表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
19/27

第十九章:あの男に連れられて浅草寺へ行った件

1


夕暮れ、俺と宗一郎は昼の残りカレーを続けて食べることにした。


鍋のカレーをさらに十分間煮込む。


宗一郎が蓋を開け、箸で牛肉を一切れ挟んで俺に差し出す。


「味見してみろ」


俺は二回息を吹きかけて口に放り込む。


柔らかい。舌で押すだけで崩れる。


「美味しい」と俺は言った。


「ニンジンは?」


ニンジンもしっかり煮込まれ、甘みが染み込んでおり、昼間の固っぽさはどこにもない。


「こっちも美味しい」


彼はご飯を二膳よそい、上からカレーをかける。


二人でアイランドキッチンカウンターに座り、黙って食す。


言葉は一切交わさない。


スプーンが器に当たるカタカタという音だけが響く。


一膳食べ終わると、彼はさらに半膳よそう。


俺も続けて半膳おかわりし、気付けば鍋の底は空っぽになった。


2


宗一郎は流し台に立って皿洗いをする。


皿を水で洗い、水切りラックに並べ、鍋は二回磨き上げる。


手を拭いてスマホを取り出す。


LINEに未読メッセージが一件届いていた。差出人は詩織だ。


「写真撮れた?」


彼がトーク画面を開き、アルバムをスクロールして昼間撮った一枚を探し出す——悠真が目元を拭い、まつげに涙の滴が残り、鼻先が赤く染まった写真だ。


画像を送信する。


十数秒待つと、「入力中」の表示が出た後、メッセージが飛び込んでくる。


「どうして泣いてるの」


宗一郎は文字を打ち込む。「玉ねぎを切ってただけ」


送信完了。


相手はまた数秒間間を置いて、続けて送ってきた。


「やせちゃったじゃない」


「きちんとご飯食べさせてるの?」


この文面を目にした瞬間、彼の眉が少し顰める。事前に予測していた通りの問い掛けに苛立ちが滲む。


キッチンカウンターにもたれ、片手で文字を打つ。


「毎日三食きちんと食べさせてる」


「それなのに痩せるわけないでしょ」


彼はリビングの方をちらりと見る。悠真がソファに座り、柴犬を抱えている。


視線をスマホに戻し、入力する。


「最近体を動かす機会が多いからだ」


それっきり相手から返信は来なかった。


画面をロックしポケットにスマホをしまうと、キッチンを出てリビングへ向かう。


3


彼が俺の向かいのソファに腰を下ろす。


「明日、行きたい場所はあるか?」


俺は少し考え、「分からない」と答えた。


「お寺は行ったことある?」


「通りすがりに遠目で見ただけ。中に入ったことはない」


「なら明日浅草寺へ行こう」


「急にお寺に行くの?」


「お参り、願掛けのためだ」


彼は立ち上がり廊下へ歩き出す。


「早めに寝ろ。明日は早起きだ」


「何時?」


「七時」


俺は柴犬を抱えたまま動かない。


彼は二歩進んだところで振り返り、俺を見る。


「遅くまで起きてたら、明日元気なくなるぞ」


「……うん」


俺は立ち上がり部屋へ入り、ドアを閉める。


外の音はすっかり静まり返った。


4


翌朝、七時。


宗一郎はもう玄関に待機していた。白いシャツに濃色のズボン、ここ数日よりずっと身だしなみが整っている。


「行こう」


「朝ご飯は?」


「現地に着いてから食べる」


移動は地下鉄。車だと浅草周辺は駐車が難しいと彼が言う。


車内は乗客が少なく、俺は隣に座る。柴犬は家に置いたまま連れてきていない。


車窓の景色は高層ビルから低層の民家へと変わっていく。


浅草に到着する頃、辺りの人出が一気に増え始めた。


5


雷門から境内へ入る。


大きな赤提灯がぶら下がり、「雷門」の文字が刻まれている。両脇は仲見世通りの商店街、食べ物屋、雑貨屋、日本人形、扇子を売る店が軒を連ねる。


宗一郎が先頭を進みながら問う。


「先に参拝する?それとも商店街をぶらつく?」


「参拝から」


商店街を抜けると二つ目の門、宝蔵門が現れる。


さらに奥へ進むと本堂。木造の大きな建物で、屋根が優美に反り上がっている。


6


本堂左手の一角、御水舎の水盤から水が絶え間なく湧き出し、柄杓が数本置かれている。


宗一郎が近づき、俺も後を追う。


彼は柄杓を一本取って水を汲む。


まず左手を洗い、続けて右手。


少量の水を左手の手のひらに受け、口元へ運んで口をすすぎ、水盤の縁に吐き出す。


最後は柄杓を立て、残った水が柄を伝って流れ落ちるようにして元の場所へ戻す。


「次、お前の番だ」


俺は同じ手順で行う。左手、右手、掌で水を受けてうがい。


水は冷たく、ほのかな渋みが残る。


水を吐き出し、柄杓を定位置に戻す。


7


