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第十六話「最初の希望」

世界同時発生から、

さらに数日が経った。


感染者の増加は、

依然として止まったままだった。


各国では混乱の中、

少しずつ正確な情報が集まり始めていた。


それまで重複していた報告。


所在の確認。


感染者の特定。


各国政府や医療機関から集められた情報が、

ようやく一つにまとめられ始めていた。


そして――


世界中が、

ある数字を知ることになる。


朝。


赤石燈也は、

テレビから聞こえてきた声で目を覚ました。


昨夜もニュースをつけたまま、

ソファで眠ってしまったらしい。


『現在、世界各国から報告されている感染者数について、新たな集計が発表されました』


「……ん?」


赤石は、

眠そうな目で身体を起こした。


テレビを見る。


画面には、世界地図。


各国の感染状況が表示されている。


『これまで各国から重複した報告などもあり、正確な感染者数は把握できていませんでした』


『しかし各国政府、医療機関などが情報を共有した結果――』


赤石は、

テーブルに置かれた水を飲む。


『現在確認されている感染者は、世界全体でおよそ一万人とみられています』


「……一万人」


赤石の手が止まった。


一万人。


もちろん、

少ない人数ではない。


一万人もの人間が、

今も元の人間に戻れずにいる。


だが――


「あれだけ世界中で発生して……一万人?」


赤石はテレビへ目を向けた。


もっといると思っていた。


あの日。


日本だけではない。


アメリカ。


ヨーロッパ。


アジア。


南米。


世界中で同時多発的に感染者が確認された。


あれほどの混乱だった。


しかも、

感染者は人間へ襲いかかっていた。 


それなのに。


数日経っても―― 


およそ一万人。


『なお、現在も集計作業は続いており、今後人数が修正される可能性があります』


「……まだ確定じゃないのか」


赤石は呟いた。


およそ一万人。


その数字だけなら、特別な意味はない。 


だが。


やはり――


増えない。


赤石には、それだけが気になっていた。


世界では、

少しずつ別の変化も起き始めていた。


感染者の増加が止まったことで、

各国は感染者の隔離を進めていた。


一部の地域では、外出制限も段階的に見直され始めている。


もちろん、日常が戻ったわけではない。 


街には、以前のような人の姿はない。


学校。


会社。


飲食店。


商業施設。


多くが閉鎖されたまま。


だが。


少なくとも―― 


昨日より今日。


今日より明日。


感染者が増え続ける。


そんな最悪の状況だけは、避けられていた。 


SNSでも、

少しずつ言葉が変わり始めていた。 


『感染止まったんじゃない?』 


『このまま収束してほしい』


『隔離できれば終わるんじゃないの?』


『一万人以上増えないなら何とかなるかも』


希望。


そう呼ぶには、まだ早い。 


それでも、

絶望しかなかった数日前より、

世界はわずかに前を向き始めていた。 


しかし――


研究者たちにとって、状況は何も変わっていなかった。 


「またダメだ」


一人の研究者が、試験結果を机へ置く。


「既存の抗ウイルス薬は?」


「反応なし」


「別の経路から抑えられないのか?」 


「やってる。だが……」 


研究者が、顕微鏡を覗き込む。 


「こいつ……何なんだ」


ウイルスそのものの解析が進まない。


いや。


正確には、

調べれば調べるほど、

理解できない部分が増えていた。


「通常なら、ここまで細胞が損傷すれば活動を維持できない」 


「なのに動いている」


「それだけじゃない」


別の研究者が資料を置く。


「神経系への損傷が進んでいるにもかかわらず、運動機能の一部が異常なほど維持されている」


「そんなことが……」


「実際に起きてるんだ」


沈黙。


世界最高峰の研究者たちですら、答えを出せない。


感染者は増えない。


だが――


治せない。


それが、今の世界だった。 


赤石の会社でも、解析は続いていた。


オンライン会議。


モニターには疲れ切った顔が並んでいる。 


「感染拡大の予測は一旦必要なくなったな」 


上司が言った。


赤石は、少し考えて答える。


「……そうですかね」


「どういうことだ?」 


「止まった理由が分かってません」


「それはそうだが」


「だったら」


赤石は画面を見る。


「また突然始まる可能性もありますよね」


会議が静かになる。


「前もそうだった」


メキシコ。


韓国。


フランス。


オーストラリア。


そして、

一ヶ月の沈黙。


誰もが終わったと思い始めた頃―― 


世界同時大量発生。


「今回も同じかもしれない」


赤石は続ける。


