第二十六章:あの女が病院でリンゴを皮むきする話
1
翌朝。
目を覚ました時にはカーテンはすでに開けられていた。
陽光が窓から流れ込み、部屋中がまぶしいほど明るい。エアコンが低くブーンと音を立てて稼働している。右手のギプスが柔らかい枕に乗せられ、掌の内側は少し蒸れていた。左腕を少し上げ、ナイトテーブルの目覚まし時計を確かめる。8時20分。
ドアは開いたままだ。
詩織が窓際に立っている。
服装を着替えていた。薄いグレーのスラックスに白いニットセーター。髪は相変わらず束ねられている。足元には黒のトートバッグが置かれ、ファスナーは少し開いて、書類の白い端がはみ出していた。
「目が覚めた?」
彼女は振り返らず、窓枠に何かを置く。水の入ったグラスだ。
「うん」
「顔洗って歯を磨きなさい。おかゆは買ってきてある」
彼女は振り向き、ナイトテーブルまで歩いてくる。白い保温バッグがそこに置かれており、病院向かいの定食屋のロゴがプリントされていた。
「一人でできる?」
彼女は俺の右手をちらりと見る。
「できる」
「やってみなさい」
ベッドから降り、スリッパを床に擦りながら歩き、洗面室へ入る。
鏡に映る自分の髪は寝癖で立ち上がり、目は少し腫れている。右手のギプスは手のひらから前腕中央まで真っ白に覆われていた。それを眺めてから、洗面台の歯ブラシに視線を移す。
左手で歯磨き粉を出す。一回目は狙いが外れ、柄に歯磨き粉がついてしまう。それを擦り落とし、改めて適量を出して口にくわえ、磨き始める。
なんとかなる。ただ時間がかかるだけだ。左手に力が入りにくく、奥歯を磨く時は手首をひねると痛む。歯ブラシを口の中で何度か回すが、舌の裏側まで届かず、角度を変えて適当に擦るだけにする。
口をゆすぎ泡を吐き出す。蛇口をひねり、左手で水をすくう。
指の隙間から半分がこぼれる。残った水を顔にかける。拭かずにもう一度水をすくうが、また半分がこぼれ、洗面台の上は水浸しになる。
背後から足音が聞こえる。詩織がノックもなしに洗面室に入ってくる。俺を一瞥すると、タオルを手に取る。
「頭を下げて」
言われた通りに頭を下げる。タオルが顔全体を覆い、彼女はタオル越しに頬と顎を拭う。力加減は強すぎず弱すぎず、額から下へ、鼻梁の両脇をなぞり、最後に顎で一拍止める。
タオルを取り上げて折りたたみ、フックにかけ直す。
「終わった」
彼女はそのまま部屋へ戻っていく。
俺はその場に立ち尽くし、顔はまだ湿っている。左手で目尻を拭うと、鏡の自分の顔は少し赤くなっていた。
2
洗面室から出ると、おかゆはすでに器に注がれていた。詩織はソファに腰を下ろし、隣にバッグを置き、足を組んでいる。俺の顔を見て、水滴が残っていないか確かめているようだ。
「手を出しなさい」
左手を差し出す。
「水が残ってる」
「拭いたよ」
「もう一度拭きなさい」
彼女は動こうとしない。俺はその場で服の裾で指を擦る。
「いいわ」彼女が言う。
彼女は前に座り直す。
「食べなさい」
おかゆは塩味で、卵の花と細切れの肉が入っている。左手でスプーンを持つが、今回はこぼさなかった。慣れたからなのか、それとも空腹が限界に達していたからなのか。詩織は俺を見ず、バッグからタブレットを取り出して資料を開き、指先で画面をスライドさせる。
部屋は静まり返り、スプーンが器の縁に当たる音と、彼女が画面を操作する微かな音だけが響く。
食べ進める途中、彼女が顔を上げる。
「リンゴの皮、むく?」
「いい」
彼女はナイトテーブルの引き出しから赤いリンゴを取り出す。いつからそこに置かれていたのか分からない。
続けてバッグから小さな果物ナイフを取り出す。銀色の刃に黒いプラスチックの柄で、長年使い込まれたのか縁が少し擦り減っている。刃を開くと、カチッとはまる音が鳴る。
彼女はソファに座ったまま、膝の上にリンゴを乗せる。
刃先が皮に突き刺さる。
彼女の指は長く、爪は短く切りそろえられマニキュアは塗られていない。刃をリンゴに沿わせて回すと、薄い皮が切れ離れ垂れ下がり、一度も切れることなく伸びていく。彼女はゆっくりと回転させ、掌の上でリンゴを回し続けると、皮は赤い紐のように輪になって垂れて長く伸びる。
陽光が窓から差し込み、彼女の手元を照らす。
刃は回り続け、彼女はリンゴを見ず、うつむいてまつげが目元に細い影を落としている。握り方に目を留める——頻繁に料理をする人の持ち方ではなく、親指を峰に押し当て残りの指を握り込むスタイルで、動作は緩やかだが安定している。昔少し経験がある程度の持ち方だ。
皮は最後の方でちぎれる。
彼女は一瞬動きを止め、ちぎれた皮切れを拾ってナイトテーブルに置く。それからリンゴを数切れにカットし、刃先で種を取り除き、果肉を皿に並べる。全部で五切れだ。皿を俺の前に押し出す。
