第二十五章 あの女が初めてあんな表情を見せた件
1
礼儀レッスンが再開した。
朝八時、詩織は玄関で俺を待っていた。
濃いグレーのスーツに髪をまとめ上げている。
「ピアス、つけた?」
「うん、つけてる」
彼女は俺の耳元をちらりと見て、うなずいた。
家を出る。下には車が待機しており、運転手が運転する。詩織は後部座席右側、俺は左側に座る。車窓から街並みが後ろへ流れていくが、二人の間に言葉は一切ない。
スタジオは相変わらずだ。
ガラス戸を開けると、冷たく澄んだ香りが鼻に突き抜ける。中年の女性が中に立ち、髪をきっちりと梳き、細い竹の物差しを手に持っていた。
「神崎夫人、佐藤くん」
詩織は壁際のソファに腰を下ろし、足を組む。
「始めましょう」
「今日は歩き方の復習です」女性が言う。「まず一通り歩いてみてください」
俺は鏡の前に立つ。かかとから着地し、歩幅を一定に保ち、背筋を伸ばす。二往復歩いた。
「前よりは上達しています。だが、ターンの動きがまだ練習不足です」
女性は竹の物差しで床を指す。
「階段の台のところへ行ってください。上から下りてきてみなさい」
スタジオの隅に三段の木製階段台があり、灰色のカーペットが敷かれている。階段を模した練習道具だ。以前少し練習したことはあったが、回数は多くない。
俺は台の一番上まで上がる。
「片足ずつ、しっかり踏み止まってから次の足を出す。足元を見ないこと」
一段目。二段目。三段目。下り、また上がる。
詩織はソファでスマホをいじりながら、時折顔を上げてこちらを眺める。
「ペースを上げて」女性が指示する。
俺は歩く速さを速める。
かかと。
重心。
かかと。
重心。
三段目に差し掛かった瞬間——
右足が踏み外れた。
つま先がカーペットの端に引っ掛かり、体が前につんのめる。
俺は慌てて手で床を支えようとする。
手のひらがカーペットに鈍い音を立てて打ち付けられる。
直後——
手首の奥から鈍い痛みが走った。
皮膚が擦りむけた痛みとは違う。
骨の芯から湧き上がる、重く鈍い痛みだ。
内側からハンマーで叩かれているような。
俺はその場に座り込む。
右手首を動かすことができず、左手で支える。
指を少し動かしてみる。
動くには動く。
だが手首を曲げると痛みが走る。
2
「動くな」女性がしゃがみ込んで俺の肩を押さえ、詩織の方を振り返る。
詩織はすでに立ち上がっていた。
スマホはソファに置かれたまま。
ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
歩みは速くないが、一歩一歩がしっかりしている。
彼女はしゃがみ、俺の顔を見つめる。
手を伸ばし、そっと俺の前腕を支える。
指先は冷たい。
動作は極めて繊細だ。
「どこが痛む?」
「右手」
「この角度は?」
「まだ大丈夫」
彼女はゆっくりと手首を回転させる。
俺は唇を噛み締めた。
彼女は手を止める。
「救急車を呼んで」
女性はすぐ電話を取りに行った。
待機時間は十数分と長くはなかった。
だが床に座っていると、一分一秒が果てしなく長く感じられる。
詩織は俺の前腕を支えたまま、一度も手を離さなかった。
同じ角度を保ち続ける。
「どうして踏み外した?」
「足を上げる高さが足りなかった」
「なぜ足を上げられなかった?」
「……分からない」
彼女はそれ以上問いたださなかった。
救急車が到着すると、女性が階下へ出て迎える。二人の救急隊員がストレッチャーを運んで上がってくる。
詩織は立ち上がって脇に下がり、隊員たちが俺の手首を固定し、ストレッチャーに乗せる様子を見守る。
彼女もそのまま救急車に同乗した。
俺の隣に座る。
車内は騒がしい。エンジン音、無線の音が混ざり合う。
俺はストレッチャーに横になり、車の天井を眺める。
詩織の手がストレッチャーの縁に置かれ、俺のすぐそばにある。
俺は何も話さない。
彼女も黙ったままだ。
病院の救急外来へ。レントゲン撮影、結果待ち。
廊下の蛍光灯は白くまぶしい。
プラスチック製の椅子は座ると冷たい。
詩織が隣に座り、膝の上にカバンを乗せ、その上に両手を置く。
レントゲン写真が出来上がる。
医師がフィルムをシャウカステンに貼り、細い亀裂の線を指し示す。
「右橈骨遠位端骨折です。骨のズレはないので手術は不要。ギプス固定し、二日間入院して経過観察しましょう」
「完治までどれくらいかかりますか?」詩織が質問する。
「ギプスは四週間装着。取れた後はリハビリです。完全に元通りになるには二から三ヶ月を見込んでください」
詩織は黙ってうなずいた。
白いギプスが手のひらから前腕半ばまで巻かれる。
医師が俺の右手を柔らかい枕の上に乗せ、「動かないように」と注意する。
「痛いですか?」医師が尋ねる。
「大丈夫です」
「今夜は腫れが出るのが普通です。痛みが酷くなったらナースコールを押してください、看護師が対応します」
看護師が車椅子を運んでくる。詩織が車椅子を押し、病室まで俺を運ぶ。
個室だ。ベッドは窓際に設置され、テレビとソファも備わっている。
詩織はカバンをソファに置き、ベッド脇に立って俺を見下ろす。
「痛かったら言いなさい」
「……うん」
看護師が点滴を取り付ける。抗炎症薬と鎮痛薬だ。
薬液が一滴、また一滴と落ちていく。
