第二十五話「千人」
《感染者――1000人を突破》
その数字は世界から一瞬で余裕を奪った。
これまでとは違う。
一人。
数人。
そんな規模ではない。
千人。
しかも――
ほぼ同時だった。
アメリカ。
日本。
中国。
フランス。
イギリス。
ブラジル。
インド。
オーストラリア。
国境も。
人種も。
年齢も関係なく。
世界各地で感染者が確認されていた。
『現在、各国政府が感染経路の特定を急いでいます』
『しかし、感染者同士に明確な接触は確認されていません』
『感染者数は今後さらに増加する可能性があります』
テレビから流れる言葉に以前まであった安心は消えていた。
世界はようやく気付いた。
藍染燈也が薬を作れることと。
感染そのものを止められることは――
別なのだと。
―――
赤石はモニターに表示された世界地図を見つめていた。
感染が確認された地域には、
赤い点が表示されている。
北米。
南米。
ヨーロッパ。
アジア。
オセアニア。
赤い点は世界中に散らばっていた。
「……おかしい」
何度見ても。
おかしい。
感染症なら広がり方がある。
最初の感染者がいて。
そこから人へ。
さらに人へ。
時間と移動によって、
感染地域が拡大していく。
だが。
今回には――
それがない。
「なんで……」
赤石は、感染が確認された時刻を並べた。
ドイツ。
アメリカ。
日本。
ブラジル。
イギリス。
そして。
世界各地。
「……繋がってねぇ」
移動では説明できない。
接触でも説明できない。
偶然などもっとあり得ない。
世界の反対側で、ほぼ同じ時間に同じウイルスへ感染している。
赤石は椅子から立ち上がった。
「これ……」
その瞬間。
頭の中に一つの可能性が浮かぶ。
だが。
すぐに消した。
「……いや」
あり得ない。
もしそうなら。
これは感染ではない。
誰かが――
ばら撒いている。
「……」
研究室が急に静かになったように感じた。
赤石はもう一度世界地図を見る。
千を超える赤い点。
もし、これが自然発生ではないのなら。
誰かが。
意図的に。
世界中で。
同時に。
「そんなこと……」
できる人間がいるのか?
赤石はそこで思考を止めた。
いや。
違う。
考えるべきなのは誰ができるかではない。
誰なら。
このウイルスを――
持っているのか。
「……」
赤石の頭に一人の男が浮かんだ。
すぐに首を振る。
「やめろ」
声に出した。
「それ以上は……違う」
親友だからではない。
証拠がない。
ただそれだけだ。
疑うなら証拠が必要だ。
赤石は再びモニターへ向き直った。
――――――――――
一方。
世界では別の問題が起き始めていた。
薬が――
足りない。
『現在、抗ウイルス剤の生産を急いでいますが、感染者全員へ即時投与できる量は確保されていません』
その発表を境に、世界中から問い合わせが殺到した。
『娘を助けてください!』
『金なら払います!』
『父が感染しました!』
『何でもします!』
『薬をください!』
以前とは違う。
もう、将来への保険ではない。
目の前で。
家族が。
友人が。
恋人が。
死ぬかもしれない。
一本の薬が、本当に一人の命を左右するものになった。
そして。
そこへ。
当然のように――
金が入り込んだ。
――――――――――
「一億出す!」
「こっちは三億だ!」
「五億!」
「十億出す!」
「娘を最優先にしてくれ!」
「二十億払う!」
「頼む!一本だけでいい!」
世界中の富裕層。
企業経営者。
投資家。
政治家。
王族。
権力を持つ者たちから次々と申し出が届いた。
金額はもはや常識を失っていた。
一本。
五十億。
百億。
それでも欲しい。
命が買えるなら安い。
そんな言葉すら飛び交い始めていた。
だが、藍染の回答は変わらなかった。
『売りません』
一律、誰であろうと。
どれだけ金を積もうと答えは同じだった。
薬は医療機関を通じて。
必要性の高い患者から順番に投与する。
金で順番は変えない。
その姿勢に。
世界は再び藍染を称賛した。
『100億でも動かなかった』
『本物だ』
『こんな人間いるのかよ』
『藍染がいてくれて本当に良かった』
しかし、当事者たちは違った。
自分の家族が。
薬を待っている。
目の前で苦しんでいる。
金ならある。
それなのに、買えない。
そして、人間は、金で手に入らないものほど――
欲しくなる。
