第十八章:あの男に料理を教わった話
1
一晩前、ディズニーから帰る途中。
車に乗っているうちに、私はもう眠り込んでいた。
宗一郎に起こされた。
「着いたぞ」
家の玄関に着き、鍵を取り出して扉を開ける。
玄関の灯りが点いていた。
靴を履き替え、部屋の方へ歩き出す。二、三歩進んだところで足を止め、振り返って彼を見た。
「神崎さん」
「うん」
「ソファで寝ないでください」
「大丈夫だ」
「客室を片付けておきました。先ほど執事に頼んでおいたんです」
彼が私を見て問いかける。
「……何階だ?」
「一階です。廊下の一番奥の部屋です」
彼は頷いた。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
自分の部屋に入り、扉を閉める。
外は静まり返った。
ここ二日間のように、ソファが沈む鈍い音は聞こえない。
きっと客室に行ったのだろう。
ベッドに横になり、柴犬のぬいぐるみを抱きしめる。
目を閉じた。
2
翌朝。
スマートフォンのバイブ音で目を覚ました。
枕元の画面が一瞬光り、詩織からLINEのメッセージが届いていた。
「起きた?」
目をこすり、文字を打ち返す。
「うん」
直ちに電話がかかってきた。
「もしもし」
寝起きで掠れた声で出る。
「声が枯れてるわ。水でも飲みなさい」
「ここ二日間、何をしてたの?」
「一昨日はゲーセンに行って、柴犬のぬいぐるみを取ったんです。昨日はディズニーへ行きました」
「あの柴犬のぬいぐるみ、私すごく好きなの」
電話の向こうが一瞬静まる。
「写真を送って」
私はぬいぐるみを撮影し、送信した。
「ディズニー、楽しかった?」
「……まあまあです」
「そう」
また二秒ほど間が空く。
「まあ、楽しめたならいいわ」
電話が切れた。
画面を見つめ、しばらくぼんやりしていた。
廊下の奥から宗一郎が歩いてくる。寝癖で髪が立ち、濃いグレーのTシャツを着ている。
「誰からの電話だ?」
「詩織さんです」
彼は頷き、キッチンの方へ向かう。
冷蔵庫を開ける音が聞こえた。
数分後、彼のスマホが鳴った。
彼は電話に出、声をひそめる。
「うん。……大丈夫だ。……家にいる」
話しながらリビングの隅へ二、三歩移動し、私に背を向けた。
「分かった。……了解」
通話を切る。
私はソファに座り、柴犬のぬいぐるみを抱えたまま動かなかった。
彼が振り返り、私を一瞥する。
「朝飯、何が食べたい?」
「何でもいいです」
彼は電話の話には触れなかった。
3
朝食は目玉焼き、トースト、牛乳。
昨日と同じメニューだ。
「神崎さん」
「うん」
「料理、できるんですか?」
「少しだけな」
「誰に習ったんです?」
「母さんだ」
彼は俯いてリンゴを切り、一口大にして白い皿に盛り付ける。
「大学時代、一人暮らしをしていた頃は、しばらく自炊していた」
「その後は?」
「仕事が忙しくなって、やめた」
皿を私の前に押し出す。
「食べろ」
4
朝食を済ませ、宗一郎はソファに座ってスマホを眺めている。
私は向かい側に座り、ぬいぐるみを抱きしめる。
「お前は料理できるのか?」
彼が問いかける。
「……できません」
「まったく?」
「インスタントラーメンを茹でるくらいなら」
「それは料理とは言わない」
彼はスマホを置く。
「昼飯、俺が教えてやる」
「……どうしてです?」
「ん……生きるためのスキルを一つ覚えておいて損はないだろ」
少し考えてから尋ねる。
「どこで習うんです?」
「食材を買いに行こう。家に帰ったら教える」
5
十一時、外出した。
宗一郎が運転し、私は助手席に座る。向かったのは普通のスーパーではなく、商業施設の地下にある食品売り場だ。
彼はショッピングカートを押して先を歩く。
「何が食べたい?」
「何でもいいです」
「何でもいいが一番困るんだ」
彼は牛ブロック肉を一パック取り、カートに入れる。
続いて玉ねぎ、ニンジン、ジャガイモも手に取る。
「カレーを作るんですか?」
「ああ。カレーは簡単だ」
調味料コーナーへ移動し、カレールーを一箱選ぶ。
「他に欲しいものは?」
「ご飯」
「家にある」
「他に食べたいものはないか? なければ帰ろう」
私は首を横に振った。
6
家に戻る。
宗一郎が戸棚からエプロンを二枚取り出す。
濃い紺色のものと、薄いピンク色のものだ。
彼はピンクのエプロンをちらりと見る。
「……詩織のだ」
紺色の方を私に渡す。
「これを着けろ」
自身はピンクのエプロンを身に着けた。
彼の背中を見て、思わず笑みがこぼれた。
「何を笑ってる」
「別に何も」
7
キッチンのアイランドカウンターに、まな板、包丁、野菜かごが一列に並ぶ。
宗一郎が牛肉をまな板の上に置く。
「まず肉を切れ」
「どのくらいの大きさに?」
「一口大だ。大体でいい」
