第十七章:三十五歳の男が一週間付き添うと言った件
1
世田谷の新しい家に戻ったのは、もうすぐ十一時だった。
宗一郎は俺が渡した鍵で玄関の扉を開ける。靴を履き替えると、廊下の奥にあるリビングの明かりを眺めた。
「どの部屋で寝る?」
「一番奥の部屋。客室だ」
「詩織の部屋は?」
「隣だ」
彼は頷き、それ以上何も言わなかった。
俺が奥へ進むと、宗一郎が後ろからついてくる。
廊下はひっそりと静まり返っている。厚いカーペットの上を歩けば、足音は一切響かない。
詩織の部屋の前を通り過ぎる時、宗一郎の足取りが一瞬緩んだ。閉まった扉をちらりと見やると、また歩き出す。
2
客室は広くはない。ベッドにタンス、ナイトテーブル、そしてフロアランプが置かれているだけだ。
枕元には、昨日ゲーセンで拾ってきた柴犬のぬいぐるみが乗っている。
俺はベッドの前に立ち、どうしたらいいか分からなかった。
宗一郎は玄関の枠にもたれ、両手をズボンのポケットに突っ込んでいる。
「洗面用具は?」
「浴室にある。詩織が用意してくれた」
「じゃあ、先に入ってこい」
「うん」
俺はパジャマを持って浴室に入り、扉を閉める。鏡の前に立つと、自分の顔が少し赤らんでいるのが見えた。ラーメンの熱さのせいか、それともゲーセンの暑さのせいか。
蛇口をひねり、冷水で顔を洗う。
冷たい水が肌に触れた。
3
浴室から出ると、宗一郎はまだ廊下に立っていた。
手にスマートフォンを持ち、画面は点灯しているが、彼は視線を落とさない。
「洗い終わったよ」
「ああ。じゃあ俺が使う」
彼は浴室に入り、扉を閉める。
俺は部屋に戻り、ベッドに腰を下ろした。マットレスは柔らかく、布団も軽い。カーテンは半分だけ開けられており、外には東京タワーの先端が覗いている。
柴犬のぬいぐるみを手に取り、お腹の部分をつまんでみる。
ふわふわと柔らかい。
浴室から水音が漏れてくる。
十分ほど経って、宗一郎が出てきた。
着替えており、濃いグレーのTシャツにスウェットパンツを履いている。
「パジャマを持ってなかったの?」
「持ってる。車の中だ」
彼はベッドの傍まで歩き、寝床を一瞥する。
「お前はベッドで寝ろ。俺はソファにする」
「ソファ?」
「リビングのやつ。十分広い」
「……うん」
宗一郎は振り返って部屋を出ようとする。
「神崎さん」
足を止める。
「今夜、ここにいるの?」
「ああ」
「明日は会社に行かなくていいの?」
「段取りは済ませた」彼は振り返らずに言う。「これから一週間、ここにいる」
そう言うと、廊下を進んでいく。
廊下の照明が消えた。
俺はベッドに座ったまま、彼の足音が遠ざかっていくのを聞いていた。リビングの方もやがて静けさに包まれる。
きっと神崎さんも横になったのだろう。
一週間。
彼が俺に付き添ってくれるのだ。
詩織は留守で、宗一郎がそばにいる。
この気持ちをどう言い表せばいいのか分からない。嬉しいわけでも、嫌なわけでもない。
ただ……現実味が薄い。
明日目を覚ませば、すべてが元通りになってしまうような気がする。
俺は寝返りを打ち、枕に顔を埋める。
軽い布団、柔らかいベッド。
それでも、眠れなかった。
4
どれだけ時間が経っただろう。
柴犬のぬいぐるみを抱きしめ、ぼんやりと眠りに落ちた。
夢は見なかった。
ぬいぐるみの柔らかいお腹が顎に触れ、毛の感触が心地よかった。
5
翌朝。
フライパンとヘラが触れ合う音で目を覚ました。
大きな音ではない。キッチンから響く、かすかなカチャカチャという音だ。
目を開け、天井を見上げる。カーテンの隙間から朝日が差し込み、一本の光の筋が天井を横切っている。
体を起こし、目をこする。スリッパを履いて部屋を出る。
6
オープンキッチンの調理台の前に、宗一郎が立っていた。
昨日と同じ濃いグレーのTシャツを着、腰には詩織の薄ピンクで小花柄のエプロンを巻いている。
思わず吹き出してしまう。
宗一郎がこちらを振り返る。
「何がおかしい」
「別に」
「顔を洗って歯を磨け。朝食を食べに来い」
俺は浴室へ向かう。鏡に映る自分は髪が跳ね、目も少し腫れている。冷水で顔を洗い、歯を磨き、指で髪を整える。
浴室を出ると、ダイニングテーブルには朝食が並んでいた。
トーストに目玉焼き、カットされたフルーツ、そして二杯の牛乳。
宗一郎は向かい側に座り、トーストにバターを塗っている。
