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第二十三話「命の値段」

《一億円》


条件は――


新しい抗ウイルス剤を、優先的に一本。


藍染はそのメッセージを見つめていた。


「……」


一億円。


普通の人間なら一生かけても手にできないかもしれない金額。


それがたった一本の薬に提示されている。


藍染は何も言わず画面を閉じた。


そして机の上に置かれた薬瓶へ視線を移す。


透明な液体。


見た目だけなら何の変哲もない。


だが今、世界中の人間がその一本を求めていた。


――命を救う薬。


その価値を金に換算しようとしていた。


---


翌日。


新たに生成された抗ウイルス剤が最初の感染者へ投与された。


メキシコ。


世界中がその結果を見守った。


一時間。


二時間。


そして――


『速報です!』


テレビの画面に大きな文字が表示された。


《新抗ウイルス剤 効果を確認》


『メキシコで確認されていた感染者に改善が見られたとのことです!』


赤石が勢いよく顔を上げる。


「……マジか!」


映像には病院のベッドに横たわる感染者。


以前まで見られた異常な攻撃性は消えている。


意思疎通も徐々に戻り始めていた。


「やったじゃねぇか……」


赤石は思わず笑った。


疑っていたわけではない。


それでも。


実際に薬が効いた瞬間を見て胸の奥にあった緊張がほどけていく。


その後。


韓国。


フランス。


オーストラリア。


残る五人にも順番に新しい抗ウイルス剤が投与された。


結果は――


全員。


回復。


死者。


ゼロ。


六人全員が元の人間へ戻った。


---


世界は再び歓喜に包まれた。


『藍染がまた世界を救った!』


『二回目だぞ!?』


『もう偶然じゃない、本物の天才だ』


『この人がいる限り大丈夫』


『救世主って本当にいるんだな』


前回とは違った。


一度目は突然現れた天才研究者。


二度目は――


世界が認めた救世主。


藍染燈也。


その名前そのものが人々に安心を与えるようになっていた。


各国政府から正式な表彰の話まで持ち上がった。


大学。


研究機関。


製薬会社。


世界中から共同研究の依頼が届く。


巨額の研究費。


専用施設。


人材。


必要なものはすべて用意する。


そう申し出る組織まで現れた。


だが。


藍染はそのほとんどを断った。


『必要になったらお願いします』


それだけだった。


金にも。


名誉にも。


興味がない。


少なくとも――


世界にはそう見えていた。


---


だが。


別の場所では。


まったく違う動きが急速に広がり始めていた。


ある国の高層ビル最上階。


一人の男が電話をしていた。


「二億出す」


電話の向こうから何かを言われる。


「足りない?」


男は眉をひそめる。


「なら五億だ」


机の上には藍染が生成した抗ウイルス剤の記事。


男は続けた。


「治療用じゃない」


「私と家族の分だ」


「次に感染が広がった時のために確保しておきたい」


電話を切る。


別の国。


豪邸。


「十億でも構わない」


一人の女性が言った。


「一本でいい」


「必ず手に入れて」


さらに別の国。


「金額はいくらでもいい」


「次があるかもしれないんだ」


「その時に薬が足りなかったらどうする」


「金ならある」


「だったら買えるうちに買っておけ」


感染者はもういない。


それでも。


薬を欲しがる人間が増えていた。


治すためではない。


自分だけは。


自分の家族だけは。


何が起きても助かるために。


---


藍染のもとへ届く金額は日に日に大きくなっていった。


一億。


三億。


十億。


二十億。


そして。


《五十億円》


抗ウイルス剤。


一本。


「……」


藍染はその数字を見つめる。


五十億円。


ほんの数ミリリットルの液体に。


一人の人間が五十億円を払うと言っている。


藍染はしばらく画面を見つめていた。


そして。


返信欄を開く。


短い文章を入力した。


『お断りします』


送信。


それだけだった。


---


その事実はどこからかメディアへ漏れた。


《藍染燈也氏 50億円の申し出を拒否》


世界中で再び藍染への称賛が巻き起こる。


『50億断ったの!?』


『本当に金に興味ないんだな』


『普通無受け取るだろ』


『この人マジで信用できる』


『金持ちだけ助けるつもりがないって本当だったんだ』


以前。


藍染が言った言葉が、


再び取り上げられた。


『お金を持っている人が優先される』


『権力を持っている人が優先される』


『そんな薬にはしたくなかった』


そして。


『全員、同じ命ですから』


その映像が何度も流れ世界は藍染を信じた。


いや。


もはや――


信じるという段階すら越え始めていた。


---


赤石もそのニュースを見ていた。


「五十億……」


思わず笑う。


「お前、五十億断ったのかよ」


高校時代。


金がなくて。


入学してすぐバイトを始めた男。


大学へ行く金にも苦労していた。


金がないことで何度も人生の選択肢を奪われた。


そんな藍染が。


今。


五十億円をたった一言で断った。


「……変わったな」


赤石は少し嬉しそうに笑った。


だが。


すぐにその表情が止まる。


「……いや」


違う。


変わったのか?


藍染は昔から金そのものが欲しいと言っていたわけではない。


金がなければ何も選べない。


それを嫌っていた。


赤石は高校時代の藍染の言葉を思い出していた。


――結局、この世界は金だ。


「……」


その言葉と。


今、五十億を断った藍染。


どうにも。


噛み合わない気がした。


「考えすぎか」


赤石はテレビへ視線を戻した。


画面の中では藍染が記者に囲まれていた。


『なぜ50億円もの申し出を断ったのでしょうか?』


藍染は少し困ったように笑った。


『逆に聞きたいんですけど』


『一本50億円で売ったら、普通の人はどうするんですか?』


記者が黙る。


『払えないですよね』


『だったら、売れません』


『でも今後の研究には莫大な資金が必要なのでは?』


『必要でしょうね』


『では――』


藍染は記者の言葉を遮るように笑った。


『金なんて』


一瞬。


赤石の目が止まった。


藍染は続ける。


『必要な分だけあればいいですよ』


「……」


赤石は黙って画面を見つめた。


なぜだろう、今の言葉だけ。


妙に引っかかった。


---


それから数日。


新たな感染者は現れなかった。


世界は再び、日常へ戻り始めていた。


だが、一度目とは違う。


人々はもう「終わった」とは思っていなかった。


三度目があるかもしれない。


その恐怖だけは消えなかった。


だからこそ、抗ウイルス剤の価値は下がらない。


むしろ上がり続けた。


欲しい。


持っておきたい。


自分だけでも。


家族だけでも。


もしもの時のために。


金を持つ者ほどその欲望は強くなっていった。


百億。


そんな金額すら噂として流れ始める。


それでも、藍染は売らなかった。


世界は称賛した。


――金では動かない男。


――命に値段をつけない救世主。


そして。


誰も気付いていなかった。


藍染燈也が――


金を受け取らなかったことと。


金に興味がないことは。


まったく別の話だということに。

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