第二十二章:あの男がついに真実を語った件
1
湯船のお湯は、ちょうど良い熱さだった。
ヒノキで組まれた湯船は、伝統的な丸い桶よりずっと広々としている。バルコニーに続く掃き出し窓のすぐそばに設えられ、壁際には整然と石が積まれ、竜の口から温泉がゆるやかに湧き出ていた。音はささやかで、半露天のこの空間には、かえって静けさが満ちている。
湯気が立ち昇り、バルコニーの外に広がる山景色を白い靄で覆った。遠くの灯りは靄の中で、ぼやけた光点になって揺れている。
俺と神崎宗一郎は肩を並べて湯船に浸かり、肩の高さはほぼ同じ。それぞれ湯船の縁にもたれ、間にこぶし一つ分の距離を空けていた。胸元まで浸かった湯の中に、ヒノキの香りが熱気に乗って一層強く漂ってくる。
彼はすぐに話し出そうとはしなかった。
俺も急かさない。
長い沈黙が続いた。
首から下を温かい湯に浸け、体の力が抜けていく。だが、安らぐという種類の緩みではない。何かが落ち着く瞬間を待つ、そんな独特な緩みだ。今まで味わったことのない感覚だった。
「どうしてずっと、見破ろうとしなかったの?」
俺が口を開くと、彼は水面に目を落とした。湯面が揺れ、灯りの光が乱反射して、彼の顔をちらちらと照らす。
「俺は……」言葉を途切らせ、彼は続けた。「別に何の違いもないと思っていたからだ」
「どういう意味ですか、神崎さん」
「君が男であろうと女であろうと」
彼は顔を上げ、俺の目を見つめる。
「最初の頃は、俺にとってどうでも良いことだったんだ」
2
彼は突然、大学時代の話を語り出した。ゆっくりとした口調で、古い帳簿をめくるように。
東京の大学に通っていたという。裕福な家の生まれではなく、授業料は減免を受け、生活費はアルバイトで稼いでいた。
「コンビニ、ファミリーレストラン、それから深夜の工場の流れ作業……」
一つずつ挙げる声は平坦だ。
「午前中は授業を受け、午後から夜までシフトに入る。終電で借りている部屋へ帰る日々だった」
ある冬、駅に併設された弁当工場で夜勤をしていた時のことを話してくれた。止まることのないベルトコンベアに乗り、おかずを弁当箱に詰める単純作業。
「手が凍えて感覚がなくなった。手袋をはめると作業がしにくいから、素手で続けていた」
「当時の時給は千円ほどだ。コンビニよりは良かったが、代わりに睡眠時間を削るしかなかった」
彼は湯の中から手を上げ、俺に差し出した。握手を求めるのではなく、ただ見せるために。俺は身を乗り出して覗き込むと、虎口と人差し指の側面に薄い角質層が浮いているのが見えた。筆を持つ人間のそれではなく、肉体労働を続けてきた者特有の、長年物を握りしめてきた跡だ。
「だから箱根のロープウェイに乗った時、俺は君よりもあの辺りの道に詳しかった」
彼が言う。
「遊びに行ったからじゃない。あそこでアルバイトをしていたからだ」
ロープウェイ施設は、夏の観光客が多い時期に短期アルバイトを募集していた。彼の仕事は乗客の誘導と、車内の消毒作業。一日八時間から十時間立ちっぱなしで、足はむくんでしまう。だが寮が完備されており、強羅駅のすぐそばにある従業員寮までは歩いて行けた。休みの日はどこへも行かず、寮でただ眠って過ごした。
「大涌谷の硫黄の煙、芦ノ湖に映る富士山の姿……君が話してくれた名所は、後にパンフレットを読んで初めて知ったんだ。仕事をしていた当時、一度も見に行ったことがなかった」
ロープウェイの中で、彼が景色を案内してくれた様子が思い出される。その口調は慣れ親しんだ様子で、ガイドというより、説明書を読み上げているようだった。なるほど、あれは印刷された文字をそのまま話していたのだ。眼前の光景の意味が、がらりと変わった。
彼は一拍置き、また話し続けた。
「ディズニーランドも同じだ」
彼の続く言葉は予想できた。喉が詰まるような感じがしたが、俺は口を挟まなかった。