「神崎さんが作ったの?」俺が腰を下ろす。
「他に誰がいる。執事も呼んでいないし」
目玉焼きの端は少し焦げ、卵白も丸くならずに崩れている。フォークで一切れすくって口に運ぶ。
塩気が強い。
「美味しいか?」彼が問う。
「まあまあだね」
「まあまあって、どの程度だ」
「……食べられるレベル」
宗一郎はこちらを一瞥し、何も言わずにトーストにかぶりつく。
牛乳を一口飲む。
「何時に起きたの?」
「七時だ」
「随分早いね」
「眠れなかった。ソファが柔らかすぎた」
俺はトーストを噛み、言葉を返さない。
宗一郎はまた一枚のトーストを取り、ゆっくりとバターを塗り始める。バターナイフがパンの表面を擦る、さらさらとした音が響く。
「神崎さん」
「うん」
「今日はどこへ行くの?」
彼は少し考えてから答える。
「ディズニーランドだ」
「……え?」
「ディズニーランド。行ったことないだろ?」
「ないけど、だけど――」
「なら行こう」
トーストを口に押し込むと立ち上がり、牛乳のグラスを持ってキッチンへ戻る。
「食べ終わったら着替えろ。九時に出発する」
7
宗一郎は寝室へ戻って着替え始める。
俺はテーブルに残り、最後の牛乳を飲み干す。それからリビングの隅に置かれた固定電話の方へ歩く。
詩織が出かける前に教えてくれた。執事の番号はワンタッチダイヤルに登録されている。
受話器を取り、「1」のボタンを押す。
数回の呼び出し音の後、電話が繋がった。
「神崎邸でございます」
「あの……佐藤です」
「佐藤様。何かご用でしょうか」
「地下の客室を一つ片付けていただけますか。今夜、誰かが泊まるので」
「かしこまりました。どの部屋がよろしいでしょう」
「どこでもいい。今俺が使っている部屋の隣にしてください」
「承知いたしました。寝具と洗面用品も一式ご用意いたします。他にご要望はございますか」
「いいえ、大丈夫です。ありがとう」
「どういたしまして。一時間以内に整えさせていただきます」
受話器を置く。
その場に立ち、少し呆然とする。
さっき電話で話した口調が、あまりにも自然だった。
何度もこうして連絡しているような感じがした。
違う。これが初めてなのに。
俺は二階へ上がり、着替える。
8
八時五十分。
着替えを済ませ、玄関で待っている。
宗一郎が部屋から出てくる。白いシャツに着替え、袖は肘までまくり上げられている。どこか意気込んだ様子だ。
「行こう」
車は地下駐車場に停まっている。相変わらず黒いセダンを運転する彼。
俺は助手席に座る。ナビの目的地はディズニーランドに設定されていた。
9
到着したのは十時近く。
広大な駐車場には車が溢れている。
宗一郎は車を停め、キーを抜き、こちらを見る。
「しっかりついて来い。はぐれるな」
「分かってる」
入園ゲートには大勢の人が列を作っている。
だが宗一郎は列の方へは向かわず、横の通用口へと回り、スタッフに一言話しかける。スタッフはスマホの画面を確認して頷き、二人を中へ通してくれた。
「並ばなくていいの?」俺が尋ねる。
「VIP対応だ」
「……なるほど」
彼が先を歩き、俺が後ろからついていく。
10
園内に入ると、ワールドバザールに立ち、遠くに見えるシンデレラ城を眺める。
テレビで見るよりも、ずっと大きかった。
宗一郎は隣に立ち、園内マップを手にしている。
「どれから遊びたい?」
「分からない」
「なら、その場の流れで行こう」
マップを畳むと、左の方へ歩き出す。
11
最初に乗ったのはカリブの海賊だ。
列に並ぶことなく、そのまま施設内へ入る。
船がゆっくりと水面を進む。両側には海賊の人形が並び、歌声が響いている。照明は明滅し、雰囲気が変わる。
宗一郎は俺の隣に座り、船の縁に腕を乗せ、無表情なままだ。
「どう?」俺が問う。
「まあまあだ。お前は?」
「……俺もまあまあ」
船が小さな坂を滑り落ちる時、水しぶきが飛んできて、俺は思わず首を縮める。
宗一郎がこちらを見て、口角を少し動かした。
はっきり笑ったわけではない。ただ、おかしそうな表情だ。
12
次はビッグサンダー・マウンテン。
鉱山列車型のアトラクションで、車体が激しく揺れる。
宗一郎は入口に立ち、走り出す車両を眺める。
「怖くないのか?」
「怖くないよ」
「本当に?」
「本当だ」
