第七章:三十五歳の負け犬による独白
1
俺の名は神崎宗一郎、今年三十五歳。
この年齢なら、順調に行けば成功したIT企業を経営し、世田谷に豪邸を構え、美しい妻を娶り、誰もが羨む勝ち組と呼ばれる退屈な人生を送っているはずだ。
だが今の俺は、千代田区にある自社ビルの休憩室に座り、天井の亀裂をぼんやり眺めていた。時刻は午前四時。
家にも帰らず、あのアパートへも向かわなかった。行き場も分からないし、十七歳も年下の少年とどう向き合えばいいのかも見当がつかない。
2
昨夜、レストランから悠真を連れ出した時、俺は自分が勝ったと思っていた。
ハンドルを強く握り込み、指の関節が白くなる音さえ聞こえる気がした。車がレインボーブリッジを渡り、窓の外の東京湾は漆黒に染まっていた。
「家に帰るのか?」
車を走らせてしばらく経ってから、掠れた声で問いかけた。
「……うん」
彼の返事は微かで、ため息のように儚かった。
その瞬間、今まで味わったことのない虚無感に襲われた。
車を埼玉の古びたアパートの前に停め、扉を開けると冷たい空気が押し寄せる。詩織のような息苦しい香水の香りもなければ、思い描いていた家庭の温もりも一切ない。
彼は黙って部屋に入り、そのまま布団に身を投げ倒した。
金のためなら時間さえ売ってしまうこの少年を見ていると、胸の奥から抑えきれない庇護欲が湧き上がる。それは単なる同情ではなく、自身の無能さを重ね合わせてしまう感情だった。
3
スマートフォンの画面が点灯し、詩織からのLINEが届いていた。
たった一言だけ。
「畜生道は地獄に落ちるわよ、宗一郎」
直後、電話の着信音が鳴り響く。
悠真に聞かれたくなく、玄関の廊下へ出て通話に出た。
「もしもし」
俺の声は冷めきっていた。
「疲れ切った声ね、宗一郎。彼を自分の巣へ連れ帰ったの?」
電話越しの詩織は、子供を寝かしつけるような優しい口調で話しかけてくる。
「詩織、もう彼につきまとうな。今は俺と一緒にいる」
俺は鼻筋を押さえ、重い口調で言った。
「あなたと一緒に?」
彼女の軽い笑い声が、細い針のように耳に刺さる。
「あなたは彼に何を与えられるの?わずかな給料を渡して、雨漏りのする古い部屋で貧しい暮らしをさせるつもり?」
「少なくとも俺は自由を与えられる」
俺は低く唸るように言い返した。
「自由?」
詩織の声色が一気に冷め切る。
「宗一郎、目を覚ましなさい。あの子はあなたが与えるような自由には似合わない。大切に扱われ、甘やかされ、見守られる存在なの。それなのにあなたは、自分の生活すらままならない身じゃない」
「一体何が目的だ」
手すりを強く握りしめ、指の関節が白くなる。
「別に何もないわ」
詩織は絶望的なほど穏やかな口調に戻った。
「ただ教えてあげているだけ。人だけ連れ去ったところで、勝負に勝ったつもりになるなんて甘いわ」
「証明してみせる。俺がしっかり守ってみせる」
歯を食いしばって言い切る。
「そう、なら待っていてあげるわ」
通話が切れる寸前、軽く漂うような言葉が落とされた。
「夜明けが来たら、彼がどちらの籠に残りたいか、見極めましょう」
4
電話を切り、部屋に戻る。
悠真はソファの上で眠り込んでおり、高級スーツを着たまま身を丸めていた。
毛布をかけてやろうと手を伸ばしたが、途中で動きを止めた。
眠る彼の顔を眺める。
あまりに若く、穢れのない表情の裏に、絶望が滲んでいる。
俺は突然悟った。
詩織の手元から彼を奪い返したのは、彼を救うためじゃない。コードと冷たい空気だけが漂う空っぽな豪邸、そして自身の心の空白を埋めるためだったのだ。
俺は三十五歳の負け犬だ。
金で青春を買い取ったところで、一分たりとも安らぎは手に入らない。
暗闇の中に座り込み、彼の穏やかな寝息を聞き続ける。
窓の外では遠く東京タワーの灯りが瞬いている。
詩織の言葉は正しかった。
俺は彼に何も与えられない。
明日の朝、彼が目を覚ました時、詩織の元へ行くのか、それとも俺の元に残るのか……はたまたどんな選択をするのか。
彼が着ているスーツはあまりにも眩しすぎて、引き裂きたくなるほどだ。
もう一度眠る姿を眺めた後、俺は寂しさを抱えてその場を離れた。




