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第二十三章 あの男が「また来る」と言った件

1


箱根の朝は東京よりも早く訪れる。


陽光がカーテンの隙間から忍び込み、目を覚ますと、天井に一本の光の筋が伸びていた。


浴室から物音が聞こえる。水音が途絶え、扉が開いた。宗一郎が出てきた。既に着替えており、白いシャツに濃い色のズボン。髪はまだ濡れている。


「おはよう」


「おはよう」


「荷物をまとめて。朝食を食べたら東京に戻る」


「うん」


2


朝食はホテルのレストランで取った。和食の定食で、焼き魚、味噌汁、ご飯、漬物、豆腐が並んでいる。


彼は向かい側に座り、ゆっくり食べている。一口ご飯を食べ、一口汁をすする。私も同じようにゆっくり食べた。


二人ともほとんど言葉を交わさない。


昨夜たくさん話し込んだせいで、今日はどんな話題から切り出せばいいか分からない、そんな静けさだ。


「東京には何時頃着くの?」と私が訊ねる。


「昼前には着く」


「そう」


彼は焼き魚を一切れ箸で取り、私の皿に乗せた。


「食べなさい」


私はそれを食べた。


3


チェックアウトの際、彼はフロントで会計を済ませに行った。私は隣に立ち、カバンを持っていた。今日は天気が良く、外の陽光は眩しいほどだ。


彼が戻ってくる。


「行こう」


車の中。彼がエンジンをかけ、エアコンをつける。車窓から見える山々、木々、トンネルは、来た時と同じ景色だ。


私は座席にもたれ、眠らずにいた。


「神崎さん」


「うん?」


「昨夜、おっしゃっていたことなんですけど」


彼が振り返って私を見る。


「うん」


「……まだ答えが出せていません」


彼は一瞬私を眺めると、再び前方に視線を戻した。


「急がなくていい。悠真、よく考えてほしい」


4


ちょうど十二時に家に着いた。


宗一郎がキッチンの入り口に立つ。


「昼ご飯は何が食べたい?」


「まだお腹が空いていない」


「なら、後で食べよう」


彼はキッチンに入り、冷蔵庫をちらりと見て閉めた。


私はソファに座り、宗一郎から問われたことについて静かに考えていた。


彼が歩み寄り、向かい側に座る。


「明日は何をする予定?」


「特に何も」


「詩織は明後日帰ってくる」


「……うん」


再び静けさが訪れる。


「明日の午前中、どこか連れて行こう」


「どこへ?」


「会社だ」


5


翌朝、土曜日。


目を覚ますと、陽光がベッドの端まで届いていた。スマホを見ると九時十分だ。宗一郎は起こしに来なかった。


私は起き上がり、スリッパを履いて部屋を出る。


宗一郎は既に着替えを済ませている。濃いグレーのスーツにネクタイは締めておらず、普段よりもきちんとした身なりだ。


「行こう」


「朝ごはんは?」


「道中で済ませよう」


6


車は千代田区に建つオフィスビルの前に停まった。


極端に高い建物ではなく、ガラス張りの外壁が清潔な雰囲気だ。一階のロビーには受付があり、制服を着た女性が立ち上がってお辞儀をする。


「神崎社長、おはようございます」


「おはよう」


宗一郎は足を止めず、そのまま奥へ進む。私が後ろからついていく。


エレベーターに乗り、彼は八階のボタンを押す。


「ここが神崎さんの会社なの?」


「そうだ」


「どれくらいの規模なの?」


「三十人ほどだ」


エレベーターの扉が開いた。


7


廊下にはガラス張りのブースが並び、執務スペースには人の姿が見える。土曜日のため、出勤者は多くない。


「社長、おはようございます」


「社長」


通り過ぎる際、数人が立ち上がって挨拶する。宗一郎は黙って頷くだけだ。


彼らは一瞬私を見たが、すぐに視線を外す。


「この子は誰だ」などと問う者は一人もいない。


宗一郎が一番奥の扉を開ける。社長室だ。


広くはない。机、本棚、ソファ、そして全面ガラス張りの窓があり、外からは他のビルの屋根が見える。


