第十六章:三十五歳の男にゲーセンへ誘われた件
1
ゲーセンは細い路地の二階にあった。
階段は狭く、照明は暗く、壁にはポスターがびっしり貼られている。扉に近づく前から、騒音が耳に飛び込んでくる。電子音、ボタンを叩く音、それに様々な歓声や叫び声。
神崎宗一郎が扉を押し開け、体を横にして俺に先に入るように譲った。
店内は思ったより広かった。列を成すゲーム機の画面が点滅し、派手な光が目に刺さる。数人の制服姿の高校生がダンスゲーム機の周りに集まり、中年の男性がシューティングゲームに興じている。
俺は玄関に立ったまま、ポケットに手を突っ込み、一枚のコインを指でつまんでいた。
埼玉にもこんなゲーセンが一軒あった。ここより狭く、機械も古びている。俺は二回だけ行ったことがある。一人で。
宗一郎はもうカウンターへ行ってコインを両替していた。振り返って俺を一瞥し、顎でこちらを示し、「こっちへ来い」と合図した。
俺は歩み寄った。
彼は二籠のコインを用意し、一籠を俺に差し出す。
赤いプラスチックの籠は、ずっしりと重たかった。
「何を遊ぶ?」
「別に、何でも」
「何でもって、はっきりしろ」
「……クレーンゲーム」
宗一郎は壁際に並ぶクレーン機をちらりと見ただけで、黙ってそちらへ歩き出した。
俺も後を追った。
2
機械の中には丸々と太った柴犬のぬいぐるみが入っていた。茶色い毛に黒い瞳、うつ伏せになっている。
俺はコインを二枚投入した。
レバーを左へ、次に右へ動かし、ぬいぐるみの体に狙いを定めてボタンを押す。
アームが下りていく。
しっかり掴んだ。
持ち上げる。
ぐらりと揺れて。
落ちた。
「……っ」
宗一郎は隣に立ったまま、一言も発さない。
もう二枚コインを入れる。
今度は頭の方を狙う。
アームが掴み、持ち上がり、景品落とし口の真上まで運んだ。
また落ちた。
「この機械、調子悪いだろ」
「機械は悪くない」
「じゃあお前がやってみろ」
宗一郎は俺を見て、機械の前に立ち、コインを投入した。
レバーを操作し、狙いを定めてボタンを押す。
アームが柴犬の腹を挟み込む。
持ち上げた瞬間、ぬいぐるみが半分滑り落ちる。
落とし口の縁に引っ掛かり、中には入らなかった。
「……ほら見ろ」
彼は答えず、再びコインを二枚入れた。
今度はアームの動きで柴犬が落とし口の縁へ押しやられ、傾いた拍子にすとんと中へ落ちた。
宗一郎は屈んで取り出し口からぬいぐるみを拾い、振り返って俺に渡す。
「持っていけ」
俺は受け取った。ふわふわとして、丸くて柔らかい。
「いくら使った?」
「二千四百円」
俺は柴犬の腹を指でつまむ。
「……割に合わないな」
「割に合わないなら、最初からやるな」
俺はぬいぐるみを脇に抱えた。
内心では、悪くないと思っていた。
埼玉のゲーセンでも、昔クレーンゲームに挑戦したことがある。二回とも取れず、それきりやめた。
やりたくなかったわけじゃない。ただ、金の無駄だと思ったからだ。
今は他人の金で遊んでいるから、特別な感慨はない。
ただ、少し落ち着かないだけだ。
隣に立ち、俺の遊ぶ様子を見守り、コインを入れてくれ、取れたぬいぐるみを渡してくれるこの男。
彼が何を考えているのか、俺には分からなかった。
3
「次は何をする?」
「お前が選べ」
宗一郎は店内を見渡し、シューティングゲームの方へ向かった。
台に固定されたプラスチック製の銃が二丁並び、画面にはゾンビが映っている。画質は粗く、ゾンビの顔はぼやけて判別しにくい。
宗一郎は左側の台に立ち、コインを投入した。
「やったことあるか?」
「ない」
「左のレバーで弾倉交換、右のボタンで発砲だ」
「分かった」
画面のカウントダウンが始まる。
三。
二。
一。
ゾンビが四方八方から押し寄せてくる。
一体に狙いを定め、右ボタンを押す。
外れた。
もう一度押す。
体に当たった。ゾンビはぐらつくが、そのまま迫ってくる。
「頭を狙え」と宗一郎の声が隣から響く。
頭に照準を合わせ、引き金を引く。
ヘッドショット。ゾンビは倒れた。
右から二体が突進してくる。
視線を移して撃つ。
一体の頭には当たったが、もう一体は目の前まで迫っていた。画面が揺れ、体力ゲージが大きく減る。
「……まったく」
隣の宗一郎の銃声はリズミカルに響いている。タタタ、タタタ。速すぎず、遅すぎず。
