第十五話「疑念」
あれからも、
感染者の数に大きな変化はなかった。
増えない。
だが、
消えもしない。
世界はまるで、
何者かに「待て」と命じられたように止まっていた。
赤石燈也は自宅のモニターを前に、
これまでの感染記録をもう一度並べていた。
メキシコ――一人。
韓国――一人。
フランス――二人。
オーストラリア――二人。
一ヶ月――ゼロ。
世界同時大量発生。
そして――
停止。
「……」
何度見ても、おかしい。
赤石の中で、
これまで何度も浮かんでは打ち消してきた考えが、
今度こそ消えなくなっていた。
――これは、本当に自然に発生したものなのか?
赤石は椅子にもたれ、
天井を見上げた。
もし。
仮に。
これが人為的なものだとしたら?
最初の少人数は――
実験。
その後の一ヶ月は――
観察。
そして世界同時発生は――
本番。
「……」
赤石は自分で考えておきながら、
背筋に冷たいものを感じた。
「いや……」
あり得ない。
そんなことが出来る人間が、
本当に存在するのか。
世界中の離れた場所で、
感染者を発生させる。
しかも、
まるで人数まで決められているかのように。
そして、
大量発生させた直後――
感染を止める。
「もし本当に誰かがやってるなら……」
赤石は画面を見つめた。
「何のために?」
世界を混乱させて、何になる。
金か。
権力か。
復讐か。
思想か。
それとも――
赤石には想像もできない、別の目的なのか。
「……」
だが、
目的以前に大きな問題がある。
誰が、こんなものを作れる?
赤石は世界中から公開されている研究資料を開いた。
専門外の内容も多い。
それでも、
医療AIやウイルス感染予測に携わってきた赤石なら、
ある程度は理解できる。
ウイルスによる細胞損傷。
遺伝子発現。
神経系への影響。
組織の死滅。
「……死滅」
赤石の指が止まった。
何かが、
頭の片隅に引っかかった。
「……」
検索画面を閉じる。
別のフォルダを開いた。
そこには、
一つの論文が保存されていた。
大学時代。
突然姿を消した親友を探していた頃に、
ネット上で発表されたもの。
著者――
藍染燈也。
タイトル。
『人間細胞における抗死滅性遺伝子の活性化』
「……」
赤石の表情から、
少しずつ笑みが消えていく。
論文を開く。
何年も前に読んだもの。
当時の赤石には、
藍染がとんでもない研究をしている。
それくらいの認識しかなかった。
だが今は――
違って見える。
細胞。
遺伝子。
死滅。
そして、
その死滅に抗うための研究。
赤石は、
もう一つの論文を開いた。
藍染が消息を絶った後に発表したもの。
『再構築された命への序章』
「……再構築された、命」
赤石は呟いた。
そしてテレビを見る。
画面には、
ゾンビウイルスに感染した人間の映像。
人間でありながら、
人間ではない。
身体は活動している。
だが、
正常な人間としての意識は失われている。
「……」
偶然。
そう思おうとした。
だが。
一度繋がり始めた点は、
次々と別の記憶を呼び起こしていった。
高校時代。
いつもの帰り道。
『俺は薬学部に行こうと思う』
赤石が驚いて聞いた。
『薬学部?なんで?』
藍染は、
いつもの気さくな顔ではなかった。
ほんの一瞬。
何かを隠すような、
暗い表情をしていた。
『ちょっとやりたいことがあってな』
あの時は、
深く聞かなかった。
藍染なら、
何か考えているんだろう。
それくらいだった。
だが――
大学へ入って半年。
藍染は消えた。
家にも帰らなくなった。
LINEにも返事がない。
大学へ行けば、
存在したはずの学籍記録まで消えていた。
教授ですら、
藍染燈也という学生を覚えていなかった。
それなのに。
研究室には、
藍染の筆跡と分かるノートと薬瓶。
そして数日後、
本人名義の論文が発表された。
「……」
赤石は、
画面に表示された名前を見つめる。
藍染燈也。
さらに。
その後も、
藍染は姿を現さなかった。
何年もの間。
どこで。
何をしていた?