「座りなさい」


私はソファに座る。彼は机の奥の椅子に座り、机の上の書類を二、三枚めくると、置いた。


「普段はここで仕事をしている」


「なるほど」


「今日はただ、見せに連れてきただけだ」


彼は立ち上がり、窓際へ行って両手をポケットに突っ込む。


「今後何かあったら」と、振り返らずに言う。「ここに来てもいい」


「何があった時ですか?」


「どんなことでも」


彼が振り返り、私を見つめる。


「詩織のことでも、それ以外のことでも。居場所に困ったり、どうすればいいか分からなくなったり、気が滅入ったりした時は」


「ここを頼っていい」


私は彼を見つめ返す。


「分かりました。神崎さん、そうします」


8


彼に案内され、社内を一通り見て回る。


休憩室、会議室、リラックススペース、簡易の食事スペース。


「残業でお腹が空いたら、ここで軽く食べられる」と彼が説明する。


冷蔵庫には飲み物やおにぎりが入っている。


「食べる?」


「まだ大丈夫です」


彼はおにぎりを一つ取り、包装を開けて一口食べる。


立ったまま食べ終わらせた。


9


エレベーターで下に降りる。箱の中には二人だけだ。


「神崎さん」


「うん?」


「週末も会社に来るんですか?」


「たまにだ。今日は君を連れてくるために来た」


エレベーターの扉が開く。一階ロビーで、先ほどの受付の女性がまたお辞儀をする。


ビルを出ると、陽光が目に刺さる。


「家に帰ろう」


「うん」


10


家に着いたのは一時近くだった。


彼は着替え、濃いグレーのスーツをクローゼットにかけ、白いTシャツ姿で出てくる。


「昼ご飯、何にする?」


「何でもいいです」


彼は冷蔵庫から卵と昨日の残りのご飯を取り出す。


「チャーハンにしよう」


キッチンで卵を割り、ネギを刻む姿を、私は隣に立って眺めていた。


フライパンが熱くなり油を引く。卵を流し入れると、ジュッという音が響く。


ご飯を加え、ヘラで手早く炒める。鍋の縁から醤油を一回しかける。


香ばしい香りが広がる。


彼は丼によそい、箸を渡してくる。


「食べなさい」


一口食べる。味付けはちょうど良い。


「美味しいです」


「そうか」


11


食事が済むと、彼が皿を洗い始める。


私はそばに立っていた。


「詩織さんは明日、何時頃帰ってくるの?」


「午後だ」


「神崎さんが出かける時には、まだ到着していないの?」


「そうだ」


最後の皿を水切り棚に置き、手を拭く。


「午後は特に用事がない。何かしたいことは?」


「家にいます」


「いいだろう」


彼はキッチンを出てソファに座り、読みかけの本を手に取る。


私は柴犬を抱え、向かい側に座る。


窓から陽光が差し込み、部屋は穏やかな静けさに包まれる。


詩織が帰ってくる。


この穏やかな時間も、もうすぐ終わるのだと分かっていた。


12


夕方。


彼は玄関で靴を履き替えている。足元には黒いスーツケースが立っている。


「行ってくるね、悠真。ちゃんと自分を守りなさい」


「……うん」


「それでは行ってくる」


「道中、気をつけてください」


扉を開けた彼は、振り返って私を一瞥する。


「忘れないで。何かあったら、会社に来なさい」


扉が閉まる。


廊下の足音が遠くなり、やがて完全に音が途絶え、静まり返る。


私は十秒ほど玄関に立っていた。


それからリビングに戻り、ソファに座る。


腕の中には柴犬がいる。


窓から差す陽光は、金色からオレンジ色へと変わっていく。


彼は行ってしまった。


明日、詩織が帰ってくる。


私は腕の中の柴犬の黒い瞳を見つめ、一抹の寂しさを覚える。


「何かあったら、会いに行っていいんだって」


柴犬は鳴きもせず、ただ身を寄せてくる。


私はそのお腹をそっと撫でる。


キッチンにはまだチャーハンの香りが、ほのかに残っていた。

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