包丁を持つ。
牛肉は滑りやすく、包丁の軌道が狂った。
一つ目は大きく切れ、二つ目は極端に小さくなる。
「慌てるな。左手で肉を押さえ、右手で包丁を入れるんだ」
彼は私の隣に立つが、手を触れることはない。
五、六切れほど切ったが、大きさはまちまちだ。
「もういい。煮込めばどうせ同じになる」
私はほっと息をついた。
8
次に玉ねぎを渡される。
「これをみじん切りにしろ」
皮をむき、包丁を入れた途端、目が染み始めた。
「包丁を水で濡らすと、少しは楽になる」
言われた通りにするが、やはり染みる。
涙が溢れてきた。
「泣いてるのか?」
宗一郎の声が隣から響く。
「泣いてません。玉ねぎが目に染みるだけです」
「どう見ても泣いてるだろ」
私は返事をせず、作業を続ける。
玉ねぎを切り終えた頃には、目の周りが赤くなっていた。
彼がティッシュを一枚差し出す。
「拭け」
目元を拭う間、視線の端で彼がスマホを取り、素早く画面を押す姿が見えた。
すぐに画面を下に向ける。
「何をしてるんです?」
「時間を確認しただけだ」
スマホをポケットにしまう。
私は深く考えず、その場を流した。
9
ニンジンの皮をむき、角切りにする。
ジャガイモも同様に切る。
宗一郎は傍らで鍋を熱し、油を引く。
「玉ねぎを入れろ」
具材を鍋に注ぐ。
ジューッという音が響く。
「透明になるまで炒めるんだ」
彼がヘラで数回かき混ぜ、私に譲る。
ヘラを受け取り、炒め始める。
玉ねぎが鍋の中であちこち転がる。
「ただかき混ぜるだけじゃない。押しつぶすように炒めろ」
押しながら炒める。
「いい頃合いだ。肉を入れろ」
牛肉を投入する。
肉の色が白っぽく変わる。
「表面の色が変われば大丈夫。中まで火を通す必要はない」
続いてニンジンとジャガイモを加え、水を張る。
具材が隠れるくらいの量だ。
お湯が沸騰したら火を弱火に落とす。
「二十分煮込め」
鍋を確認し、蓋を閉める。
それから彼はキッチンの隅へ移動し、私に背を向けてスマホを操作する。
画面を数回タップしている。メッセージを送っているようだ。
私は問いたださなかった。
鍋から立つ、わずかな煮込み音だけが響いていた。
10
二十分が過ぎる。
彼はハイチェアに腰を下ろし、私はカウンターの傍に立つ。
「神崎さん」
「うん」
「大学時代、よくカレーを作ってたんですか?」
「ああ。安上がりだからな。一度にたっぷり作って、三日間食べ続けてた」
「美味しかったんです?」
「食べられる程度だ」
昨日の私の言葉と同じだ。
彼が私を一瞥する。
「時間だ。蓋を取れ」
蓋を開ける。
湯気が立ち昇り、カレーの香りが広がる。
彼はカレールーを割り、私に渡す。
「これを入れて、溶けるまでかき混ぜろ」
ルーを一つずつ投入し、ゆっくりかき混ぜる。
スープにとろみがつき、色も薄い茶色から濃い茶色へと変わっていく。
「あと五分、煮込む」
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五分後、火を止める。
宗一郎がご飯を二膳よそう。
私がカレーをかける。
彼が一口食べる。
「うん、食べられる」
私も口に運ぶ。
牛肉は少し固く、ニンジンにはまだ生っぽさが残っている。
だがカレーの味はちゃんとしていた。
「美味しいです」
「本当か?」
「本当です」
彼は黙って食事を続け、私も同じように箸を動かす。
キッチンには、スプーンが器に触れる音だけが響いていた。
12
食事が済むと、彼が皿洗いをする。
私は傍らに立ち、どうしたらいいか分からない。
「神崎さん」
「うん」
「明日は何を習うんです?」
彼は少し考える。
「まだ考えていない」
最後の皿を水切りかごに置き、手を拭く。
「だが、もうカレーはなしだ」
「どうしてです?」
「お前が覚えたからだ」
エプロンを脱ぎ、椅子の背にかける。
薄いピンク地に小花柄のエプロンだ。
「このエプロン」
私が言う。
「神崎さんが着けても、意外と似合ってますよ」
彼が私を睨む。
「黙れ」
言葉を飲み込む。
だけど笑みが止まらない。
彼も私の顔を見て、唇の端をわずかに動かす。
そして振り返り、リビングへ歩いていく。
私はキッチンに残り、充満するカレーの香りを感じていた。
皿も鍋も洗い終わり、コンロもきれいに拭かれている。
これらは私がしたわけではない。
だがカレーは、少なくとも一部分は私が作ったのだ。
リビングに戻り、ソファに座る。
宗一郎はスマホを眺めている。
テレビはつけられておらず、カーテンは全開になっている。
外の陽光が床に降り注いでいる。
あんなことがあった後だから、神崎さんとの接し方がぎこちなくなるのかと思っていた。
だが思いのほか、二人は自然に打ち解けている。
これも悪くない。




