第十九章:あの男に連れられて浅草寺へ行った件
1
夕暮れ、俺と宗一郎は昼の残りカレーを続けて食べることにした。
鍋のカレーをさらに十分間煮込む。
宗一郎が蓋を開け、箸で牛肉を一切れ挟んで俺に差し出す。
「味見してみろ」
俺は二回息を吹きかけて口に放り込む。
柔らかい。舌で押すだけで崩れる。
「美味しい」と俺は言った。
「ニンジンは?」
ニンジンもしっかり煮込まれ、甘みが染み込んでおり、昼間の固っぽさはどこにもない。
「こっちも美味しい」
彼はご飯を二膳よそい、上からカレーをかける。
二人でアイランドキッチンカウンターに座り、黙って食す。
言葉は一切交わさない。
スプーンが器に当たるカタカタという音だけが響く。
一膳食べ終わると、彼はさらに半膳よそう。
俺も続けて半膳おかわりし、気付けば鍋の底は空っぽになった。
2
宗一郎は流し台に立って皿洗いをする。
皿を水で洗い、水切りラックに並べ、鍋は二回磨き上げる。
手を拭いてスマホを取り出す。
LINEに未読メッセージが一件届いていた。差出人は詩織だ。
「写真撮れた?」
彼がトーク画面を開き、アルバムをスクロールして昼間撮った一枚を探し出す——悠真が目元を拭い、まつげに涙の滴が残り、鼻先が赤く染まった写真だ。
画像を送信する。
十数秒待つと、「入力中」の表示が出た後、メッセージが飛び込んでくる。
「どうして泣いてるの」
宗一郎は文字を打ち込む。「玉ねぎを切ってただけ」
送信完了。
相手はまた数秒間間を置いて、続けて送ってきた。
「やせちゃったじゃない」
「きちんとご飯食べさせてるの?」
この文面を目にした瞬間、彼の眉が少し顰める。事前に予測していた通りの問い掛けに苛立ちが滲む。
キッチンカウンターにもたれ、片手で文字を打つ。
「毎日三食きちんと食べさせてる」
「それなのに痩せるわけないでしょ」
彼はリビングの方をちらりと見る。悠真がソファに座り、柴犬を抱えている。
視線をスマホに戻し、入力する。
「最近体を動かす機会が多いからだ」
それっきり相手から返信は来なかった。
画面をロックしポケットにスマホをしまうと、キッチンを出てリビングへ向かう。
3
彼が俺の向かいのソファに腰を下ろす。
「明日、行きたい場所はあるか?」
俺は少し考え、「分からない」と答えた。
「お寺は行ったことある?」
「通りすがりに遠目で見ただけ。中に入ったことはない」
「なら明日浅草寺へ行こう」
「急にお寺に行くの?」
「お参り、願掛けのためだ」
彼は立ち上がり廊下へ歩き出す。
「早めに寝ろ。明日は早起きだ」
「何時?」
「七時」
俺は柴犬を抱えたまま動かない。
彼は二歩進んだところで振り返り、俺を見る。
「遅くまで起きてたら、明日元気なくなるぞ」
「……うん」
俺は立ち上がり部屋へ入り、ドアを閉める。
外の音はすっかり静まり返った。
4
翌朝、七時。
宗一郎はもう玄関に待機していた。白いシャツに濃色のズボン、ここ数日よりずっと身だしなみが整っている。
「行こう」
「朝ご飯は?」
「現地に着いてから食べる」
移動は地下鉄。車だと浅草周辺は駐車が難しいと彼が言う。
車内は乗客が少なく、俺は隣に座る。柴犬は家に置いたまま連れてきていない。
車窓の景色は高層ビルから低層の民家へと変わっていく。
浅草に到着する頃、辺りの人出が一気に増え始めた。
5
雷門から境内へ入る。
大きな赤提灯がぶら下がり、「雷門」の文字が刻まれている。両脇は仲見世通りの商店街、食べ物屋、雑貨屋、日本人形、扇子を売る店が軒を連ねる。
宗一郎が先頭を進みながら問う。
「先に参拝する?それとも商店街をぶらつく?」
「参拝から」
商店街を抜けると二つ目の門、宝蔵門が現れる。
さらに奥へ進むと本堂。木造の大きな建物で、屋根が優美に反り上がっている。
6
本堂左手の一角、御水舎の水盤から水が絶え間なく湧き出し、柄杓が数本置かれている。
宗一郎が近づき、俺も後を追う。
彼は柄杓を一本取って水を汲む。
まず左手を洗い、続けて右手。
少量の水を左手の手のひらに受け、口元へ運んで口をすすぎ、水盤の縁に吐き出す。
最後は柄杓を立て、残った水が柄を伝って流れ落ちるようにして元の場所へ戻す。
「次、お前の番だ」
俺は同じ手順で行う。左手、右手、掌で水を受けてうがい。
水は冷たく、ほのかな渋みが残る。
水を吐き出し、柄杓を定位置に戻す。
7
