第二十七章:病室の入り口にあの男が現れた件
1
三日目。
詩織は午前、少し遅く来た。時計が十時近くになってからドアを開けて入ってきた。コートを着替え、髪も結び直し、細長い白い保温ジャーを手に提げている。
「味噌汁だよ」
彼女は保温ジャーをナイトテーブルに置き、蓋を回して開ける。湯気が立ち昇る。
病院の食堂で買ってきたものとは違う。汁の色は濃いめで、昆布と豆腐はきれいに切りそろえられ、上に散らしたネギの緑と白が鮮やかだ。家で作って持ってきたのだ。
「お前が作ったの?」
「うん」
彼女は椀によそって差し出す。
「左手で持って」
俺は受け取って一口啜る。
塩加減はちょうどよく、昆布の風味は前回より濃いし、豆腐は少し小さめに切られている。彼女の腕前が上がったのか、それとも俺が左手で持ちやすいようにしてくれたのか。俺にはどちらだか分からない。
「美味しい?」
「美味しい」
彼女は小さく頷くと、ソファに座り、カバンからタブレットを取り出した。
昼時、看護師が薬を取り替えに来る。ギプスを外して通気させると、手首が腫れ、肌に一周跡が残っていた。俺はその手を見下ろす、まるで他人のものを眺めているような気分になる。
詩織が近づいて、ちらりと覗き込む。
「昨日より腫れが引いてきたわ」
「……うん」
看護師が再び包み直し、今夜入浴する時は防水カバーをつけるよう念押しして立ち去った。
午後一時半、詩織のスマホが鳴った。
彼女は電話に出て数秒聞いた後、「二時までに行きます」と言って切る。書類をカバンにしまい、立ち上がる。
「会社に行ってくる。二時間ほどで戻る」
「うん」
彼女はドアまで歩き、振り返って俺を見た。
「汁が残ってるから、夕飯前までに飲み切って」
「分かった」
ドアが閉まる。
部屋は静まり返り、エアコンの低い稼働音だけが響いている。
2
俺はベッドに座り、左手で保温ジャーの蓋をくるくると回す。
それを置くと、スマホを手に取る。
画面が点灯する。ロック画面は昔のまま、何の変哲もないシステム標準の水色壁紙だ。
画面をスライドし、宗一郎のトーク画面を開く。最後のメッセージは一週間前、「用事があったら会社に来い」と住所が添えられていた。
俺はその一文を見つめる。
どれほど経っただろう。二分かもしれないし、五分かもしれない。
文字を打ち込む。「都合はいい?」
送信する。
画面上部に「既読」の文字が浮かぶ。
すぐ下に返信が届く。「どうした?」
俺はその二文字をじっと見つめる。左手で打つのは時間がかかり、何度もバックスペースを押しながら一文を作る。
「入院してる」
「どこの病院だ」
「世田谷総合病院。三階、個室」
「……」
それきり返信は来なかった。
俺はスマホを置き、天井を眺める。エアコンの音は鳴りやまない。窓の外の雲は、今日はゆっくりと流れている。
四十分ほど経った頃、廊下から足音が響いてくる。
看護師の軽やかでリズミカルな足音とは違う、成人男性の革靴の音だ。重みはあるが、歩みは速くない。
足音がドアの前で止まる。
ドアが開けられる。
宗一郎が入り口に立っていた。
3
彼は白いシャツを着て肘まで袖をまくり、襟元の一番上のボタンは外している。黒のスラックスを身に着け、白いスーパーのビニール袋を手に持ち、中から赤い箱の一角が覗いていた。
彼はまずベッドの方を一瞥し、視線が俺の右手のギプスに止まる。
手のひらから前腕半ばまで巻かれた真っ白なギプスを三秒ほど眺めると、室内に踏み込み、ビニール袋をナイトテーブルに置いた。
「どういうことだ?」
「礼儀講義の階段から転んだ」
「いつだ?」
「一昨日」
彼はベッドの脇に立ち、腰を下ろそうとはしない。俺の角度から、彼の顎のラインが一瞬張り、そして緩むのが見える。
「詩織は知ってるのか?」
「彼女が俺を連れてきた」
彼は頷き、二秒ほど沈黙した後、ビニール袋を開けて中から苺の箱を取り出す。
赤い箱に透明な蓋、大きな苺が整然と並んでいる。
「道で買ってきた」
「ありがとう」
「痛いのか?」
「……まあ大丈夫だ」
彼は俺をちらりと見た。その視線は箱根のあの晩と同じだ——温泉で顔を赤らめた俺を見た時の、言葉のない眼差し。ただじっと見つめてくる。
「腫れはひどいのか?」
「だいぶ引いた」
彼は椅子を引いて腰を下ろし、背もたれにもたれ、膝の上に指を組む。
「どう転んだ?」
「三段の階段、足を上げ損ねた」
「教えていた講師はそばにいなかったのか?」
「いた。だが転んだ瞬間、間に合わなかった」
再び彼の顎のラインが張る。
「その時、詩織は何をしていた?」
「ソファに座っていた」
彼は少し黙ってから、「……そうか」と呟いた。
4
看護師が体温を測りに入ってくる。宗一郎の姿を見て一瞬驚き、ベッドヘッドに貼られた緊急連絡先の欄を確認する——そこには神崎詩織の名前と電話番号が記載されていた。
