第二十四話「三度目」
三度目はあまりにも静かに始まった。
最初の報告はドイツだった。
『原因不明の錯乱状態にある男性が、病院へ搬送されました』
そのニュースを見た瞬間、世界中の人間が同じものを思い浮かべた。
――まさか。
数時間後。
検査結果が発表された。
《例のウイルスと一致》
三度目。
それでも以前のような大混乱は起きなかった。
スーパーから商品が消えることもない。
道路が車で埋め尽くされることもない。
空港へ人々が殺到することもなかった。
もちろん恐怖が消えたわけではない。
ただ、世界にはもう一つの安心があった。
藍染燈也。
一度目。
世界が何もできなかった未知のウイルスに治療薬を作った。
二度目。
変異したウイルスに対しても新たな薬を完成させた。
だから三度目も。
人々はどこかで信じていた。
――藍染が何とかしてくれる。
その期待はもはや希望ではなく、
世界にとって当然のことになり始めていた。
――――――――――
赤石は研究室のモニターを見つめていた。
「……またか」
画面にはドイツの感染者から採取されたウイルスの解析データ。
当然、前回とは違う。
「三回目……」
赤石は椅子へ深く腰掛けた。
一度なら偶然。
二度なら異常。
三度となれば――
そこには何かがある。
そう考えるのが研究者として自然だった。
だが、その答えが見つからない。
「なんなんだよ……お前」
モニターに表示された構造を何度見ても理解できなかった。
変異している。
確かに変異している。
しかし自然界で起こる変異として考えるとどこか奇妙だった。
必要な部分だけが変わっている。
まるで。
以前の薬を避けるために。
「……いや」
赤石は首を振った。
考えすぎだ。
ウイルスが薬に対して耐性を持つこと自体は珍しい話ではない。
ただ、これは――
速すぎる。
―――
その日の夜。
二人目が確認された。
アメリカ。
翌朝。
三人目。
日本。
そして。
四人目。
ブラジル。
五人目。
イギリス。
また。
世界中に散らばっていた。
接触歴はない。
渡航歴にも共通点はない。
感染経路は今回も不明。
だが、
ニュース番組の雰囲気は以前とは明らかに違っていた。
『現在、五名の感染が確認されています』
『各国政府は冷静な対応を呼びかけています』
『なお、藍染燈也氏もすでにウイルスの解析を開始しているとのことです』
その名前が出た瞬間、SNSには安堵の声が溢れた。
『藍染が動いてるなら大丈夫』
『前回も治したし』
『今回もすぐ薬できるでしょ』
『怖いけど藍染いるからな』
赤石はその投稿を黙って眺めていた。
「……すげぇな、お前」
世界中の人間がたった一人の男をここまで信じている。
高校時代。
一緒に帰りながらくだらない話をしていた男。
金がなくて。
バイトばかりして。
それでも誰より頭が良くて。
いつか、世界のトップに立つ。
赤石がそう信じていた男。
本当に、世界の中心に立っていた。
「……」
本来なら、嬉しいはずだった。
なのに、胸の奥にある違和感だけが消えなかった。
――――――――――
翌日、赤石は研究室にいた。
解析はほとんど進んでいない。
「クソ……」
前回よりさらに複雑になっている。
世界中の研究機関も同じだった。
『構造解析には時間が必要です』
『現段階では有効な治療法は――』
テレビから専門家の声が流れる。
その時だった。
赤石のスマートフォンが震えた。
ニュース速報。
何気なく画面を見る。
そして。
赤石の指が止まった。
《藍染燈也氏、新たな抗ウイルス剤の生成に成功》
「…………は?」
赤石は時計を見る。
最初の感染者が確認されてから。
まだ――
二日。
「嘘だろ」
前回より速い。
いや、そんな言葉で片付けられる速さではない。
世界中の研究者が、まだウイルスの全容すら掴めていない。
なのに、藍染は。
もう、薬を作った。
赤石は記事を開いた。
《新たな変異株に対応》
《動物実験において有効性を確認》
《感染者への投与準備へ》
「……」
赤石は何度も文章を読み返した。
だが内容は変わらない。
「どうやって……」
呟いた声だけが研究室に響いた。
――――――――――
翌日。
新薬が投与された。
結果は。
回復。
また藍染が世界を救った。
歓喜。
称賛。
拍手。
テレビでは藍染の映像が流れ続ける。
『三度目の奇跡!』
『人類の救世主』
『現代最高の天才』
世界は疑わなかった。
疑う理由などどこにもない。
結果を出している。
人を救っている。
金を要求することもない。
名誉を求めることもない。
ただ、命を救っている。
だから世界は信じた。
しかし赤石だけは笑えなかった。
――――――――――
「二日……」
赤石は藍染が薬を完成させるまでの時間を計算していた。
ウイルスの採取。
解析。
標的の特定。
化合物の選定。
生成。
検証。
安全性の確認。
どれだけ設備があっても。
どれだけ優秀な研究者でも。
必要な工程そのものは消えない。
それを二日。
「無理だろ……」
赤石は初めてその言葉を口にした。
天才だから。
そんな説明ではもう足りない。
藍染は確かに天才だ。
それは赤石が誰より知っている。
だからこそ分かる。
天才なら何でもできるわけではない。
知らないものを最初から知っているわけではない。
「藍……」
赤石は、スマートフォンを手に取った。
連絡先。
《藍染燈也》
親指が通話ボタンの上で止まる。
聞けばいい。
どうやって作った?
なぜそんなに早かった?
それだけだ。
親友なんだから。
聞けばいい。
「……」
だが。
押せなかった。
もし。
藍染が普通に答えたら。
自分は親友を疑ったことになる。
そして。
もし――
答えられなかったら。
「…………」
赤石はスマートフォンを伏せた。
その時、
モニターの端に新しい通知が表示された。
《感染者発生》
「……また?」
治療薬が完成した。
感染者も回復した。
終わったはずだった。
赤石は通知を開く。
一人ではない。
十人。
二十人。
五十人。
複数の国でほぼ同時に。
数字が増え始めていた。
「おい……」
赤石が立ち上がる。
百人。
二百人。
画面が次々と更新される。
今までとは違う。
明らかに。
規模が違う。
そして、数時間後。
世界中のニュースが同じ速報を流した。
《世界各地で感染者急増》
《確認された感染者――》
《1000人を突破》
赤石は画面を見つめたまま動かなかった。
三度目の感染。
薬はもうある。
藍染が作った。
だから大丈夫なはずだった。
なのに、
「……なんで」
赤石の口から小さな声が漏れる。
世界は救世主を手に入れた。
そのはずだった。
だが、まるでそれを確認したかのように。
ウイルスは――
初めて牙を剥いた。