「食べなさい」
「ありがとう」
左手で一切れ取り、かじる。シャキシャキとした食感で甘みが広がる。
彼女はナイフを収めてバッグにしまい、再びタブレットに視線を戻す。
リンゴを食べ終わる頃、彼女は立ち上がり皿を片付け、水で洗って戸棚にしまう。
看護師が回診に来て体温を測る。数値は正常。痛みはないか尋ねられ、俺は大丈夫だと答える。看護師は詩織と俺を交互に眺め、何も言わずに部屋を出ていく。
3
午後1時50分。
詩織はバッグから別のタブレットを取り出す。黒い本体に細いフレーム、カメラレンズ部分には小さな灰色のシールが貼られている。ナイトテーブルに立てかけ角度を調整し、カメラの画角がソファを捉えるようにする。
続けて白いワイヤレスイヤホンを取り出し耳に装着する。
ソファに座り直し背筋を伸ばし、指で画面を数回タップする。
「音声、届いてる?」
タブレットから男性の声が電子音を挟んで遠くから響いてくる。
「……聞こえています、神崎夫人」
「始めましょう」
詩織は画面を見ず、窓の外を眺め膝に手を置き、少し背もたれにもたれかかる。普段俺に話しかける時の強い指示性はなく、トーンが一段階低く抑えられ、事実を淡々と述べるように一語一語端麗に切り上げる。
タブレットから書類をめくる音がし、続いて三人の声が重なり合い、間合いや質問が交互に挟まる。詩織は時折返答を挟むが速度は速くなく、静かな病室の中では普段より低い声が響く。
俺は彼女を見ず窓の外を眺める。雲が流れ、風が向かいの屋上の物干し竿を揺らす。病室には彼女の声と機器のノイズが並行して流れている。
二十分ほど経ち、詩織は「一旦ここまで。方案は再調整する」と告げタブレットを閉じる。イヤホンを外し脇に置く。
部屋は再び静かになり、エアコンの低い稼働音と遠くから聞こえる救急車のサイレンだけが漂う。
彼女は水を一口飲み、横を向いて俺を見る。
「何を見てるの」
「別に」
「外の景色がそんなにいいの?」
「まあまあだ」
彼女は立ち上がり窓際へ行き、片方のカーテンを引く。
「まぶしいから」
太陽光がタブレットの画面に反射して見えにくくなっているだけだと俺は気づいているが、指摘はしない。彼女はソファに戻り、今度は資料を読み込む。
午後4時半、彼女は再びリンゴを皮むきする。今回は皮がちぎれることなく、完全な輪になって指先にぶら下がる。彼女はその皮をナイトテーブルに輪状に置く。
4
午後6時、夕食は看護師が届けに来る。詩織はソファで病院食堂の弁当を食べる。プラスチック容器を開けると湯気が立ち上る。彼女は箸を手際よく動かし早食いで済ませ、容器を閉じてゴミ箱へ捨てる。
7時、俺はベッドから起き上がろうとする。
詩織が顔を上げて俺を捉える。
「どこへ行くの」
「トイレ」
「支えよう」
彼女は立ち上がる。
「大丈夫」
「手が自由に動かないじゃない」
「手首の骨折だけだ」
俺は彼女と目を合わせる。
「この程度のことなら一人でできる」
彼女は動きを止め、宙に浮かせた手を静止させる。二秒ほど間を置いて。
「……分かった」
ソファに座り直す。
俺は洗面室へ入りドアを閉める。鏡の顔は依然として赤みが残っている。左手でズボンのボタンを外す。難しくはない、ただ動作が緩慢なだけだ。
部屋から出ると、詩織がドアの前に立っていた。
「……」
「転ぶのが怖かっただけ」彼女が言う。
「転んでない」
「そう」
彼女はソファへ戻る。
俺はベッドに横になり、右手を柔らかい枕に乗せて天井を眺める。
「悠真」彼女が声をかける。
「うん」
「明日の朝食、何が食べたい?」
「何でもいい」
「一つ指定しなさい。当てるのは嫌だ」
俺は横を向いて彼女を見る。
彼女はソファに座りタブレットを膝に乗せ、画面の光が顔を照らす。指はタッチパッドに置かれたまま動かず、俺の返事を待っている。
「……汁物」
「何の汁?遠回しに言わないで」
「味噌汁」
彼女は俺を一瞥する。
「了解」
夜9時、看護師が大部屋の照明を消し、暖かい電気スタンドだけがナイトテーブルと枕の一角を照らす。詩織は立ち上がり書類をトートバッグに収めファスナーを閉める。
「明日の朝、また来る」
「うん」
彼女は二歩ほど進んで足を止める。
「リンゴは引き出しに残ってる」
「……うん」
それ以上言葉はなく、彼女は部屋を出る。ドアが閉まる音はとても静かだ。
俺は暗闇の中に横たわり、枕に乗せた右手のギプスの下の肌がかゆくなる。天井には細いオレンジ色の光の筋が伸びている。寝返りを打つ。
今日彼女はリンゴを二個皮むきした。
一個目は途中で皮がちぎれた。
ちぎれた皮切れを彼女は捨てずナイトテーブルに置いていった。彼女が立ち去った後確かめると、その切れ端は乾いて縮み、端が黄色く変色して小さな塊になっている。まるで結び目のできた糸くずのように。




