第二十七話「救世主のいる世界」
「またな、藍」
そう言って別れてから赤石は一人、夜道を歩いていた。
「……」
久しぶりだった。
本当に。
久しぶりだった。
六年以上。
どこにいるのかも分からなかった親友と。
飯を食って。
くだらない話をして。
昔と同じように笑った。
「……変わってなかったな」
赤石は小さく笑った。
世界の救世主。
現代最高の天才。
そんな呼ばれ方をしている人間とは思えない。
六百八十円の唐揚げ定食を食べて。
彼女がいないことを笑って。
昔の約束まで覚えていた。
藍染燈也。
自分が知っているあの藍染だった。
だからこそ。
赤石は自分自身が嫌になった。
「……何疑ってんだよ、俺」
千人の感染。
不自然なウイルス量。
異常なまでに揃った感染条件。
そして、藍染が薬を完成させるまでのあまりにも短い時間。
確かにおかしい。
それでも。
藍染がやったという証拠は何一つない。
あるのは。
状況だけ。
そして現実には藍染は千人を救うために動いている。
「……悪ぃ、藍」
赤石は誰もいない夜道で呟いた。
だが、研究者として一度見つけてしまった違和感を
なかったことにもできなかった。
赤石はスマートフォンを取り出す。
会社へ連絡する。
『明日、感染者のデータもう一回全部洗う』
送信。
数秒後。
返信。
『まだやるのか?』
赤石は少し考えて。
返した。
『原因分かってねぇからな』
それだけだった。
藍染を疑うためじゃない。
原因を探すため。
赤石はそう自分に言い聞かせた。
――――――――――
翌日。
世界では抗ウイルス剤の量産が本格的に始まっていた。
藍染が作った原型をもとに複数の研究機関。
製薬会社。
各国政府。
あらゆる組織が協力する。
以前とは違う。
藍染一人がすべてを作る必要はない。
『現在、感染者約1000名に対する必要量は確保できる見込みです』
その発表に世界中から安堵の声が上がった。
そして、薬は順番に感染者へ届けられていった。
日本。
アメリカ。
フランス。
中国。
ブラジル。
世界中へ。
一本。
また一本。
投与されていく。
結果は――
回復。
また。
回復。
さらに。
回復。
百人。
三百人。
五百人。
藍染の薬は確実に感染者を元の人間へ戻していった。
数日後。
《回復者 900名突破》
そして。
さらに二日後。
最後の一人への投与が行われた。
世界中がその結果を見守る。
数時間後。
速報。
《感染者1000名》
《全員の回復を確認》
死者――
ゼロ。
その瞬間、世界はまた一人の男に救われた。
――――――――――
藍染燈也。
その名前は、もはや研究者の名前ではなくなっていた。
学校の教科書へ載せるべきだという声。
ノーベル賞を求める声。
国家勲章。
名誉市民。
各国の大学から名誉博士号の申し出。
ある国では藍染の肖像画を掲げ祈りを捧げる人間まで現れた。
『救世主』
その言葉が。
比喩ではなくなり始めていた。
世界中の人間が、一つのことを信じるようになっていた。
ウイルスが現れても藍染がいる。
藍染さえいれば人類は大丈夫。
そんな異常なほどの信頼。
そして。
その信頼は――
別のものも生み始めていた。
――――――――――
『藍染氏の研究施設へ1000億円を寄付』
『世界的大企業が研究支援を表明』
『各国政府、藍染氏への無制限支援を決定』
金。
人。
設備。
権力。
世界中のあらゆるものが藍染のもとへ集まり始めていた。
本人が求めていないにもかかわらず。
世界が勝手に差し出していく。
研究費。
専用施設。
最高峰の設備。
優秀な研究者。
専用機。
警備。
必要なら何でも用意する。
ただし、条件は一つ。
――次も世界を救ってほしい。
藍染はそのほとんどを研究のために受け入れた。
金を自分のものにはしない。
豪邸も買わない。
高級車にも乗らない。
生活は以前とほとんど変わらなかった。
その姿がさらに世界の信頼を強くした。
『本当に金に興味がないんだ』
『1000億集まっても自分に使わない』
『こんな人間見たことない』
『この人に任せておけば大丈夫』
そして、いつしかこんな言葉まで使われるようになった。
――藍染基金。
世界中の富裕層。
企業。
一般人。
誰もが。
未来の命を守るため。
金を出した。
百円。
千円。
一万円。
一億円。
百億円。
金額は違っても。
願いは同じだった。
藍染に次の薬を作ってもらうため。
――――――――――
「……すげぇな」
赤石はニュースを見ながら呟いた。
画面には藍染の研究を支援するために集まった金額。
すでに国家予算すら思わせる数字になっていた。
「お前……」
赤石は少し笑う。
「会社作る必要ねぇじゃん」
世界のトップ企業どころではない。
藍染一人に世界が動いている。
高校時代。
二人で話していた夢。
世界のトップ企業。
あの頃はそれが一番大きな夢だと思っていた。
だが、藍染はそんなものを遥かに超える場所へ行ってしまった。
「……」
嬉しい、はずだった。
それでもどこか寂しかった。
「俺、いらねぇじゃん」
冗談のように呟く。
だが。
少しだけ。
本音だった。
それでも。
藍染は言った。
――覚えてるよ。
あの約束を。
「……まぁいいか」
赤石はモニターへ向き直った。
自分には、自分にできることがある。
そして画面を切り替える。
《感染者1000名 解析データ》
赤石の表情が研究者のものへ戻る。
「さて……」
もう一度、最初から。
――――――――――
数時間後。
赤石はある仮説を立てていた。
感染ではなく。
投与。
千人が。
何らかの方法でほぼ同一条件のウイルスを体内へ入れられた。
ではどうやって?
