第六章:三十歳の女王が無理矢理俺の貧乏な暮らしを乗っ取ってくる件
1
朝、暑さに目を覚ました。
窓外の蝉の鳴き声が耳に刺さり鬱陶しいのに、部屋の古いエアコン室外機はひっそりと音を立てない——とうに壊れて久しい。六月のこの朝、布団を被らなければ身の震えが収まらなかった。
天井の染みをぼんやり見つめる。
頭の中に昨夜の光景が否応なしに蘇ってくる。
車がレインボーブリッジを渡る際、窓から眺める東京湾は墨のように真っ暗だった。
神崎宗一郎はハンドルを強く握り、指の関節を白くし、終始言葉を発さなかった。古びたアパートの階下に車を停めて、やっと乾いた声で「着いた」と告げた。
きっと「家」という言葉を飲み込んだのだろう。
俺も言葉を返さず、黙って階段を上り、古びた玄関の扉を開けた。
部屋に入るなり布団に身を沈め、頭はぼんやりとして何も考えられない。今日の出来事はあまりにも現実離れしていた。
朦朧とした意識の中、宗一郎がそっと俺に布団をかけてくれた姿が浮かんだ……
2
トントントン、朝の静けさを砕くノック音が響き渡る。
「開けなさい、悠真。お姉さん、美味しいパンを持ってきたわ」
玄関から響く声は、まるで呪縛のようだ。
俺は必死に口を押さえ、息を殺した。この古いアパートは防音がひどく、隣の住人が寝返りを打つ音さえ丸聞こえない。
「起きているのは知っているわ」
詩織の柔らかな声は、どこか冷たく不気味に響く。
「それとも、錠前屋を呼んで来させましょうか」
俺の体がぶるりと震えた。それだけは絶対に嫌だ。ガタつく鉄の扉は強引に開けられたら壊れかねないし、そうなれば階の住人全員に、気品ある名家の女性がわざわざ自分を探しに来た事が知れ渡ってしまう。
「……今、開ける」
掠れた自分の声が耳に届いた。
3
震える手で防犯チェーンを外し、錠を回す。
扉を細く開けると、六月の蒸し暑い風が流れ込み、肌にべっとりと纏わりつく。だが暖かさは一切感じず、冷たい寒気が背骨を這い上がってくる。
神崎詩織が玄関に立ち、上品な紙袋を手に持っている。彼女はゆっくり俯き俺を見下ろし、乱れた髪と、しわになった高級スーツを順に眺めた。
「やはり冷えているわね」
そっと嘆くと、招かれずともそのまま扉を押し開け、部屋へ足を踏み入れた。
瞬く間に彼女の凛とした香水の香りが、十平方メートルにも満たない狭い部屋を埋め尽くした。
4
彼女が歩くたび、ヒールの音が古い床に響き、胸がざわつく。
「ここが君の住まいなの?」
部屋中を見渡す彼女の口調に侮蔑はなく、ただ標本を観察するような淡い好奇心が宿っていた。
紙袋をぐらつく低い卓に置くと、しゃがみ込み、バゲット、バター、そして小さなキャビアの容器を取り出した。
「座りなさい」
振り返って穏やかに微笑む。
俺はその場に固まって動けなかった。この部屋にはベッドと布団しか、座れる場所などない。
「どうしたの?」
詩織は首を傾げ、バターを塗ったパンを俺の目の前に差し出す。
「来る途中周辺を見て回ったけど、まともな朝食店なんてなかったわ。空腹のままでは体に悪いわよ、悠真」
5
俺は目の前のパンを見つめ、再び彼女の姿を見上げた。
窓の外は真夏だというのに、彼女の纏う雰囲気のせいで、俺はまるで極寒の場所にいるようだった。
「神崎夫人」
やっと勇気を振り絞り、枯れた声で問いかける。
「一体何をしたいのです。昨日私は神崎宗一郎様を選んだのに、どうしてここへ来るのですか」
詩織の手の動きが一瞬止まった。
顔を上げた瞳に怒りはなく、ただ哀れむような嘲りだけが浮かんでいる。
「選択を間違えたからよ、私の悠真」
当たり前のように告げる。