本堂の階段下には大きな香炉が設置され、煙が立ち昇る。多くの参拝客が手で煙を体へ扇ぎ寄せている。
宗一郎が香炉へ近づき、頭から体へ煙を扇ぐ。
俺も二、三度真似て扇ぐが、煙が鼻に入りむせてしまう。
彼は俺の様子を見ても笑わない、この場は厳かな空気に包まれているからだ。
8
階段を上り本堂の中へ。
内部は天井が高く薄暗く、木の香りとお線香の薫りが充満している。
真ん中に金彩の観音菩薩像が安置され、柵で囲まれている。
正面に木製の賽銭箱が据えられている。
宗一郎は財布から五円玉を二枚取り、一枚を俺に渡す。
「五円はご縁に通じる、縁結びの意味だ」
俺はコインを受け取る。彼も自身に一枚握る。
二人それぞれ賽銭箱へ投げ入れる。コインが木箱に落ちる「ゴトン」という音が響く。
上部に鈴の付いた太い綱が垂れ下がっており、宗一郎が綱を引いて鈴を鳴らす。
澄んだ鈴音が堂内に響き渡る。
その後両手を合わせ、手を叩かず目を閉じて祈る。数秒経って一礼する。
俺も後に続く。綱を引き鈴を鳴らし、手を合わせ目を閉じる。
何を願えば良いか分からない。宗一郎は何を祈っているのだろう。
目を開け、お辞儀を済ませる。
9
本堂を出て右へ進むと、無数のおみくじの札が吊るされた木の棚が見えてくる。
「あちらがおみくじを引く場所だ」と宗一郎が説明する。
隣の小祠に金属製の抽選棚が並び、百円玉を入れてくじを引く仕組み。
彼が百円を投入し、抽選棚を揺らして引き出しを開け、一枚のおみくじを取り出す。
目を通すと紙を折り畳んでポケットへしまう。
「何が出たの?」
「吉だ」
彼は脇を空け、俺に引くよう促す。
俺が百円を入れて棚を揺らし、引き出しを開く。
紙面にはただ一文字、「凶」と記されていた。
俺は札を持ったまま言葉が出ない。
宗一郎が札を一瞥し、指示する。
「その凶のおみくじ、あの棚に結びつけろ」
先ほどの札掛け棚を指差す。
俺は札を持って歩み、紐にくくりつける。
結びながら思う——凶を引いた人は皆ここに結うのだ。
この棚にかかる凶の札は、浅草寺の砂の粒よりも多いのかもしれない。
10
「お守りを買いに行こう」と宗一郎が切り出す。
隣の売店のガラスケースには色とりどりの布製のお守り袋が並んでいる。
「平安守を一つ」彼が店員に注文する。
店員が黄色い布地に文字の刺繍が施されたお守りを取り出す。
彼はそれを俺に手渡す。
「お前にやる」
「何に使うの?」
「平安守、名前の通り無事を守ってくれる。身に着けておけ」
俺は布の硬い感触のお守りを受け取る。
「あなたは買わないの?」
「俺は不要だ」
彼はその場を立ち去る。
俺はお守りをズボンのポケットにしまい、小走りで後を追う。
11
本堂から左へ向かうと、鮮やかな朱色の五重塔が佇んでいる。
宗一郎はしばらく塔を眺めた後、「行こう」と告げる。
「どこへ?」
「仲見世通りを散策しよう。朝食を兼ねて昼ご飯まで一気に食べるぞ」
12
時が進むにつれ商店街は人で賑わう。
彼はにんぎょう焼を二つ購入、焼きたてで小豆餡が入っている。
一口齧ると優しい甘みが広がる。立ったまま完食する。
続けて抹茶アイスクリームを買って俺に渡す。
「どうして食べないの?」俺が訊く。
「年のせいで甘いものは控えてる」
俺はアイスを舐めながら雷門下の商店街を進む。傍らには扇子屋、キーホルダー専門店、和菓子屋が並ぶ。
雷門前では着物を着た外国人が記念撮影をしていた。
俺がちらりと視線を送ると、宗一郎も同じ場所を眺める。
「似合ってると思う?」
「え?何が?」
「着物だ」
「まあまあかな」
「お前も着てみたいか?」
「嫌だ」
彼の口角が僅かに動き、微かな笑みを浮かべた。
13
帰りの地下鉄は行きより乗客が多く、座席は空いていない。
立ったまま、俺は頭上の吊り革を掴む。宗一郎は隣に立ち、両手をポケットに突っ込む。
車体が揺れ、俺がよろめく。
彼が咄嗟に俺の腕を支える。
「しっかり掴んでおけ」
「掴んでるよ」
彼は手を離す。
車窓の外はトンネルで暗闇と明かりが交互に過ぎていく。
「神崎さん」
「うん?」
「今日は連れてきてくれてありがとう」
「三日連続でお礼を言ってるな」宗一郎が笑う。
「浅草寺へ連れて行ってくれたから」
彼は車窓に映る自身の顔を眺め、俺の方は見ない。
「来週詩織が帰ってくる。そうなると……自由な時間が取れなくなる」
「分かってる」俺が彼の言葉を遮る。
再び車が揺れる。今回はしっかり吊り革を握り、体が傾くことはなかった。