ちらりと彼の画面を覗くと、ゾンビが次々と倒れ、体力ゲージはまだ満タンのままだ。
「どうやって撃ってるんだ?」
「普通に撃ってるだけだ」
「無駄なこと言うな」
宗一郎が小さく笑った。
俺は自分の画面に視線を戻し、再び撃ち続ける。
またヘッドショットを決めるが、見逃した敵が現れる。体力ゲージは半分を切った。
「弾を交換する時、じっと立ってるな」
「分かってるって――」
左からゾンビが飛びかかってくる。振り返って発砲するも、外れる。
敵が目の前に迫り、画面一面が赤く染まった。
GAME OVER
画面の文字を見つめる。
宗一郎はまだプレイを続けており、スコアは俺の倍になっていた。
俺は隣で待機する。
彼が最後のゾンビを倒し、銃を置く。
「もう一局やるか?」
「やる」
宗一郎がコインを投入し、カウントダウンが始まる。
今回は集中してプレイした。手を安定させ、頭を狙ってから撃つ。弾交換の際は一歩下がる。
ゾンビは次々と倒れていく。
体力が半分残ったところで、一ラウンドが終了した。
画面にROUND 2と表示される。
ゾンビの数は増え、動きも速くなった。
一体を撃ち倒すも、二体を見逃し、体力ゲージがまた減っていく。
「右だ」
宗一郎の声に従って視線を移すが、二体のゾンビは既に目の前まで来ていた。
発砲し、一体を倒す。残った一体が飛びかかる。
体力ゲージがゼロになった。
GAME OVER
「……またやられた」
宗一郎はまだプレイ中で、画面のゾンビがなぎ倒され、体力も大半が残っている。
俺は黙って彼の姿を眺めていた。
彼の手は極めて安定している。発砲に慌てる様子もなく、弾交換もスムーズだ。凄腕というわけではなく、ただ――慣れている。何度も繰り返してきた動きだと分かる。
最後の敵を倒し、宗一郎が銃を置く。
「まだ続けるか?」
「もういい」
「じゃあ別のをやろう」
4
太鼓の達人。
二台の太鼓が並んで設置されている。宗一郎が左、俺が右に座る。
彼はアニメソングを選んだ。前奏が流れると、聞き覚えのあるメロディだと分かる。曲名までは思い出せない。
赤青赤青。赤赤青。
俺は叩き始める。
ドン。カッ。ドンドンカッ。
宗一郎も叩いているが、リズムが少し乱れている。
ドン。カッ。ドン――
一拍遅れた。
俺が彼を一瞥すると、宗一郎は画面をじっと見つめ、表情を崩さない。
中盤の高速連打区間に差し掛かる。
ドンドンドンドンドン――
俺は必死にバチを振る。
宗一郎は二拍ほど遅れを取った。
曲が終わる。
僅差ではあったが、俺の勝ちだ。
バチを置く。
「下手だな」
「ああ」宗一郎は手首を揉む。「歳だ」
「三十五歳で歳ってことはないだろ」
「十八歳と比べれば、十分歳を取ってる」
平坦な口調だ。愚痴でも自嘲でもなく、ただ事実を述べているだけのようだ。
手首を揉む仕草を眺める。
指は長く、関節がくっきりと浮き出ている。爪は短く切り揃えられ、身だしなみに気を遣うタイプではないらしい。
神崎詩織の指を思い出す。
彼女の指も長いが、いつも薄い色のマニキュアが塗られている。
何が違うのか、言葉にできない。
「何を見てる?」
「別に」
宗一郎は立ち上がり、格闘ゲームの方へ歩き出す。「これをやろう」
俺も後に続いた。
5
格闘ゲーム。二人並んで座り、それぞれコントローラーを手に取る。
宗一郎がコインを投入し、仮面をかぶったキャラクターを選ぶ。俺は適当に一人を選んだ。
カウントダウン。
三。
二。
一。
ボタンを連打すると、操作キャラが突進して蹴りを繰り出す。
ガードされた。
宗一郎が二つのボタンを押すと、彼のキャラが背後に回り込み、連続技を繰り出す。
俺の体力ゲージが半分に減る。
「選んだキャラは足が遅い」
「最初から言ってくれればいいのに」
「言ったところで、キャラを変えるのか?」
「変えない」
宗一郎が微かに笑った。
二回目の対戦。ガードを意識して構える。彼の攻撃を大半防ぐが、投げ技を決められ、キャラクターが地面に叩きつけられる。
体力がまた減る。
「投げ技はガードできない」
「また言わなかった」
「聞かなかっただけだ」
三回目。攻撃を仕掛けてみようと思う。
突進し、パンチやキックのボタンを無造作に連打する。
大半はガードされたが、一発の蹴りが決まる。
体力が十分の一ほど減った。
直後、宗一郎の連続技が襲いかかる。
K.O.