俺は枕にもたれ、ギプスで固定された右手を枕の上に休める。一切動かせない。
詩織はソファに座る。
スマホも触らず、ただ窓の外を眺めている。
カーテンは半分閉まっており、向かいの建物の壁が見える。
隙間から差し込む光が、彼女の膝の上に降り積もる。
「先に帰っていいよ」俺が言う。
「帰らない」
「一人で大丈夫だ」
「大丈夫かどうか、聞いていない」
彼女はこちらを見ず、低い声で言った。
だが口調は強く、二度言わせるつもりはないという雰囲気が滲んでいる。
俺はそれ以上反論しなかった。
昼時。
詩織が一度病室を出て、紙袋を手に戻ってくる。
「おかゆだ。右手が使えないだろ」
紙袋からおかゆを器に移し、ナイトテーブルに置く。
それからまたソファに戻って座る。
俺は左手でスプーンを掴む。
安定しない。
一勺目をすくって口元へ運ぶ途中、半分がテーブルにこぼれる。
ティッシュで拭き取る。
二勺目は口に運べた。
三勺目はまたこぼれる。
スプーンが器の縁にカチリと音を立て、おかゆが揺れてまた少し溢れ出す。
詩織が立ち上がる。
俺の元へ歩み寄り、ナイトテーブルからスプーンを取り上げる。
一言も発さない。
彼女は一勺おかゆをすくい、俺の口元へ差し出す。
俺は一瞬呆然とする。
彼女が言う——
「口を開けなさい」
俺はまた一瞬たじろぐ。
彼女はもう一度繰り返す——
「口を開け」
俺は唇を開く。
おかゆが口の中に運ばれる。
ちょうど良い温度だ。
二勺目。
三勺目。
彼女のペースは速すぎず遅すぎず、俺が飲み込むのを待ってから次の一勺を差し出す。
俺は枕にもたれて彼女の横顔を眺める。
彼女の表情に一切変化はなく、まるで何でもない日常の作業をこなしているかのようだ。
おかゆをすくい、食べさせ、ティッシュで俺の口角についた汁をそっと拭う。
動作は繊細で、指先は冷たい。
だが肌に触れるティッシュの方は温かい。
食べ終わると、彼女は器を片付け、紙袋をゴミ箱に捨てる。
再びソファに腰を下ろす。
午後。点滴の薬剤が交換される。
病室内は静かだ。
エアコンの微かな稼働音と、遠くから聞こえる救急車のサイレンがガラス一枚隔てて混ざり合う。
詩織はソファに座り、足を組む。
片手を肘掛けに置き、スマホも本も手に取らない。
ただ窓の外を見つめ続ける。
カーテンは半分閉まったまま。
光の角度が移り、彼女の肩から手首へと降りる。
「悠真」彼女が声を上げる。
「うん」
「今日は私のせいだ」
俺は顔を向けて彼女を見る。
彼女はこちらを見ず、窓の外を眺めたまま話す。
「ペースを速めすぎた。君が怪我をする必要などなかったのに」
「……自分が踏み外しただけだ」
「そばについて見守るべきだった」
彼女はそれ以上言葉を続けない。
彼女が謝る言葉を聞いたのは初めてだ。
非を認めないわけではないが、自分に落ち度があると考えること自体滅多にない人だ。
彼女の行動はすべて計算され、精密で揺るぎない、包丁で切り分けたように潔い。
だが今日の彼女は違う。
膝の上に置いた指が微かに動く。
何かをしようとして思いとどまり、肘掛けに戻し、また膝の上に置き直す。
夕方。看護師が体温を測りに来る。数値は正常だ。
病室の照明が点けられ、白い蛍光灯の光が白いシーツに反射して目に刺さる。
詩織は相変わらずソファに座り、姿勢を一切変えない。
隣にカバンを置き、手を膝の上に載せたまま。
「お腹空いてないの?」俺が問う。
「空いていない」
「昼、何も食べてなかっただろ」
彼女が一瞬俺の方を睨む。
「自分のことだけ気にしてなさい」
俺はそれ以上追及しなかった。
夜九時。
看護師が天井の主照明を消し、枕元の小さな間接照明だけを残す。
淡い暖かい黄色の光が、ナイトテーブルと枕の一角だけを照らす。
詩織の顔は半分が光に包まれ、半分が暗闇に沈んでいる。
「ご家族の方はそろそろお帰りください。九時以降は面会制限がございます」看護師が告げる。
詩織は立ち上がり、カバンを手に取る。
ベッド脇まで歩み寄り、俺を見下ろす。
「明日朝、また来る」
「うん」
彼女が手を伸ばし、俺の額に指先を触れさせる。
指先は相変わらず冷たい。
だが今回はすぐに引っ込めず、二秒ほどその場に留まる。
指先が肌に軽く張り付き、何か確かめるように。
それから手を下ろし、背を向けて病室を出る。
ドアが閉まる音。
廊下から響く足音が遠ざかっていく。
最初は鮮明でリズミカルな音が、次第にかすかになり、最後にはエアコンの稼働音に飲み込まれる。
何も聞こえなくなった。
俺はベッドに横になり、右手は動かせない。
硬いギプスが枕の上に押し付けられ、手のひらの辺りが蒸し暑い。
天井に細い一条の光が横切っている。カーテンの隙間から漏れた外の街灯のオレンジ色の光だ。
彼女の言葉、「私のせいだ」が頭の中で何度も反響する。
普段の彼女の話し方とはまるで違う——
普段の声には重みがあり、一字一句朱印を押すように確固としている。
今日は違う。
とても繊細な声で、何かを壊すのを恐れるかのように囁いた。
俺は目を閉じる。
点滴の薬液は相変わらず滴り落ちる。
一滴。
一滴。
どれほど時間が過ぎたのか分からない。
廊下に足音が響く。彼女のものではない。
彼女は明日朝来ると言った。
きっと来る。