「大学の後半、東京ディズニーランドで準社員として働いていた。時給制の臨時スタッフで、正社員ではない。ミッキーマウスも、シンデレラ城も、パレードも、俺にとって夢の象徴なんかじゃなかった」
水面を見つめる彼の口調は、異様に淡々としている。
「担当していたのは屋台の売り子だ。ポップコーンとアイスクリームを売る仕事。一日八時間、立ちっぱなしで同じ動作を繰り返す。月収は十五万円ほどで、家賃と生活費を差し引けば、手元に残る金などわずかだ。ユニフォームを着て城の前に立っている時、俺が考えていたのは『綺麗だな』じゃなく、『早く勤務が終わらないか』ということだった」
ディズニーランドで遊んだ日の光景が蘇る。パレードが通り過ぎた時、彼はポケットに手を突っ込んで立っており、ショーに目を向けず、ずっと俺の方を見ていた。
宗一郎にとって、あの場所は初めての遊び場ではなかったのだ。
「だから、他人と一緒にディズニーへ行ったのは、アルバイトをしていた頃が初めてなんですね」
彼はそっと頷いた。
「当時、家族連れがメリーゴーランドに乗っている姿を見ながら」
声を少し落とし、苦しみや恨みもなく、ただ事実を述べるように続ける。
「いつか自分もお金持ちになって、観光客としてここへ来よう、と思ったんだ」
間が空く。
「そして本当に観光客として足を運んだのは、君と一緒の時だった」
この言葉を口にする時、彼は俺の目を見ようとはしなかった。ずっと水面を見つめ、揺れる湯面に映る自分の姿が歪み、そして溢れた涙も紛れて見えなくなった。
3
「卒業後は今の会社に入り、一番下から働き始めた。ドラマに出てくるようなエリートコースなんて存在しない。先輩について営業を回り、データを整理し、資料を作成する。やってもやっても仕事は尽きなかった」
「その後、独立して会社を起こした。出資金を集め、従業員を雇い、取引先に怒鳴られ、資金繰りが悪化して給料が払えなくなったこともある。その時は共同経営者が立て替えてくれた」
「こうして一歩ずつ社長の立場まで上り詰めた」
彼が言う。
「振り返ってみれば、青春はとっくに消え失せていた」
顔を上げ、俺を真っ直ぐに見つめる。夜風が一瞬湯気を払い、彼の表情が鮮明に浮かび上がった。
「だからアプリで君のプロフィールを初めて見た時」
「俺が見ていたのは、少年でも少女でもなかった」
「ただ、若い顔だった」
「まだ世の辛さに揉まれたことのない、若い顔だ」
湯面が大きく揺れた。彼は体の向きを変え、湯船の縁にもたれ直し、肩の力を完全に抜いた。
「君の性別なんて、俺にはどうでも良かった」
「ただ、誰かと一緒に過ごしたかっただけだ。君は顔立ちも良いし、声も心地よかった。性別など問題ではなかった」
自身の手を見つめる。
「だが今は、状況が違う」
視線を手から外し、再び俺に向ける。その表情は落ち着いており、無理に抑えているのではなく、長い間考え抜いた末の穏やかさだ。
「ここ数日、君と食事をし、ディズニーへ行き、ゲーセンで遊び、台所で料理を教えた日々……」
「作った料理を食べて、『美味しい』と言ってくれる君。玉ねぎを切って涙を流しながらも、強がる君の姿。車の中で柴犬を抱えて眠り込んだ君。俺が車を止めた時、そっと眠る姿を眺めていた」
「その時、この人の寝顔は、ずっと見ていたくなるな、と思ったんだ」
「これからも、君の面倒を見続けたい」
「雇い主と被雇い人の関係でもない。詩織とのような関係でもない」
言葉を一度途切らせる。
「父と子のように。あるいは……家族として、共に歩んでいきたい」
適切な言葉を探すように、ゆっくりと言い添える。
「一生一緒に住めと言うわけじゃない。ただ、これからの君の人生に、俺も居場所を持ちたいだけだ」
その瞬間、周囲の音が完全に途絶えた。湯の流れる音も聞こえなくなり、竜の口の湯は止まり、湯面だけがわずかに揺れている。
宗一郎が俺を見つめ、俺も彼を見返す。
薄い硫黄の香りが漂い、ヒノキと温泉の湯気が二人を包む。甘く溺れさせるような温もりではなく、穏やかに寄り添うような暖かさだ。