「神崎宗一郎という愚か者に、君に与えられるものなど何もない。金を渡して、この蒸し暑い部屋で苦しませ続けるだけじゃない」
彼女は立ち上がり、一歩俺に迫る。
「佐藤悠真、高級な服を着て、今まで一生味わえなかったステーキを食べ、本当の豊かな生き方を知ったくせに、そのすべてを捨て、みじめな殻に閉じこもろうとするの?」
彼女の指先がそっと俺の胸元に触れ、スーツ越しに重い圧力が伝わってくる。
「認めない。私の大切なコレクションが、一時の迷いでこれほどみすぼらしくなるなんて許さないわ」
6
「食べなさい」
パンをもう一段差し出し、拒絶を許さない強い口調だ。
彼女の瞳には一切の温もりがなく、全てを支配する自信だけが宿っている。
俺はゆっくり手を伸ばし、パンを受け取った。
口に含むとまだ温かく、バターが舌の上で溶け広がる。貧しい生活では到底味わえない甘さだ。
「いい子だわ」
詩織は満足げに笑みを浮かべ、まるで餌を食べ始めた捨て子猫をあやすような様子だ。
優雅に俺のベッドの縁に腰を下ろし、隣の場所を軽く叩く。
「こちらへ来なさい。いつまでこんな場所にいるつもりか、話し合いましょう」
俺は動かず、ただ手に持つパンを俯いて見つめていた。
「何を怯えているの?」
詩織は柔らかく笑い、体を後ろに預け、俺の心まで見通したような眼差しを向ける。
「神崎宗一郎を困らせようとしていると思っているの?安心しなさい、あの人には手を出さないわ。ただ、彼には到底与えられないものを、私が全て与えられると知らしめるだけ」
「彼は自由をくれました」
声は細くても、全身の力を込めて小声で反論した。
「自由?」
まるで滑稽な話を聞いたかのように笑い、身を乗り出して美しい瞳で俺をじっと見据える。
「こんな暮らしを自由だなんて言うの?」
両手を広げ、暗く湿った狭い部屋を指し示す。
「クーラーもない古い部屋に住み、来月の家賃のためにコンビニで仕事をする日々、それはただ生き延びているだけで自由ではない。本当の自由とは、他人の目を気にせず、欲しいものは何でも手に入れ、行きたい場所へどこへでも行けることよ」
彼女は口調を柔らかく落とすが、その言葉は一層身の毛のよだつ響きを持つ。
「悠真、私の側に来なさい。そんな本物の自由を与えてあげる。アルバイトに追われる必要も、光熱費を計算する必要もない。ただ私の目の届く場所にいてくれればいいの」
「それでは私は何なのですか」
顔を上げ、目元を赤く潤ませて問う。
「貴女の遊び道具なのでしょうか」
「遊び道具ではない、コレクションよ」
断固とした口調で訂正する。
「この世にたった一つだけの大切なコレクション。遊び道具は飽きれば捨てられるが、コレクションは大切に守られ、慈しまれ、遺言にまで名前を残される存在なの」
彼女は立ち上がり俺の目の前に来て、そっと俺の顎を持ち上げ、自分の瞳を直視させる。
「選びなさい。この場所で朽ちていくか、それとも私と共に、本当の陽の差す世界へ行くか」
彼女の瞳に映るのは、高級スーツを着ながらも狼狽に満ちた少年の姿だ。
パンの甘い余韻が舌に残る中、俺の心に築いた心の壁は少しずつ崩れ落ちていく。
「私は……」
唇を動かしても、まともな言葉が出てこない。
「急ぐ必要はないわ」
顎から手を離し、窓の外の曇った空を眺める。
「ゆっくり考える時間はたっぷりある。だけどその前に……」
振り返り、優しくも底知れぬ微笑みを浮かべる。
「いい子だから、朝ごはんを食べ終わりなさい。冷めれば胃に悪いし、大切なコレクションが体を壊したら、私も心配だもの」
よろしければ、皆様の貴重なご意見をお聞かせください。よろしくお願いします。内容を若干追加しました。