看護師は何も問わず、測定を終えて立ち去った。
宗一郎は椅子に座ったまま、一切弁明しない。
「彼女はどこに行った?」彼が訊ねる。
「会社に出てる。二時間で戻るって」
「何時に出た?」
「一時半」
彼は自身のスマホを見る。時計はちょうど三時を回っていた。
「もうすぐ戻ってくるだろう」
「うん」
彼は立ち上がって窓際まで歩く。窓の外は病院の駐車場で、台数は少なく、白や黒の車が規則正しく停まっている。彼はしばらくそこに佇み、振り返らない。
「佐藤」
「うん」
「俺にメッセージを送った時、何を考えていた?」
俺には上手く答えられない。
答えが無いわけじゃない。答えが長すぎるのだ。この数日の出来事——詩織がりんごを剥いてくれたこと、俺の腕を支えながら「救急車を呼ぼう」としゃがんだ姿、ソファでリモート会議をする彼女、「私のせいだ」と漏らした一言。全部が長すぎて、一文に詰め込んで伝えることなど出来ない。
「ただ……知らせておこうと思っただけだ」俺は言う。
彼は身を翻し、俺を見つめる。
「分かった」
それから再び椅子に座り、帰ろうとはしなかった。
5
三時半。
廊下からハイヒールの音が響いてくる。速すぎず遅すぎず、安定したリズムだ。
宗一郎はその音に気付いたが、座ったまま動かない。
ドアが開く。
詩織が入り口に立っていた。
ベッド脇の椅子に座る宗一郎の姿を見て、一瞬足を止める。
ほんの半秒の間だ。それから室内に入り、カバンをソファの脇に置き、ナイトテーブルの苺の箱を一瞥する。
「これ、あなたが買ったの?」
「うん」
「気が利くわね」
二人はベッドを挟んで話し、口調はどちらも平坦だ。まるで天気や今日の食材の値段でも語っているかのように。
詩織はコートを脱いで椅子の背もたれにかけ、ソファに座る。タブレットを開いたかと思えばすぐ閉じる。
「仕事は?」
「半日休暇を取った」
「そう」
五秒ほどの沈黙が訪れる。
「医者には何日入院するよう言われた?」宗一郎が訊ねる。
「二日観察して、明日の朝退院できる」詩織が答える。
「退院後は?」
「家で養生する」
「君の方で面倒を見られるのか?」
「私は大丈夫」
宗一郎はそれ以上問わず、立ち上がって俺を一瞥する。
「俺はもう行く」
「……うん」
彼は二歩歩いたところで足を止め、詩織の方を振り返る。
「あの汁、彼女が作ったのか?」
詩織が彼を見返す。
「私が作ったわ」
宗一郎は頷く。
「彼は飲んだか?」
「飲んでる」
「なら良かった」
彼はそのまま出ていく。ドアが閉まる音は、さっき詩織が出て行った時より静かだった。
6
部屋には俺と詩織だけが残る。
彼女はソファに座ったまま、口を開かない。
長い沈黙が続く。一分か、三分か。
「あなた、彼に連絡したの?」彼女が訊ねる。
「うん」
「いつ?」
「君が出て行った後だ」
彼女は頷き、それ以上何も言わない。
「苺、洗って食べなさい」
「分かった」
彼女は立ち上がって苺の箱を持ち、洗面所へ入る。水が流れる音が聞こえ、すぐに出てくる。皿に乗った苺は洗われ、瑞々しく、表面に水滴が転がっていた。
皿をナイトテーブルに置き、再びソファに座ってタブレットを開く。
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詩織は立ち上がり、書類をカバンにしまってベッドの脇まで来る。
「明日の朝、迎えに来るわ」
「うん」
彼女はナイトテーブルの苺の皿をちらりと見る。
「苺、美味しかった?」
「美味しい」
「あの箱、値段が張るのに。彼はセンスがあるわね」
そう言う時の口調には変化がなく、俺に話しかけているようで、自分自身に呟いているようでもあった。それから手を伸ばし、布団の端を上まで引き上げる。
「早く寝なさい」
「おやすみ」
彼女は出て行く。
病室は静まり返り、カーテンの隙間から天井にオレンジ色の光が差し込んでいる。
詩織が洗ってくれた苺の皿がナイトテーブルに置かれている。
真っ赤だ。
暖かい電気スタンドの光の下、苺の表面を転がる水滴が微かな光を反射していた。
俺は一粒取って口に放り込む。
果汁が口いっぱいに弾ける。
甘い。
甘すぎて、舌根に微かな苦みが広がってくる。
今日宗一郎は「分かった」と言った。
今日詩織は「私は大丈夫」と言った。
二人の間に挟まれた俺の右手には、分厚く見窄らしいギプスが巻かれている。まるで大切に保管されながら、いつ捨てられてもおかしくない戦利品のように。
——はぁ。
俺は自棄になって寝返りを打ち、布団を頭までかぶる。
部屋にはエアコンの執拗な低い稼働音だけが残る。ギプスの内側の手首の肌が、ひりひりと痒み出す。
医者には傷が治っている証拠だと言われた。
なのに、どうしてこんなに痒いのだろう。