一人の人間が、自分の人生を分け合いたいと告げる。十八歳の俺と三十五歳の彼。合わせて五十三年の年月が、同じ湯船の中で向き合っていた。
俺は言葉を返せなかった。
どう応えれば良いのか分からない。神崎宗一郎という人が、まだ理解できない。
話したくないわけではない。ただ喉が塞がって、声が出ないのだ。湯気が彼の輪郭を柔らかく曇らせる。口を開いた俺が発したのは、別の質問だった。
4
「神崎さん」
「うん」
「神崎詩織さんとは、どうやって知り合ったんですか?」
空気が一瞬、止まったように感じた。気のせいかもしれない。
宗一郎は不快そうな様子もなく、即座に答えた。
「とんでもない話だ」
「当時、俺の会社は出資者を探していた。事業拡大のためではなく、これ以上資金が入らなければ、翌月の給料すら払えない状況だった。何人にも交渉を持ちかけたが、二十数回も断られた。能力の問題じゃない。会社が小さくリスクが高い、それが理由だった」
湯の中に手を沈め、手首まで浸かる。
「そんな時、詩織の方から俺の元を訪ねてきた」
「どこから情報を聞きつけたのか、今でも分からない」
「結婚すれば、私が出資者になる、と彼女は言った」
俺は思わず瞠った。
「契約だと。戸籍上だけの夫婦だと。婚姻届を出した後は、それぞれ別々の生活を送る。同居も夫婦としての義務も求めない。お互いの生活に干渉することもない。社交の場だけで、夫婦の役を演じれば良い。それだけのことだ、と」
彼の口調は、契約書の条項を読み上げるように冷徹で、飾り気が一切ない。
どうしてその申し出を受け入れたのか、俺が問う。
「二つの理由がある」
「一つ目は、あの資金が必要だったからだ。何度も拒絶された後、手を差し伸べてくれたのは彼女だけだった。断る選択肢など、俺にはなかった」
「そしてもう一つは……」
ゆっくりと、詩織の言葉を再現する。
「私たちの間には、一枚の紙以外、何の繋がりもない、と彼女が言ったからだ」
「婚姻届のことだ」
宗一郎は一拍置く。
「知っているか?この国では、役所に婚姻届を提出するだけで正式な夫婦になれる。二人の署名と証人二人の記名があれば、それで戸籍に登録される。たったそれだけのことだ」
口角がわずかに動く。笑顔ではなく、この出来事の不条理さを噛み締めるような表情だ。
「結婚式も同居も、一緒に暮らすことも必要ない」
「彼女の言葉は、最初から最後まで真実だった。後になって、俺たち自身が事柄を複雑にしてしまっただけだ」
5
彼はそれ以上話そうとはしなかった。
俺も追及しない。
湯面が再び揺れる。宗一郎は立ち上がり、湯船から出る。脇の棚に置かれた白い浴衣を手に取り、身にまとう。
「長く浸かりすぎると、目眩がするぞ」
俺は黙って頷いた。
彼が先に部屋へ戻る。ガラス戸越しに、椅子に座ってタオルで髪を拭く姿が見える。
俺は湯船の中に三分ほど残った。
湯の熱さも、外の風の暑さも変わらない。
だが心の奥の一角だけが、少しずつ冷めていくような気がした。
湯船から出ると、水音が大きく響いた。棚から乾いたタオルを取り、顔を埋める。
浴衣を着て部屋に戻ると、宗一郎は窓際のベッドに横になり、胸元まで布団をかけていた。
背中を俺に向けており、眠っているかどうかは分からない。
俺は電気を消し、自分のベッドに横になる。
カーテンの隙間から微かな光が天井に降り注いでいる。
隣のベッドから、規則正しい寝息が聞こえてくる。
俺は寝返りを打ち、彼の方へ顔を向ける。
暗闇の中では何も見えない。
目を閉じてみるが、すぐにまた開ける。眠れない。
心の中で、色々なことを思い巡らす。
彼は、家族として、父と子のように俺を見守り続けたいと言った。
十八年の人生の中で、こんな言葉をかけられたことは一度もない。去っていった母、姿を消した父。給料が払えず苦笑するコンビニの店長。神崎詩織の優しさは、見えない籠で人を閉じ込めるようなものだった。
宗一郎の想いは、これまでのどれとも違う。
だが、まだ答えは出せない。




