事が来た。
『ん?』
赤石は画面を見つめる。
聞くなら今しかない。
親友としてではなく。
研究者として。
逃げずに確かめる。
赤石はゆっくり文字を打った。
『お前さ』
一度指を止める。
そして送信した。
『このウイルス、本当は何なんだ?』
既読。
「……」
一秒。
五秒。
十秒。
返事は。
来なかった。