注射。
あり得ない。
千人全員へ。
世界各地で。
同時に。
そんなことはできない。
飲食物。
共通点なし。
薬。
共通点なし。
空気。
それなら地域ごとに感染者が偏るはず。
水。
同じ。
「……ダメだ」
方法がない。
誰かが意図的に起こしたと仮定しても実行方法が存在しない。
「じゃあ違うのか……?」
赤石は頭を抱える。
その時。
ふと。
一つの考えが浮かんだ。
「……待て」
感染した場所を探している。
それがそもそも間違いだったら?
赤石は発症者の過去の医療記録を開く。
一ヶ月。
三ヶ月。
半年。
一年。
さらに。
二年。
「……」
共通点はない。
だが、赤石は範囲をさらに広げた。
三年。
五年。
そして。
画面を見た。
「……え?」
一人。
二人。
三人。
ある項目。
同じものではない。
病院も違う。
治療内容も違う。
国すら違う。
それでもわずかな共通点があった。
「……医療機関?」
千人のうち、医療機関を利用した経験がある者。
当然、ほぼ全員。
それだけなら、何の意味もない。
だが赤石は、
さらに条件を絞る。
過去五年間。
注射。
点滴。
ワクチン。
採血。
輸血。
手術。
「……」
結果。
バラバラ。
「違うか……」
赤石が椅子にもたれようとしたその瞬間。
警告音。
新着情報。
赤石は画面を見る。
「……?」
感染者?
違う。
海外ニュース。
《原因不明の集団錯乱》
場所。
スペイン。
赤石の表情が変わる。
記事を開く。
『現在、詳しい原因を調査中』
『現場では多数の市民が突然他者へ襲いかかったとの情報が――』
「……多数?」
赤石は嫌な予感を覚えた。
更新。
数分後。
続報。
《ゾンビウイルスの可能性》
「おい……」
さらに別の通知。
イタリア。
さらに。
カナダ。
南アフリカ。
日本。
アメリカ。
次々と。
通知が入る。
「待て待て待て……」
赤石が立ち上がる。
百人ではない。
千人でもない。
数字が。
異常な速度で増えていく。
三千。
一万。
二万。
五万。
「……嘘だろ」
ニュース番組へ切り替える。
アナウンサーが叫ぶように伝えていた。
『世界各地で同時多発的に感染者が確認されています!』
『現時点で正確な人数は把握できていません!』
映像が切り替わる。
街。
逃げる人々。
車を乗り捨てる人間。
警察。
救急車。
軍。
今までとは全く違う。
世界が本当に崩れ始めていた。
赤石は呆然と画面を見る。
その時。
速報。
《推定感染者――10万人突破》
「…………」
たった数時間で。
十万人。
そして。
数字は止まらない。
赤石は震える手でスマートフォンを掴んだ。
藍染へ電話をかける。
呼び出し音。
一回。
二回。
三回。
『もしもし』
「藍!!」
『赤?』
「ニュース見てるか!?」
『見てる』
藍染の声は驚くほど落ち着いていた。
「十万人だぞ!」
『分かってる』
「薬は!?」
一瞬。
沈黙。
そして藍染が答えた。
『足りない』
「……」
初めてだった。
世界が藍染の薬を上回った。
『赤』
「……なんだ」
藍染の声が少し低くなる。
『しばらく外に出るな』
「は?」
『いいから』
「お前はどうすんだよ」
『俺は――』
その瞬間、電話の向こうから誰かの声が聞こえた。
『藍染さん!準備できました!』
『今行く』
藍染が答える。
そして再び赤石へ。
『赤』
「……」
『また連絡する』
「おい、待て藍――」
通話が切れた。
「……」
赤石はスマートフォンを見つめていた。
また連絡する。
ほんの数日前。
二人は同じような言葉を交わした。
――またな。
なぜだろう。
今回はその言葉がひどく嫌なものに聞こえた。
赤石は窓の外を見る。
遠くでサイレンが鳴っていた。
一つ。
二つ。
そして数えきれないほど。
世界は、藍染燈也という救世主を手に入れた。
だから誰もが安心していた。
だが――
救世主が一人いても救える命には限界がある。
その当たり前の事実を、
世界は今になって思い知らされようとしていた。