本堂の階段下には大きな香炉が設置され、煙が立ち昇る。多くの参拝客が手で煙を体へ扇ぎ寄せている。


宗一郎が香炉へ近づき、頭から体へ煙を扇ぐ。


俺も二、三度真似て扇ぐが、煙が鼻に入りむせてしまう。


彼は俺の様子を見ても笑わない、この場は厳かな空気に包まれているからだ。


8


階段を上り本堂の中へ。


内部は天井が高く薄暗く、木の香りとお線香の薫りが充満している。


真ん中に金彩の観音菩薩像が安置され、柵で囲まれている。


正面に木製の賽銭箱が据えられている。


宗一郎は財布から五円玉を二枚取り、一枚を俺に渡す。


「五円はご縁に通じる、縁結びの意味だ」


俺はコインを受け取る。彼も自身に一枚握る。


二人それぞれ賽銭箱へ投げ入れる。コインが木箱に落ちる「ゴトン」という音が響く。


上部に鈴の付いた太い綱が垂れ下がっており、宗一郎が綱を引いて鈴を鳴らす。


澄んだ鈴音が堂内に響き渡る。


その後両手を合わせ、手を叩かず目を閉じて祈る。数秒経って一礼する。


俺も後に続く。綱を引き鈴を鳴らし、手を合わせ目を閉じる。


何を願えば良いか分からない。宗一郎は何を祈っているのだろう。


目を開け、お辞儀を済ませる。


9


本堂を出て右へ進むと、無数のおみくじの札が吊るされた木の棚が見えてくる。


「あちらがおみくじを引く場所だ」と宗一郎が説明する。


隣の小祠に金属製の抽選棚が並び、百円玉を入れてくじを引く仕組み。


彼が百円を投入し、抽選棚を揺らして引き出しを開け、一枚のおみくじを取り出す。


目を通すと紙を折り畳んでポケットへしまう。


「何が出たの?」


「吉だ」


彼は脇を空け、俺に引くよう促す。


俺が百円を入れて棚を揺らし、引き出しを開く。


紙面にはただ一文字、「凶」と記されていた。


俺は札を持ったまま言葉が出ない。


宗一郎が札を一瞥し、指示する。


「その凶のおみくじ、あの棚に結びつけろ」


先ほどの札掛け棚を指差す。


俺は札を持って歩み、紐にくくりつける。


結びながら思う——凶を引いた人は皆ここに結うのだ。


この棚にかかる凶の札は、浅草寺の砂の粒よりも多いのかもしれない。


10


「お守りを買いに行こう」と宗一郎が切り出す。


隣の売店のガラスケースには色とりどりの布製のお守り袋が並んでいる。


「平安守を一つ」彼が店員に注文する。


店員が黄色い布地に文字の刺繍が施されたお守りを取り出す。


彼はそれを俺に手渡す。


「お前にやる」


「何に使うの?」


「平安守、名前の通り無事を守ってくれる。身に着けておけ」


俺は布の硬い感触のお守りを受け取る。


「あなたは買わないの?」


「俺は不要だ」


彼はその場を立ち去る。


俺はお守りをズボンのポケットにしまい、小走りで後を追う。


11


本堂から左へ向かうと、鮮やかな朱色の五重塔が佇んでいる。


宗一郎はしばらく塔を眺めた後、「行こう」と告げる。


「どこへ?」


「仲見世通りを散策しよう。朝食を兼ねて昼ご飯まで一気に食べるぞ」


12


時が進むにつれ商店街は人で賑わう。


彼はにんぎょう焼を二つ購入、焼きたてで小豆餡が入っている。


一口齧ると優しい甘みが広がる。立ったまま完食する。


続けて抹茶アイスクリームを買って俺に渡す。


「どうして食べないの?」俺が訊く。


「年のせいで甘いものは控えてる」


俺はアイスを舐めながら雷門下の商店街を進む。傍らには扇子屋、キーホルダー専門店、和菓子屋が並ぶ。


雷門前では着物を着た外国人が記念撮影をしていた。


俺がちらりと視線を送ると、宗一郎も同じ場所を眺める。


「似合ってると思う?」


「え?何が?」


「着物だ」


「まあまあかな」


「お前も着てみたいか?」


「嫌だ」


彼の口角が僅かに動き、微かな笑みを浮かべた。


13


帰りの地下鉄は行きより乗客が多く、座席は空いていない。


立ったまま、俺は頭上の吊り革を掴む。宗一郎は隣に立ち、両手をポケットに突っ込む。


車体が揺れ、俺がよろめく。


彼が咄嗟に俺の腕を支える。


「しっかり掴んでおけ」


「掴んでるよ」


彼は手を離す。


車窓の外はトンネルで暗闇と明かりが交互に過ぎていく。


「神崎さん」


「うん?」


「今日は連れてきてくれてありがとう」


「三日連続でお礼を言ってるな」宗一郎が笑う。


「浅草寺へ連れて行ってくれたから」


彼は車窓に映る自身の顔を眺め、俺の方は見ない。


「来週詩織が帰ってくる。そうなると……自由な時間が取れなくなる」


「分かってる」俺が彼の言葉を遮る。


再び車が揺れる。今回はしっかり吊り革を握り、体が傾くことはなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