第十話「最初の一人」
朝。
目覚ましが鳴るより、ほんの少し早く目が覚めた。
赤石燈也は布団の中で目を開け、しばらく天井を見つめる。
「……あと五分」
再び目を閉じる。
数秒後。
「いや、絶対寝るなこれ」
身体を起こした。
カーテンを開ける。
顔を洗う。
コーヒーを淹れる。
そしてテレビをつける。
いつもの朝。
いつものルーティン。
高校を卒業してから何年経っても、このあたりは変わらない。
テレビからは朝のニュースが流れていた。
天気。
経済。
スポーツ。
赤石はほとんど聞き流しながら、スマートフォンを眺めていた。
『再構築された命への序章』
数日前に発表された藍染の論文。
結局、あれから何度読み返しても、藍染が何をしようとしているのかまでは分からなかった。
「……再構築された命、ねぇ」
コーヒーを一口飲む。
「相変わらず意味分かんねぇことやってんな」
少し笑う。
その時だった。
テレビの音が変わった。
『――ここで、海外から入ってきたニュースです』
赤石はスマートフォンを見たまま聞いていた。
『メキシコで、人が突然周囲の人間に襲いかかる事件が発生しました』
「……?」
指が止まった。
『現地当局によりますと、男性一名が突然錯乱状態となり、周囲の人々に噛みつこうとするなど、極めて異常な行動を取ったということです』
赤石がテレビを見る。
現地で撮影されたと思われる映像。
大勢の警察官。
救急車。
規制線。
そして遠くに見える、一人の人間。
複数人に押さえつけられている。
それでも身体を激しく動かし、
何かに食らいつこうとしていた。
「薬物……?」
赤石が呟く。
だが、
ニュースは続いた。
『また男性には通常では考えにくい身体的変化も確認されており――』
画面が切り替わる。
専門家が映る。
『現段階では断定できません。ただ、既知の感染症や薬物による症状とは一致しない部分があるとの情報もあります』
「感染症?」
赤石の表情が少し変わった。
仕事柄、その言葉には反応する。
テレビの音量を上げた。
『現地では現在、男性を隔離し、詳しい検査が行われています』
そのまま別のニュースへ移ろうとする。
「……それだけ?」
赤石は時計を見る。
そろそろ仕事へ向かわなければならない。
テレビを消そうとリモコンへ手を伸ばした。
その瞬間――
『続報です』
手が止まる。
『先ほどお伝えしたメキシコの事件について、新たな情報が入りました』
画面には大きな文字。
《未知のウイルスか》
「……ウイルス?」
『男性から、これまで確認されていないウイルスが検出されたとの情報が入りました』
赤石の目が細くなる。
『詳しい性質については現在調査中ですが、現地の一部メディアでは、その異常な症状から――』
アナウンサーが一瞬、言葉を詰まらせる。
『“ゾンビウイルス”ではないかとの表現も使われ始めています』
「……は?」
赤石は思わず笑った。
「ゾンビ?」
テレビでは先ほどの映像が繰り返される。
人間とは思えないほど暴れる男。
周囲へ噛みつこうとする動き。
「いやいや……」
映画じゃあるまいし。
そう思った。
だが赤石は笑うのをやめた。
感染症の予測に携わっているからこそ、未知の感染症を最初から笑い飛ばすこともできない。
テレビへ視線を戻す。
『なお、現在確認されている感染者は――』
赤石は無意識に身を乗り出した。
『一名のみです』
「……一人?」
赤石が眉をひそめる。
世界初。
未知のウイルス。
人を襲う。
ゾンビのような症状。
そこまで異常な話なのに――
感染者は一人だけ。
「どういうことだ……」
会社へ着くと、
やはり話題はそれだった。
「赤石、ニュース見た?」
「あぁ」
「ゾンビだってよ!」
同僚が笑う。
「映画じゃん」
「まだゾンビって決まったわけじゃないだろ」
「でも噛みつこうとしてたぞ?」
「狂犬病とか?」
「新種の薬物じゃね?」
様々な憶測が飛び交っていた。
ほとんどの人間が、
珍しい海外ニュース程度に捉えている。
だが赤石は、
自分の席へ着くとすぐに情報を調べ始めた。
発症地域。
発症時刻。
患者の状態。
周囲との接触。
感染経路。
分かることは、ほとんどない。
「……情報少なすぎるな」
赤石は自社の感染予測モデルを開く。
もちろん、未知のウイルスについて正確な予測などできるはずがない。
それでも仮の条件を入れてみる。
接触感染。
飛沫感染。
体液。
潜伏期間。
感染力。
いくつかのパターンを試す。
当然、結果はバラバラだった。
「そりゃそうだよな」
何も分からない。
ただ一つ。
赤石には気になることがあった。
なぜ、一人なのか。
未知の感染症が自然界から突然現れたのなら、
どこから感染した?
他に感染者はいないのか?
その男だけが感染した理由は?
そして――
人へ感染するものなのか?
「一人じゃ何も分かんねぇな……」
赤石は画面を閉じた。
「まぁ、そのうち情報出るだろ」
この時は、
まだそれくらいだった。
翌朝。
赤石は目を覚ますと、
真っ先にテレビをつけた。
自分でも少し気になっていたらしい。
『昨日メキシコで確認された、いわゆる“ゾンビウイルス”について――』
「お」
コーヒーを持ったままテレビの前に立つ。
『現在も調査が続けられていますが、新たな感染者は確認されていません』
「……増えてない?」
一日経った。
それでも一人。
翌日。
『新たな感染者は確認されていません』
二日。
一人。
さらに翌日。
変わらない。
感染者――
一名。
そして三日後。
最初の騒ぎが嘘だったかのように、
ニュースで扱われる時間も急激に減っていった。
SNSでも、
「結局なんだったんだ?」
「薬物だったんじゃない?」
「ゾンビウイルスとか大袈裟すぎ」
そんな言葉が増えていく。
世界は、
いつもの日常へ戻ろうとしていた。
赤石も仕事をしながら考える。
「一人だけ……」
「感染力がほとんどないのか?」
それなら、
世界的な脅威にはならない。
偶発的な変異。
極めて特殊な条件でのみ発症するウイルス。
可能性はいくらでも考えられる。
「……まぁ、何も起きないならそれが一番か」
赤石はそう結論づけた。
モニターを閉じる。
その日の夜。
メキシコのニュースは、
ほとんど報じられなくなっていた。
世界中の人間が、
奇妙な事件だったと忘れ始めていた。
その頃。
場所の分からない、
薄暗い部屋。
モニターには、
メキシコのニュースが映っていた。
《新たな感染者なし》
一人の男が、
椅子に座ってそれを見ている。
顔は見えない。
指先が机を、一定の間隔で叩いている。
トン。
トン。
トン。
やがてニュースが終わる。
男の指が止まった。
静寂。
そして――
口元だけが、
ゆっくりと笑った。
「……」
何も言わない。
机の上には、
一枚の世界地図。
メキシコのある場所に、小さな印がついていた。
その少し離れた場所。
別の国にも――
すでに、
次の印がつけられていた。




