第二十一章:あの男が最初から俺が男だと知っていた件
1
朝食を済ませた後、神崎宗一郎はスマホをちらりと眺め、顔を上げた。
「荷物をまとめろ。着替えを二着ほど持って」
「どこへ行くの?」
「着けば分かる」
彼は立ち上がり、食卓の食器を片付け始めた。
俺は椅子に座ったまま動かなかった。
「今夜は外泊だ」
「……あっ」
部屋に入り、クローゼットの引き出しを開ける。
下着にTシャツ、ズボン。畳んでカバンへ詰め込む。
柴犬のぬいぐるみが枕のそばに座り、黒い瞳でこちらを見ていた。置いていこう、なくすのが怖い。
カバンを提げて部屋を出ると、宗一郎はもう玄関に立っていた。
相変わらず白いシャツに濃い色のズボン。足元には黒いスーツケースが置かれている。
「行こう」
施錠し、エレベーターに乗り、地下駐車場へ。
エンジンがかかり、ナビゲーションの画面が点灯する。
目的地:箱根。
2
車は二時間近く走り続けた。
俺は助手席で眠り込み、目を覚ました時、車外の景色は都会の面影を完全に失っていた。
山、木々、トンネル。次から次へとトンネルが現れる。
トンネルを抜けた瞬間、一面の緑が目に飛び込んでくる。
「もうすぐ着く」宗一郎が呟く。
「うん」
「箱根だ」
3
車は旅館の玄関前に停まった。強羅付近に佇む伝統的な和風旅館で、木造建築の玄関には暖簾が掛かっている。
広々としたロビーは吹き抜けになっており、真ん中に能舞台が設けられていた。
宗一郎がフロントでチェックイン手続きを進め、俺は傍らで待機する。
係員がルームキーを二枚渡す。
「全百五十八室にヒノキの露天風呂が完備……」机の上のパンフレットを俺が読み上げる。
「そうだ」
彼はキーを持って先へ進む。
エレベーター、廊下。厚手のカーペットが敷かれ、スーツケースの車輪は鈍い音を立てる。
部屋は想像より広く、和洋折衷仕様。畳スペースとベッド二台が備わり、バルコニーからは山景色が一望できる。ベランダには桶型のヒノキ露天風呂が据えられ、木材特有の色合いが目に優しい。
「荷物を整理しろ。十分後、ロビーで待ち合わせだ」
「またどこへ?」
「着いてから話す」
4
徒歩ではなく路線バスだ。
宗一郎は事前に路線を調べ、バス停の案内図を一瞥すると、無言で俺を連れて車に乗り込む。
車外の景色は旅館から山道へと変わり、二十分ほど走行したところで下車。
目の前にロープウェイ乗り場が現れた。
「箱根ロープウェイだ」彼が説明する。「早雲山から大涌谷を経て桃源台へ向かう二区間構成、所要時間は約二十四分」
「前もって調べてたの?」
「ああ」
往復乗車券を購入する。
5
ロープウェイのゴンドラは小型で、十人ほどが乗車可能。四方が透明ガラス張りで、全方位の景色を眺められる。
宗一郎が先に乗り込み、俺が続く。車内には老夫婦一組と子連れの母親が乗っていた。
ゴンドラがゆっくりと上昇し始める。
「箱根の自然は四季で表情が変わる」宗一郎が窓の外を眺めながら話す。「春夏は新緑、秋は紅葉、晴れて視界が開ける冬には富士山が望める」
俺は眼下を見下ろす。鬱蒼と生い茂る木々、谷間、遠くから白い煙が立ち昇っている。
「あれは何?」
「大涌谷。火山活動地帯から立つ硫黄の煙だ」
「おじちゃん、詳しいね」隣の子供が話しかけてきた。
宗一郎の顔に穏やかな慈しみの表情が浮かぶのを俺は目にした。