――――――――――
ある男が藍染の研究施設を訪れた。
世界でも有数の資産家だった。
「藍染さん」
応接室。
男は藍染の正面へ座っていた。
「私の息子が感染しました」
藍染は黙って話を聞いている。
「まだ十九歳です」
「……そうですか」
「お願いします」
男は頭を下げた。
「薬を一本、譲ってください」
「それはできません」
即答だった。
男が顔を上げる。
「……金なら払います」
「金額の問題ではありません」
「百億」
藍染は何も言わない。
「二百億」
「……」
「五百億でもいい」
それでも、藍染の表情は変わらなかった。
「息子さんより先に薬を必要としている人がいます」
「……」
「順番を変えることはできません」
男の拳が震えた。
「私の息子だぞ」
藍染は静かに男を見る。
「はい」
「私が今まで、どれだけ――」
男は、言葉を止めた。
藍染は穏やかな声で言った。
「あなたの息子さんも」
「他の患者さんも」
「同じ命です」
「……っ」
男は何も言えなかった。
やがて。
立ち上がる。
「……後悔するぞ」
藍染はその言葉にも反応しなかった。
男が部屋を出ていく。
扉が閉まる。
静寂。
藍染は一人になった。
机の上には男が置いていった資料。
資産。
企業。
保有株式。
数字だけなら。
普通の人間が想像すらできないほどの富。
藍染はそれを眺めた。
そして。
小さく呟いた。
「……五百億か」
その声に、驚きも喜びもなかった。
ただ、何かを確認するように数字だけを見ていた。
――――――――――
その頃。
赤石は感染者のデータを調べ続けていた。
発生地点。
時刻。
年齢。
職業。
生活圏。
移動履歴。
共通点を探す。
だが、何もない。
何時間経っても。
何も見つからない。
「クソ……」
赤石は目を擦った。
その時だった。
一つのデータが目に入った。
「……ん?」
感染者の一人。
日本。
三十四歳。
男性。
赤石はその人物の記録を開く。
発症時刻。
行動履歴。
そして、検査結果。
何かがおかしい。
「待てよ……」
別の感染者を開く。
アメリカ。
四十二歳。
女性。
さらに。
フランス。
二十八歳。
男性。
比較する。
赤石の表情が徐々に変わっていく。
「……なんだ、これ」
三人とも。
発症した時間は違う。
住んでいる国も違う。
当然。
接触もない。
だが、感染後のウイルス量の推移が――
ほとんど同じだった。
「……」
偶然?
いや。
千人いる。
赤石は、さらにデータを開いた。
十人。
二十人。
五十人。
調べる。
そして背中に。
冷たいものが走った。
「……同じだ」
自然感染なら。
個人差が出る。
免疫。
年齢。
体質。
感染量。
発症までの時間。
まったく同じになるはずがない。
なのに、異常なほど揃っている。
まるで――
最初から同じ条件で感染させられたように。
「……」
赤石は画面を見つめた。
そして無意識に呟いていた。
「これ……感染じゃねぇ」
誰もいない研究室。
赤石の声だけが響く。
「投与……されてる?」
言った瞬間。
自分の言葉に赤石自身が固まった。
もし、そうなら自然発生ではない。
事故でもない。
これは――
誰かが起こしている。
赤石はゆっくりと椅子にもたれた。
心臓が嫌な音を立てていた。
その時。
スマートフォンが震えた。
画面を見る。
《藍染燈也》
「……!」
赤石の動きが止まる。
こんな時に。
藍染から。
電話。
数秒。
赤石は画面を見つめた。
そして通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『赤』
いつもの声だった。
何年も。
何度も聞いてきた。
親友の声。
『今、時間あるか?』
「……あるけど」
『久しぶりに飯でも食わね?』
「……」
赤石は目の前のモニターを見る。
《同一条件による感染の可能性》
そしてスマートフォンを握り直した。
「……いいぞ」
『じゃあ、いつものところで』
「分かった」
電話が切れる。
赤石はしばらく動かなかった。
藍染からの何でもない誘い。
昔なら何も考えずに向かった。
だが今は違う。
赤石はモニターを閉じた。
「……藍」
親友を疑いたくない。
それでも。
確かめなければならない。
赤石は立ち上がった。
その夜。
二人の燈也は――
久しぶりに。
二人きりで向かい合うことになる。