画面に大きな赤文字が浮かぶ。
コントローラーを置く。
「よくこのゲームをやってたのか?」
「大学時代によく対戦していた」
「大会とか?」
「ああ」
「……なら最初から言ってくれよ」
「聞かなかっただろ」
K.O.の文字を見つめる。
少し苛立ちを覚える。
負けたからじゃない。
対戦が終わった後の、彼の表情が気に食わなかった。無表情のまま、勝ったことも気に留めず、コントローラーを戻して立ち上がる。
こちらを向くこともない。
「行こう」
「どこへ?」
「お腹が空いた。何か食べよう。遊び疲れた」
6
ラーメン屋はゲーセンの向かいにあった。
こじんまりとした店で、カウンター席は八席しかない。奥にはエプロンに油汚れのついた店主のおじさんが立っている。
宗一郎は奥側、俺は手前側に座る。
壁にメニューが貼られており、醤油ラーメンと味噌ラーメンの二種類だけだ。
「醤油で」と宗一郎が店主に声をかける。
「俺も同じ」
店主は頷き、麺を茹で始める。
店内は静かで、テレビからはニュースの音が小さく流れている。カウンターのやかんから湯気が立ち上る。
自分の手を眺める。
ゲームをしている時は気にならなかったが、今になって指がだるく感じる。
宗一郎は隣に座り、肘をカウンターにつき、壁のメニューをぼんやりと見つめている。
「神崎さん」
「ん?」
「普段はゲームなんてしないのか?」
「もうやらなくなった」
「どうして?」
「時間がないし、一緒に遊んでくれる相手もいない」
彼はこちらを向かずに答える。
横顔を眺める。
以前より少し痩せたようだ。顎のラインがくっきりし、目の下にはくまができている。
ゲーセンでは気づかなかったが、店内の明るい照明の下ではっきりと見えた。
ラーメンが運ばれてくる。
湯気が顔一面にかかる。
箸を割り、大きく麺をすする。
熱い。
だが美味しい。
勢いよく麺をすする俺の姿を、宗一郎は咎めない。
彼はゆっくり食べ進める。まずスープを一口飲み、それから麺を箸で取る。
俺が半分ほど食べ終えた頃、彼はまだ三口しか食べていない。
手を止めて彼を見る。
「お腹が空いてないのか?」
「空いてる。ただ熱いだけだ」
「……吹けばいいのに」
宗一郎が俺を一瞥し、箸に取った麺にそっと息を吹きかける。
真剣な様子でその動作を繰り返す。
三十五歳の男が、ラーメンに息を吹きかけている姿を見て、視線を戻して再び食事を続ける。
麺を食べ終え、スープも飲み干す。
俺が丼を置いた時、宗一郎の丼にはまだ大半の麺が残っていた。
「食べるのが遅すぎる」
「食べるのが速すぎる。胃に悪い」
「大丈夫だ」
宗一郎はそれ以上言わず、黙々と食べ続ける。
俺は隣に座り、指でカウンターを軽く叩く。
柴犬のぬいぐるみが丼の隣に置かれ、丸い瞳でこちらを見つめている。
手に取っては、また戻す。
店の外には待ち客が並び始めた。
店主がこちらをちらりと見る。
宗一郎は食べるスピードを上げた。
7
ラーメン屋を出ると、渋谷のネオンサインが一斉に灯っていた。
風が少し冷たく頬に触れる。
手には柴犬のぬいぐるみを持ったままだ。
宗一郎は俺より半歩前を歩く。
信号機の前で立ち止まり、彼が振り返って俺を見る。
「楽しかったか?」
「まあまあだ」
「まあまあって、どういう意味だ?」
「ただ、まあまあだって」
宗一郎が口角を少しだけ上げる。
大きく笑うわけではなく、わずかに表情が緩んだだけだ。
それから正面の赤信号を見つめ直す。
青信号に変わる。
彼が歩き出す。
「ついてこい。はぐれるなよ」
俺も足を進め、横断歩道を渡る。
周囲には大勢の人が行き交っている。
誰も俺たちに目を留めない。
手の中のぬいぐるみを強く握り、形が歪む。
力を緩める。
明日はまたあの家に戻らなければならない。詩織は留守で、宗一郎がそこに住むことになっている。
これからどう接すればいいのか、正直分からない。
だけど今日は、悪くない一日だった。