ゴンドラはさらに上昇し、突如車体が小さく揺れた。
俺が手すりを掴むと、宗一郎の手が瞬く間に俺の腕を捕まえた。
大涌谷駅に到着。
「降りて乗り換えだ。人が多いから離れるな」
乗換ホームに立ち、俺は先ほど乗ったゴンドラを振り返る。山体の至る所に亀裂が走り、地面から次々と白い硫黄煙が吹き出している。
空気にはマッチが燃えた後のような独特の硫黄臭が漂う。宗一郎も煙の立つ山肌を眺めていた。
「この区間は全行程で最も長い谷間、地上からの高さは約百三十メートル。天候が良ければ富士山が見通せる」
俺は遠方を凝視する。
「今日は雲が多く、無理だ」
「そっか」
「残念じゃないのか?」
俺は黙ったまま返答に困った。
6
二段目のゴンドラ、大涌谷発桃源台行き。
こちらは視界が一段と開け、眼下に山々、遠方に湖が広がる。
「芦ノ湖だ。火山でできた湖、穏やかな日には湖面に富士山の姿が映る」
「宗一郎さんは来たことないの?」
「ある。大学時代にな」
「ある」という一言は淀みなく、淡々と事実を述べる口調だ。
桃源台に着いて下車。彼が湖の風景を数枚撮影する、被写体に俺は入らない。
復路のゴンドラは乗客で混雑し、席がないため二人とも立ったまま揺られる。
7
旅館に戻った時、時刻は夕暮れを迎えていた。
着替えを済ませ、レストランへ向かう。
四季彩しゃぶしゃぶ。
澄んだ出汁の鍋が運ばれ、傍らに和牛、野菜、豆腐、ネギ、キノコが並べられる。
宗一郎は箸で和牛を一枚鍋にくぐらせ、数秒後すくい上げ俺の皿に乗せた。
「タレで食べろ。ゴマダレかポン酢を選べ」
ゴマダレをつけて口に運ぶ。肉が舌の上でとろけ、柔らかい。
「美味しい」
彼は頷き、自身も肉を涮って食す。
二人は鍋を挟んで一時間ほど食事を続け、会話はほとんどない。
8
部屋へ戻ると、浴衣がベッドに用意されていた。濃い紺と薄いグレー。彼は紺色を手に取り、薄灰の浴衣を俺に渡す。
「温泉に入れ」
指すのはベランダのヒノキ露天風呂だ。湯が蛇口から湧き出し、湯気が空へ昇る。
宗一郎は服を着たままベランダの椅子に腰掛け、俺も動かない。
二人は暮れゆく山並みを眺め、長い沈黙が続いた。
やがて彼が口を開く。
「佐藤」
悠真でも、ガキでもない、佐藤と名字だけで呼ばれた。
俺が彼を見つめる。
「最初にアパートでお前に会った時から、俺は知っていた」
「何を?」
「お前が女ではなく男だということを」
夜風が吹き抜け、温泉の湯気が少し散る。
彼の横顔を見つめて、俺は問う。
「じゃあどうして早く言わなかったの?」
宗一郎は答えず、立ち上がってベランダのガラス戸を開ける。
「俺は先に入浴する。風呂から上がったら、話したいことがある」
浴室へ入り、扉が閉まる。シャワーの水音が室内に響く。
俺はベランダに座り、山の匂いを含んだ風を受ける。柴犬のぬいぐるみは傍にいない。
ポケットのお守りに指を触れる、布地は硬い感触だ。
彼は話があると言った。
水音が途切れ、浴室の扉が開く。浴衣姿の宗一郎が出てくる。
「次はお前の番だ」
俺が立ち上がり、彼のそばを通る際、宗一郎が一瞬俺を見ただけで何も語らない。
浴室に入り扉を閉める。鏡には薄灰の浴衣を身に着けた自分が映り、黄色いお守りを強く握っていた。
洗面台にお守りを置き、お湯の蛇口を捻る。湯気が次第に鏡面を覆い、自分自身の姿を隠していった。