並ばずに、そのまま車内へ乗り込む。俺は宗一郎の後に続く。
安全バーが下りてきて、胸元に軽く圧力がかかる。
車が動き出す。ガタガタと音を立てながら上り坂を登る。
頂上に着くと、一瞬だけ停止する。
そして一気に落下する。
風が勢いよく顔に叩きつける。俺は目を閉じ、すぐにまた開く。
車は左右に大きく揺れ、危険な感じがする。だが安全バーを強く握りしめているせいか、スリルの方が勝っていた。
車が停止すると、握り締めていた指の力を抜く。
宗一郎が安全バーを上げ、立ち上がってこちらを見る。
「顔が青くなってる」
「違う」
「手が震えてるじゃないか」
「これは車の振動のせいだ」
宗一郎が笑う。
今度は、心からの笑みだった。
「まだ乗るか?それとも先に何か食べよう」
「いいよ」
13
昼食はピザにした。
園内のレストランは人で賑わっており、相席で座る。
俺はうつむき、ピザを食べる。生地は少し固めだが、チーズがたっぷり乗っている。
宗一郎はゆっくり食事を進める。まずサラダを口にし、それからピザを食べる。
「神崎さん」
「うん」
「以前、ここに来たことがあるの?」
「ある」
「誰と?」
彼の箸が一瞬止まる。
「……大学の同級生だ」
「そう」
俺は再びうつむき、ピザを食べ続ける。宗一郎もそれ以上話さない。
14
午後はスペース・マウンテンへ行く。
屋内ジェットコースターで、施設内は暗闇に包まれ、星のような灯りが点々と輝いている。
車が暗闇の中を縫うように進む。周囲の様子は見えず、ただカーブと落下の感触だけが伝わってくる。
降りた時、足が少しふらついた。
宗一郎が前を歩き、振り返ってこちらを見る。
「足がふらついてるな」
「違うよ」
「なら、ゆっくり歩け」
俺は足を速め、彼の隣に並ぶ。
「次はどこに行く?」
「ホーンテッドマンション。行くか?」
「行く」
15
ホーンテッドマンションの中も暗い。
乗り物がゆっくりと進み、両側には人形が並び、歌声が響いている。
宙に大きな球体が浮かび、その表面に顔が現れ、話しかけてくる。
宗一郎は隣に座り、膝の上に手を置いている。
周囲の人形を眺めながら、俺は小声で問う。
「怖くないの?」
「作り物だ。怖がる必要もない」
「じゃあ、大学の同級生は?彼らは怖がったりしなかったの?」
「……一人だけ怖がって、最後まで目を閉じていた奴がいた」
その姿を想像し、思わず笑う。
大学生が目を閉じたまま、このアトラクションを乗り切る様子は滑稽だ。
「面白そうだな」
「ああ。誰にでも、苦手なものや怖いものはあるものだ」
「悠真は何か怖いことがあるのか?」
宗一郎の問いかけを、俺はわざと聞き流す。
その瞬間、隣の人形の首がくるりと回り、こちらを見つめてきた。
俺は一瞬、体を硬くする。
16
夕暮れ時、城の前でディズニーパレードを見物する。
ミッキーにミニー、ドナルドダック。次々とパレードカーが通り過ぎ、大きな音の音楽が響き渡る。
近くの子供は父親の肩に乗り、光る風船を掲げている。
人混みの中に立ち、宗一郎は両手をポケットに突っ込んで隣に佇んでいる。
「今日は楽しかったか?」彼が問う。
「うん、楽しかった」
今回は「まあまあ」とは言わなかった。
心から、楽しかったのだ。
宗一郎は頷き、それ以上言葉を発さない。
夕陽がシンデレラ城を照らし、景色は幻想的な色に染まっていた。
17
園が閉まる直前、最後にピーター・パンの空の旅に乗る。
並ばずに、そのまま乗車する。
乗り物が空中を浮遊し、眼下には街の灯りが広がっている。ロンドンの街並み、子供部屋、無数の星。
俺は下を眺め、宗一郎も同じように眼下の景色を見つめている。
「神崎さん」
「うん」
「今日はありがとう」
「昨日も言っただろ」
「だけど、もう一度言いたい」
宗一郎が顔を向け、こちらを見る。
照明の光が彼の顔を半分照らし、もう半分は影に沈んでいる。
「礼を言う必要はない」
18
車に戻ったのは、もうすぐ九時。
助手席に座り、シートベルトを締める。宗一郎がエンジンをかけ、エアコンのスイッチを入れる。
窓の外の夜景が次々と後ろへ流れていく。
シートにもたれると、まぶたが重くなってくる。
「眠いのか?」彼が声をかける。
「違うよ」
「家に着いたら起こす」
「……うん」
目を閉じる。
車がわずかに揺れた。
俺はそのまま眠りに落ちた。