「藍……」
赤石は、
スマートフォンを手に取った。
藍染とのトーク画面を開く。
これまで送ったメッセージ。
そのほとんどが、
未読のまま残っている。
赤石は文字を打った。
『藍』
送信。
続ける。
『お前、今どこにいる?』
送信。
そして、
もう一通。
『今回のウイルスのこと、知ってるよな?』
指が止まる。
「……」
送信。
さらに文字を打つ。
『お前なら、このウイルスについて何か分かるんじゃないか?』
そこまで書いて、赤石は画面を見つめた。
そして――
もう一つ。
頭の中には、
別の文章が浮かんでいた。
『このウイルス、お前が作ったのか?』
「……」
指が動かない。
送れなかった。
赤石は、
入力した文字をすべて消した。
スマートフォンを机に置く。
「何考えてんだ……俺」
赤石は両手で顔を覆った。
確かに、
繋がる部分はある。
藍染が研究していた分野。
突然の失踪。
人間の細胞。
遺伝子。
死滅。
再構築。
そして、
世界中の研究者ですら理解できないウイルス。
だが――
それだけだ。
証拠など、一つもない。
何より。
赤石は、
藍染燈也という人間を知っている。
幼い頃から、
ずっと一緒だった。
藍染が両親を失ったことも。
祖父母の家で育ったことも。
金がなく、
高校へ通いながら働いていたことも。
それでも、
学校ではいつも笑っていたことも。
何でも出来るくせに、
自分のことになると妙に冷めていたことも。
全部知っている。
そして――
あの帰り道。
藍染が笑いながら言った。
『赤、俺はお前も平気で裏切るぞ(笑)』
赤石も、
笑って答えた。
『あぁ、構わねぇよ』
『俺はお前を信じてるから』
『俺はお前に裏切られても恨みもしねぇし、嫌いにもならねぇよ』
『信じるってそういうことだろ』
『真の友って俺はそういうことだと思ってる』
「……」
赤石は、
目を閉じた。
あの時。
自分で言った言葉だ。
「俺が疑ってどうすんだよ……」
小さく笑う。
「悪ぃ、藍」
もちろん、
藍染が何をしているのかは分からない。
あいつは昔から、
自分のことをほとんど話さない。
何年も連絡を絶った理由だって、
未だに分からない。
でも――
だからといって、
世界をこんな状態にした犯人だと考えるのは違う。
「……」
赤石は、
藍染の論文を閉じた。
その日の夜。
テレビでは、
世界各国の研究機関の様子が報じられていた。
『現在も未知のウイルスに対する解析が続けられています』
画面には、
疲れ切った研究者たち。
『各国がデータを共有し、治療法の確立を急いでいますが――』
アナウンサーが、一瞬言葉を詰まらせる。
『現時点では、有効な治療法は見つかっていません』
画面が切り替わる。
海外の研究者。
『このウイルスは、これまで我々が研究してきたものとは根本的に異なる可能性があります』
別の研究者。
『正直に申し上げれば、まず何が起きているのかを理解するところから始めなければなりません』
赤石は、
黙って聞いていた。
世界中の研究者が、
答えを出せない。
「……」
ふと、
また藍染の顔が浮かんだ。
「藍なら……」
赤石は呟く。
すぐに、苦笑した。
「いやいや」
「世界中の研究者が分かんねぇんだぞ」
いくら藍染が天才でも。
さすがに――
「お前一人でどうにかできる話じゃねぇよな」
さらに数日が経った。
状況は、
ほとんど変わらなかった。
感染者は増えない。
治療法も見つからない。
人々は、
少しずつ疲弊していった。
恐怖だけではない。
いつ終わるのか分からない。
それが、
世界から希望を奪い始めていた。
SNSには、
悲痛な言葉が溢れていた。
『誰か助けて』
『家族が感染した』
『治療薬はまだなの?』
『世界中の研究者がいて誰も作れないのか』
『このままずっと外に出られないの?』
『もう元の生活には戻れないのか』
誰も、答えを持っていない。
世界は、ただ待つしかなかった。
夜。
赤石はベッドに横になった。
スマートフォンを見る。
藍染へ送った三通。
未読。
「……」
赤石は小さく笑った。
「お前、本当に変わんねぇな」
スマートフォンを伏せる。
目を閉じる。
その時。
高校の卒業式の日を、
ふと思い出した。
『これからはしばらく別々だ』
『お互いレベルアップして、また一緒にな!』
赤石は、
暗い部屋で小さく呟いた。
「俺は準備できてんぞ、藍」
「……お前は今、何してんだよ」
返事はない。
静かな夜。
世界中が、
同じように答えを待っていた。
ウイルスは止まったまま。
治療法はない。
希望も、
少しずつ失われていく。
だが――
この時、
赤石も。
世界中の誰も。
まだ知らなかった。
この長い沈黙が、
まもなく破られることを。