「止まったんじゃなくて……」


一瞬、

言葉を選ぶ。


「次がまだ始まってないだけかもしれない」


「……」 


誰も否定できなかった。


それが、

一番恐ろしかった。


その日の午後。


赤石は、感染者のデータを眺めていた。 


世界全体。


約一万人。 


「……」


画面をスクロールする。


年齢。


性別。


国籍。


職業。 


発症地点。


共通点を探す。


だが、

見つからない。


富裕層。 


一般家庭。


学生。 


会社員。


老人。


若者。


国も違う。


生活も違う。 


「無作為……なのか?」 


それとも、

自分たちが気づいていないだけなのか。


赤石は、椅子にもたれた。


ふと、

スマートフォンを見る。


藍染からの返事は――


ない。


「……」


だが今回は、

手に取らなかった。 


昨日、

疑ったばかりだ。


これ以上、何でも藍染と結びつけるのはやめよう。 


今は、目の前のデータを見る。


「俺は俺でやるか」


赤石は、再びモニターへ向かった。 


数日後。


世界の状況に大きな変化はなかった。


感染者――


約一万人。


新たな感染者は、ほとんど確認されていない。


そして。


治療された感染者――


ゼロ。


世界中の研究機関が、あらゆる方法を試していた。 


だが、

一人も元に戻せない。 


時間だけが過ぎていく。


夜。


テレビでは、

感染者の家族へのインタビューが流れていた。


『戻ってきてほしいです……』


母親らしき女性が、涙を流している。 


『あの子はまだ生きてるんですよね?』


『だったら……お願いします』


『誰でもいいから……助けてください』


画面が切り替わる。


別の国。


感染した夫を持つ女性。


その次は息子が感染した父親。


世界中で同じ言葉が繰り返される。 


助けてほしい。


元に戻してほしい。


赤石は、黙ってテレビを見ていた。


一万人。


数字にすれば、それだけだ。


だが、

一人一人に家族がいる。


友人がいる。


生活があった。


「……誰か」


赤石が小さく呟く。


「なんとかできねぇのかよ」


翌朝。


世界は、

まだ何も変わっていなかった。


少なくとも――


そのはずだった。


赤石は、

いつものようにテレビをつける。


コーヒーを淹れる。


眠そうな目で、スマートフォンを見る。


『――ここで速報です』


「……?」


テレビを見る。


アナウンサーが、手元の原稿を確認している。


明らかに予定されていたニュースではない。


『現在、詳細を確認していますが――』


赤石が、コーヒーを置く。


『ゾンビウイルスに感染していた人物が――』


一瞬。


アナウンサー自身が信じられないような表情を見せる。


『元の人間の状態へ戻ったとの情報が入ってきました』


「…………は?」


赤石が、

テレビの前で固まった。


画面には、


大きく速報。


《ゾンビウイルス感染者 回復か》


『繰り返します』


『ゾンビウイルスに感染していた人物が、何らかの治療によって正常な状態へ戻ったとの情報です』


「何らかの……治療?」


赤石が立ち上がる。


世界中の研究者が、

一人も治せなかった。


それが――


突然。


「どこだ?」


赤石はテレビへ近づく。


「どこの研究所だ?」


『現在、その人物の身元や治療方法について詳しい情報は公表されていません』


「なんだよそれ!」


『また――』


アナウンサーの声が、

少し上ずる。


『今回の治療について、各国の主要研究機関とは異なる場所で行われた可能性があるとの情報も入っています』


赤石の表情が変わる。 


「……世界中の研究所じゃない?」


その直後。


スマートフォンに、

ニュースの通知が次々と届き始めた。


《世界初か ゾンビウイルス感染者が回復》


《未知の治療法が存在する可能性》


《感染者を救った人物は誰なのか》


SNSも、

一瞬でその話題に埋め尽くされる。


『治った!?』


『嘘だろ!?』


『薬できたの?』


『誰が作ったんだよ!』


『早く公表してくれ!』 


赤石は、

テレビから目を離せなかった。


世界中の研究者が、答えを出せなかった。


一週間どころではない。


誰も、

治療の糸口すら掴めなかった。


なのに――


たった一人。


何者かが、

その壁を越えた。


「……誰だよ」


赤石が呟く。


画面には、まだ名前が出ない。


顔も出ない。


所属も分からない。


分かっているのは、

たった一つ。


ゾンビになった人間を、元に戻した者がいる。


絶望の中に、

初めて生まれた希望。


その人物の正体を――


この時、

世界中の誰もが知りたがっていた。

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